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2019年8月23日金曜日

戦後体制の終焉

戦後体制とはなにか。一言で言えばアメリカとイギリスが、ドイツと日本を抑え込む体制である。ソヴィエトだの、最近の中国だのは、脇役である。主役は英米、彼らの敵は日独、たったこれだけの単純なゲームが戦後という時代である。

あまりにも単純すぎるからこそ、ソヴィエトだの中国だのベトナムだのイラクだの色々トリックスターを投入して派手に演出してきた。だが物語の主演、助演はあくまで英米と日独である。国家としてのポテンシャルがそれだけ高いのだから、どうしてもそうなるのである。

どうやって日独を抑え込むか。ドイツを抑え込む為に使われてきたのがユダヤである。日本を抑え込むために使われてきたのが韓国である。アングロサクソンはこういうの、大好きなのである。韓国に加えて、江沢民以降の中国も「アメリカの日本押さえの一翼を担います」と宣言して、経済成長を許された。

さて、文政権の性格を熟知した安倍総理は、「アメリカの韓国を使った日本封じ込め」を解除する作戦に出た。前線に立ったのは河野外務大臣と世耕経産大臣である。二人はガリガリ突っ込んでいった。そしてとうとうGSOMIAが破棄された。これをもってほぼ、日本と韓国は分離されたと言ってよいだろう。つまり「アメリカの韓国を使った日本封じ込め」は解除されたと言ってよいだろう。つまり、戦後体制は終焉したと言ってよいだろう。

疑いようもなく、安倍晋三は外交に関しては天才である。いいもの見せていただいた。感嘆の声しか出ない。一般庶民としては経済政策もう少し頑張っていただきたい。しかし仮に自分が飢えて死んだとしても、安倍さんを恨む気持ちは無い。

一応今後のことも少し考えておこう。アメリカにとっては事実上日本が制御不能になった瞬間でもある。もっとも軍事力に差がありすぎるから、完全に手を離れたわけではない。アメリカが優位であり、エネルギー供給を握っている限り日本は簡単には反米にはならない。
問題は、前述の経済である。日本とアメリカの経済成長が連動するシステムを考えなければならないのだが、(そうしないとアメリカの恐怖を掻き立てる)私には考える力がない。課題である。

2019年8月20日火曜日

議論の不足

「私の個人主義」解説【夏目漱石】
https://matome.naver.jp/odai/2156594255106501101

アップした。
たかが講演でも、伏線張っていたとは驚きである。

内容については、読者各人ご判断されたいのだが、仏教的内面掘り下げと、儒教的公益思想には、どうにもならない矛盾ある。

仏教がインドから中国に流入し、一時期は確かに流行したが、「三武一宗の法難」と言われるように、徹底的な弾圧を食らったりもした。
ブッダ自信が王子でありながら出家し、実際にシャカ王国は滅亡してしまったのだから、国家運営という意味では最悪の部類である。流石に中国人はそのあたりの感覚鋭敏で、仏教特有のアナーキズム、エゴイズムを再三指摘してきた。

個人と社会はどこまでいっても矛盾する。たとえ独裁者になっても他国との関係でストレスを抱え込む。金正恩を見よ。ところが仏教は儒教とは無関係に発達した宗教だし、儒教は仏教伝来以前から中国にある。そして日本では(三教指帰など一部の例外を除き)本格的な比較検討をせずに、ただひたすらに受容してきた。となると両者の妥協ポイントは理論にではなく、社会の有りかたになる。意識せずに儒教と仏教を使い分ける社会を構築して、安住したのである。具体的には、公的な場での儒教であり、プライベートな生死の局面での仏教である。それはそれで良い。問題はない。

しかしそこへ西洋近代文明が入ってきたから、さあ大変である。西洋キリスト教社会とは価値観も社会観も生死観もまるで違う。理解して受容しなければならないのだが、そもそも仏教とはなにで、儒教とはないかという議論をサボってきたのである。収集のつかない混乱である。

混乱の被害者が夏目漱石である。日本社会が良いとも思わない。イギリス社会が良いとも思わない。正直どちらも不満である。でもはっきりと言葉にできない。文豪に大変失礼だが、解析能力がないのである。そしてその責任は、たいして議論も解析もせずに千数百年をやりすごしてしまった日本社会の歴史そのものにある。

