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2013年9月25日水曜日

聴覚世界

http://yomitoki2.blogspot.jp/2013/08/blog-post_18.html

に書いたことの続きである。図にしてみた。


芸術言語で記載された内容は、正解が無い。
正解とは理論言語で表記するという意味であり、
違う場所にある芸術言語と理論言語を自由に行き来することは、
元来不可能だからである。


和歌を完全に理論言語で表現出来るならば、
音楽を通常言語で語れるはずであり、
関数を和歌で表現できるはずである。
だがそれは無理である。


ちなみに、現在および未来の経済政策も、
この図ひとつである程度考えられる。
IT化によって社会に循環する情報は増大した。
だいたい以下の図の感じで増大したのである。


見てわかるように、
言語、音楽はIT化によって大量にコミニュケーション量が増大したが、
数字系コミニュケーションはさほど増大していない。

Youtube使っとる10代の連中には想像もつかんだろうが、
私が若かりし日には、音楽を聞こうと思ったら、レコードなんて高かったから、
FMエアチェックなんてものをして、要するにラジオを録音して聞いていたものであるが、
今はどんな音楽でも無制限に聞ける。
音楽情報の流通は、爆発的に増大しているのである。
しかし、いいねもリツイートも、しないひとには縁がない。
確かに年々盛んになっているが、音楽、言語ほどの増殖に勢いは無いのである。


音楽、言語の増殖を担ってきた旧来型メディアの
テレビ、映画、出版社はすっかり斜陽産業になっている。
数字=貨幣情報がITによって増殖できるようになっているならば、
本来銀行も斜陽産業になっているはずである。それがそうなっていないのは、
中央銀行→市中銀行と流れる法定貨幣のシステムに、取って代わるようなシステムがまだ出現していなからである。


具体的には、
Amazonなどのポイントが貨幣化するなり
「いいね!」が貨幣化するなりの道のりではないかと思うのだが、
こういう流れは二十年くらいかつ浮かびかつ消えて、
久しく実現化したる試しなしである。


考えれば、例えば日本でも江戸中期には全国的に寺子屋が広がって、
言語のほうは大量に拡大していったが、
紙幣は地方政府の藩札こそあったものの、
その拡大は言語にくらべれば遅々たるものであった。
大規模な紙幣の広がりは、明治維新を待たなければならない。
言語の広がりより、数字の広がりのほうが遅れるのである。


その原因として考えられるのは、

1、そもそも人間は数字よりも言語が得意、
というより国語嫌いより数学嫌いのほうが多い


2、貨幣は背後に強権が必要になる。Googleくらいの大きな会社ならば強権に近いものを持っていると思うし、実際ベルギーやモンゴルよりは権力ありそうなのだが、警察権持っていないのは致命的である。国家が中央銀行を守るように、IT企業の貨幣的活動を守るようにならなきゃ、なかなか実現難しい。

あたりだろうか。

いずれにせよ信用創造の主役が交代するまでは相当なタイムラグが有る。
その間はリフレ政策でしのいでゆくしか無い、ということがこの図から分かるのである。
かなり大規模な政策転換だから、あと20年くらいかかりそうな雰囲気である。

2013年9月23日月曜日

「千と千尋の神隠し」考察2

「千と千尋の神隠し」は、
バブル崩壊で苦しむ日本の再生を願った、
宮崎駿なりの文明論的日本再生マニュアルである。


文明論としての構造はそこここらに見つけることができるが、
まずはネット上でよく言われる名前問題。
千尋のフルネームは「荻野千尋」である。
これを湯婆婆との契約書では、
意図的にかどうか知らないが、
荻の火の代わりに犬と書く。
だから名前を完全には奪われなかったのだ、とする解釈が、
ネット上で広く流布している。
間違っては居ない。
しかしもう少し掘り下げて考えてみる。


古代中国の文明では、
中国人自身は世界の中心に居る中華、あるいは中夏と表現される。
そこをとりまく異民族は、
東夷
北狄
西戎
南蛮
である。
東夷は、魏志倭人伝の正式名称
「三国志魏書東夷伝倭人の条」を見ればわかるように、
東に住む住民である。
北狄は北方狩猟民
西戎は西方遊牧民
南蛮は南方の住民である。
(このうち東と南は比較的水の多い地域に住む)


さてところで北狄の狄の字に草冠をつけると、
荻になる。
千尋は間違って火のかわりに犬の字を書いたが、
西戎は別名犬戎とも言う。
つまり荻野千尋は元来、西戎ないし北狄である。
実際最初に原っぱで沢山の石の像の、
カエルやら人やら、不気味な姿が立っているが、
これらは基本的に中央アジア遊牧民の建てる石人に類似している。


さて、千尋の異世界での仕事のメインは、
オクサレサマとハクの救済、
つまり川の救済である。
ところが、
東夷および南蛮の世界では、
川は神様であり、かならず龍の姿で描かれる。

