「ファウスト」の最後はバウキスとピレーモーンの話である。
既存の解説書は「バウキスとピレーモーン」もどうも理解できていない。
普通に異人交易譚である。
再掲すると
「「ある集落に神々(ゼウスとヘルメス)が、旅人に変装して二人連れで訪ねてくる。しかしどの家でも見慣れぬ旅人を歓待しようとしない。ただ老夫婦のパウキスとピレーモンだけが歓迎して家に入れてくれる。やがて食べ物が減らないことに老夫婦は気づく。彼らは神々なのだと気づく。
すると神々は、私達についてこいと命ずる。家を出て神々の後に従う老夫婦、振り返ると集落は全て洪水で水没し、老夫婦の家だけが立派な神殿になっていた。
神々になにか望むことはないかと聞かれた老夫婦は、神殿の神官として暮らしたい。そして互いに葬式をあげることなく、死ぬときは二人一緒にしたい、と伝える。
やがて神官として年老いた二人が語り合っていると、互いの体から木の芽が生えててきていることに気づく。最後の時と悟った二人は、共に感謝の言葉を交わしながら、二本の樹木に変化する。二本の樹木は今も神殿の脇に立っている」
後半の樹木になるというところは、一旦措く。
前半は典型的な交易譚である。
交易の原初形態は「旅人」だろうと思われる。
太古の小規模な集団で生活していた。集団はゆっくり移動していた。移動していたなら交易は必要ない。どこでも行けるからである。しかし徐々に定住する。完全に定住しないまでも、定住の度合いが高まる。
ところで、昔から群れからはみ出した人間が居る。若いオスである。人の群れのボスを殺して、そこのメスを自分のものにする。しかしボスに負けて追い払われるかもしれないし、そもそも群れに出会わないかもしれない。彼らが「旅人」である。原初の商人である。
「旅人」は群れに帰属できないものだから移動する。移動は結果として交易になる。なんらかの利益を、旅人にも、群れにも提供する。しかし旅人にボスを殺されてはたまらない。利益は欲しいが暴力が怖い。ではどうするか。
元来旅人が群れに近寄るのは、女性と寝るためである。だからそれだけは確保してあげる。そんな習慣が日本の村にはあった。旅人が来ると奥さんを提供するのである。
「この世界の片隅に」にもその習慣の残滓がある。
https://matome.naver.jp/odai/2148672009841452301
「バウキスとピレーモーン」は老夫婦の話である。さすがに奥さん提供してもどうしようもないから、食べ物飲み物を一生懸命提供する。すると神々を迎え入れなかった家が全滅し、老夫婦は生き残るのである。「だから旅人は暖かく向かい入れろ」というのが、この話の主題である。
日本昔話の解説【瘤取り爺さん・一寸法師・桃太郎・浦島太郎・花咲か爺さん・他】
https://matome.naver.jp/odai/2154376918606256601
に書いたように、昔話は異人交易異常に多い。これこそが経済学の始原だと思うのだが、現在の文学は(ゲーテが頑張ったのにもかかわらず)経済についての言及が非常に少ない。人間社会が政治と経済、言い換えれば軍事と商売で成り立っている以上、本来は文学が扱わないということはありえない。しかし文学が、文学にしか興味がない人のものになってしまい、社会に対する文学者のトータルな理解は壊滅的な状況になってしまった。だから「ファウスト」の意味がわからない。
「ファウスト」では「バウキスとピレーモーン」をひっくり返して表現している。ファウストはあくどい海賊貿易に手を染めている。本人は真面目な努力をしていると思い込んでいる。しかし交易の原初的な姿を焼き滅ぼしているのが、ファウストなのである。よって命が絶たれる。
「ファウスト」では人間の欲望を否定はしていない。人間はそういうものだとみなしている。だから欲望の肥大化である通貨発行も必ずしも否定していない。だからこそ、「交易の否定」は否定する。戦争による金銀財宝の獲得さえ否定しないのだが、交易原理は守ろうとするのである。
このあたりの解釈、どうも専門家で全く俎上に登っていない。ゲーテ専門家、ドイツ文学研究家が、経済に興味がないからである。つまり「ファウスト」に興味がないからである。経済の初歩などたいして難しいものではない。ドイツ語のマスターの10万分の1くらいだろう(無論極めるのは大変だろうが)。でもその初歩を考えられない。よってゲーテの「ファウスト」は読まれない。