2019年7月22日月曜日

「ファウスト」追記2

「ファウスト」の最後はバウキスとピレーモーンの話である。
既存の解説書は「バウキスとピレーモーン」もどうも理解できていない。
普通に異人交易譚である。

再掲すると

「「ある集落に神々(ゼウスとヘルメス)が、旅人に変装して二人連れで訪ねてくる。しかしどの家でも見慣れぬ旅人を歓待しようとしない。ただ老夫婦のパウキスとピレーモンだけが歓迎して家に入れてくれる。やがて食べ物が減らないことに老夫婦は気づく。彼らは神々なのだと気づく。

すると神々は、私達についてこいと命ずる。家を出て神々の後に従う老夫婦、振り返ると集落は全て洪水で水没し、老夫婦の家だけが立派な神殿になっていた。

神々になにか望むことはないかと聞かれた老夫婦は、神殿の神官として暮らしたい。そして互いに葬式をあげることなく、死ぬときは二人一緒にしたい、と伝える。

やがて神官として年老いた二人が語り合っていると、互いの体から木の芽が生えててきていることに気づく。最後の時と悟った二人は、共に感謝の言葉を交わしながら、二本の樹木に変化する。二本の樹木は今も神殿の脇に立っている」


後半の樹木になるというところは、一旦措く。
前半は典型的な交易譚である。

交易の原初形態は「旅人」だろうと思われる。
太古の小規模な集団で生活していた。集団はゆっくり移動していた。移動していたなら交易は必要ない。どこでも行けるからである。しかし徐々に定住する。完全に定住しないまでも、定住の度合いが高まる。
ところで、昔から群れからはみ出した人間が居る。若いオスである。人の群れのボスを殺して、そこのメスを自分のものにする。しかしボスに負けて追い払われるかもしれないし、そもそも群れに出会わないかもしれない。彼らが「旅人」である。原初の商人である。

「旅人」は群れに帰属できないものだから移動する。移動は結果として交易になる。なんらかの利益を、旅人にも、群れにも提供する。しかし旅人にボスを殺されてはたまらない。利益は欲しいが暴力が怖い。ではどうするか。
元来旅人が群れに近寄るのは、女性と寝るためである。だからそれだけは確保してあげる。そんな習慣が日本の村にはあった。旅人が来ると奥さんを提供するのである。

「この世界の片隅に」にもその習慣の残滓がある。
https://matome.naver.jp/odai/2148672009841452301

「バウキスとピレーモーン」は老夫婦の話である。さすがに奥さん提供してもどうしようもないから、食べ物飲み物を一生懸命提供する。すると神々を迎え入れなかった家が全滅し、老夫婦は生き残るのである。「だから旅人は暖かく向かい入れろ」というのが、この話の主題である。

日本昔話の解説【瘤取り爺さん・一寸法師・桃太郎・浦島太郎・花咲か爺さん・他】
https://matome.naver.jp/odai/2154376918606256601

に書いたように、昔話は異人交易異常に多い。これこそが経済学の始原だと思うのだが、現在の文学は(ゲーテが頑張ったのにもかかわらず)経済についての言及が非常に少ない。人間社会が政治と経済、言い換えれば軍事と商売で成り立っている以上、本来は文学が扱わないということはありえない。しかし文学が、文学にしか興味がない人のものになってしまい、社会に対する文学者のトータルな理解は壊滅的な状況になってしまった。だから「ファウスト」の意味がわからない。

「ファウスト」では「バウキスとピレーモーン」をひっくり返して表現している。ファウストはあくどい海賊貿易に手を染めている。本人は真面目な努力をしていると思い込んでいる。しかし交易の原初的な姿を焼き滅ぼしているのが、ファウストなのである。よって命が絶たれる。

「ファウスト」では人間の欲望を否定はしていない。人間はそういうものだとみなしている。だから欲望の肥大化である通貨発行も必ずしも否定していない。だからこそ、「交易の否定」は否定する。戦争による金銀財宝の獲得さえ否定しないのだが、交易原理は守ろうとするのである。

このあたりの解釈、どうも専門家で全く俎上に登っていない。ゲーテ専門家、ドイツ文学研究家が、経済に興味がないからである。つまり「ファウスト」に興味がないからである。経済の初歩などたいして難しいものではない。ドイツ語のマスターの10万分の1くらいだろう(無論極めるのは大変だろうが)。でもその初歩を考えられない。よってゲーテの「ファウスト」は読まれない。