というわけで、
「千と千尋の神隠し」は、
西戎北狄が、東夷南蛮と再会する物語ともいうことが出来るのである。

2013年9月22日日曜日

「千と千尋の神隠し」考察 1

人は核兵器を危険なシロモノだと言うが、そして実際危険なのだが、
核兵器は物語ほどは危険ではないし、殺傷能力もない。
バイブル、コーラン、資本論、それらがどれほど多くの人間を殺傷してきたことか。
近くはポルポト、スターリンの例だけで十分であろう。
そしてそれは、それらのテキストが悪いものだったからでもなく、
良くないものだったからでもなく、
大変良いもの、大変優れていたものだったからこそおこった現象なのである。
大変優れたテキストは、多くの人々に伝播し、多くの人々の考えを支配し、
社会を巨大な幻想でドライブする。
それらの毒を消す方法はただひとつ、そのテキストの内部構造を明らかにし、
素晴らしさの源泉を十分解明すること、言い換えれば素晴らしさを消費し尽くすことである。
それは、批判ではない。批判は多くの場合、素晴らしさを強化する。

そして今日私達日本人は、素晴らしい物語作家を手にしている。
例えば宮崎駿だが、氏の「千と千尋の神かくし」などは、
観客動員数2300万人である。
その後のテレビ放映、DVD、BRの販売を考えれば、
ほぼ日本人全員が鑑賞していると言ってさしつかえない。
言い換えれば、ほぼ日本人全員が洗脳されていると言ってさしつかえない。
私は近年、そのことに気づいた。
今まで日本に’住んでいると思っていたが、
住んでいたのは「ジブリランド」という国で、
昔日本と呼ばれていた場所らしいと気づいた時の驚き!!
そして物語を無毒化するべき役割を背負うはずの映画批評家には、
残念ながらこの大作を解析する力量を持つものがほとんど居ない。
私が昔若かりし頃、ミニコミ紙に映画批評のようなものを書いている時、驚いたのは、
「もののけ姫」あるいは押井の「攻殻機動隊」のような傑作映画をまともに批評できる人物が、
ほとんど存在していなかったのである。
甲殻にかんしては当時は一人も居なかった。
ある批評家はいけしゃあしゃあと「よく理解できなかった」と書いていた。
だったら5回見ろ、と言いたくなったが、ともかくそんな具合では、
宮崎駿のような巨匠の手のひらから一歩も出れない。
元気が良い奴がたまに手のひらの中をグルグル廻っているのが関の山で、
元気の無い奴は手の真ん中でへたり込んでる状態であった。
千と千尋の公開は2001年、
日本は当時からデフレであったのだが、
結局アベノミクス発動によるデフレ改善のこころみまで、10年以上の歳月を必要とした。
その原因の一端はおそらく、千と千尋の神隠しにある。
「千と千尋の神隠し」はバブル、インフレ、信用創造を否定している。
そこのとに罪は無い。アニメ作家が現実経済の運営に責任あるはずがないし、
理念や世界観を元にしなければ、どんな作品だってつくりようがない。
宮崎駿の経済観は大変幼稚なものであり、
少々でも経済をかじった人間ならば、
簡単に反論ができるようなものでしかない。
「労働価値説?金本位制?
ジブリがスタッフに払うお金も、不換紙幣だよ?」
言ってみれば人畜無害な経済哲学である。
しかし問題なのは、千と千尋の神隠しがすばらしく構成された内部構造を持ち、
超人的な演出能力、ジブリスタッフの作画能力、久石譲の音楽と相まって、
途方も無い説得力を持つ物語に仕上がっているということであり、
それは大変幸福なことで、私達日本人はそれを誇りとすべきなのだが、
どんな幸運でもメリットだけということはありえない。
巨大すぎるグットラックには、それ相応の影があり、
そのマイナス部分の毒消しをすることを、どうやら私達日本人は失敗してきたようなのである。
分不相応なほどの天才の作品を、私達の社会は享受したあげくに、
十年以上対価を支払わされ続けていた、というのが、
近年の日本経済の真相なのであろう。
デフレの慢性化によって、
日本の経済成長率は低く抑えられ、
中国の高度成長もあって、東アジアの軍事勢力地図が大幅に変動し、
安全保障体制が不安定化し、尖閣、沖縄、対馬は領土簒奪の危機に瀕している。
なんのことはないカオナシの情けない姿で膨大な人間の生活が危機に面するのである。
そしてくりかえすが、宮崎駿に責任は無い。
作家として最善のものを作った結果、東アジアの安全保障に影響を与えたとしても、
そこまで考えていちゃなんにもつくれないわけで、
言ってみれば田舎の高校野球のチームに突然ダルビッシュのような奴が来て、
町中熱狂した挙句に仕事がおろそかになって街がさびれる、という現象なのであるから、
腕も折れよと投げまくるダルビッシュさんへの批判はやめていただいて、
街の人々が正気を取り戻すべき、と私は考えるのである。
正気を取り戻す方法は、ダルビッシュを否定することでも、毛嫌いすることでもない。
それは正気から遠ざかる道である。
唯一の方法は、ダルビッシュを完全に理解し、消化し、包容することである。
そんなわけで「風立ちぬ」も「おおかみこども’」も途中だが、
千と千尋の神隠しの考察も始める。