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2021年5月30日日曜日

責任の処理方法の考察・7

 再現性のない知識集団では、知識の妥当性よりも世間が優先されると前回書いた。

つまり再現性のない分野の研究者の集合は、

再現性のない分野の研究者単独よりも、確実に愚かになる。

「三人集まらなければ文殊の知恵」である。


この20年の経済学者の不始末の最大の原因はここにあるだろう。集まって世間を作ったがゆえに、最も愚かしい判断に加担してしまった。集まらなければ良い判断ができた可能性もある。


困ったことに、人間は一人よりも集団のほうが確実に強い。

集団になると愚かになる。しかし集団のほうが強い。だから経済学者たちは愚かな政策を強く推進してしまった。となるとこの20年の経済政策に関して、改善策がないということになる。


現在主流派のうち多くはMMTから目をそむけている。徐々認知する方向にゆくのだろうし、「闇のプリンス」サマーズが没落すれば大勢は決すると思われる。敗北した経済学者たちは再編されて、紆余曲折のもと新しい集団が形成される。その新しい集団は、前の集団と同じく「世間」にまみれたものになる。そしてふたたび前の集団と同じく凡庸化が進行し、同じように愚劣化し、同じように日本にとってのガンになる。


「しかし似たようなことは西洋でも起きるではないか」

起きると思う。そういう世間圧力による凡庸化から逃れられる人間集団は考えにくい。しかし日本の場合はその頻度がおそらく高い。日本文化が、人々の距離を近づけ、繊細な表現で感情を共有するのに適した文化だからである。そのような文化の特徴はメリットになることもあるが、少なくとも再現性がない分野での凡庸化は促進させてしまうデメリットはある。


となると、実は責任は経済学者にあるのではなく、日本社会にあるのではないか。


この点について以前少し考察した。


https://note.com/fufufufujitani/n/n49fd6b79b5a9


経済学者が「自由に」考えることを、日本社会は許容しない。すくなくとも、多くの経済学者は許容しない。自分が自由に考えていないからである。

財務省系の学者は、判で押したように、「消費税以上に社会保障費の上昇がまずい」と盛んに言い募る。言えば云うほど消費税のまずさが際立つのだが、どうも気づいていないようである。これまた自由がない。学者で発言の自由がないということは、事実上学者ではないということなのだが、それでも世間的にはそう通っていて、実をいうとどの程度民衆をいじめ倒すか、その塩梅については自由がある。ムチは絶対に振るわなければならない。振る回数は個人の自由である。

2021年5月25日火曜日

責任の処理方法の考察・6

 今まで見てきたように、経済問題の責任を考えると、どうしても軍事と医学の責任と似通ってくる。

再現性がなく、社会全体に影響を及ぼし、理屈自体は無限に立てられるが、観測が実際に難しい。そういう問題は「責任」を考えること自体難しいのだ。政治も同じであって、政治家の責任、責任と連呼されるが、実際にはどこからどこまで政治家の責任かあきらかな例は乏しい。

軍事で考えてみよう。戦争は相手の裏をかけば一気に有利になる。それは誰でも知っている。

しかしもしも大学に軍事学の大家が居るとして、その方は大家なのだから、大抵の軍事理論を知っている。軍事理論が全て、さのみ信頼できるものでないことも知っている。その大家に作戦のお伺いを立てる。すると大家は、なにしろ博学だから、常識的な作戦を提言するだろう。全ての作戦の平均が、常識的な作戦だからである。となると、大家の立てる作戦は相手の裏をかけない。そして相手は、「敵は大家が作戦を立てるから、かならず常識的な作戦をたてるであろう。裏をかいてやろう」とする。となると、大家に作戦立案を委任した時点で、実はすでに不利になっているのである。なぜなら、大家は博識だからである。もしも軍事学の大家を使って戦争に勝利したいならば、やりかたは一つしか無い。大家に作戦を立てさせ、その裏をかく作戦を参謀本部が立案することである。つまり大家をダシにする。誰よりも優秀で誰よりも努力した人間の利用価値が、ダシとしての価値なのである。


人間はなんのために勉強するのか、悩んでしまうような結論である。勉強はしばしばマイナスになる。再現性がなく、観測も難しい系の勉強はきわめてしばしば、必然的に凡庸を生産してしまう。勉強しなほうがマシなのである。勉強したから負けるのである。

筆者は主に文学解析をし、たまに経済問題を考える程度の人間である。文学については、勉強はしていないが研究は結構やってきた。だから明快に言える。下手な勉強は確実に実力を損なう。勉強すれば賢くなるというのは神話である。再現性のある系、証明可能な系では勉強量と実力は基本的に比例する。再現性がない、証明不能の場合には、勉強で凡庸さを獲得する確率のほうが高い。しらずしらずのうちに、知力が社会に飲み込まれてしまうのである。

今漱石を半分くらい読み解いたが、いわゆる大家たちの論評はどれもこれもひどいものである。小説の内容にたいする基本的な理解ができていない。自分が漱石と同等の文学的才能の持ち主と勘違いしているのだろう。苦労して読んだ形跡がまるでない。おそらく読めていないことさえ気づいていない。そしてなんにも中身が読めていないのに、大量の評論を書き連ねている。

そのような評論を全部読んで咀嚼するとどうなるか。読む前よりも読んだあとの方が、漱石からは遠ざかるのである。間違いなく「評論界」には近づく。しかし文学からは遠ざかる。それは意味のある努力なのか。それを本当に勉強と呼んでよいのか。蓮見なり柄谷なりの評論を読む学生たちは、ある意味被害者なのである。でもその学生がまた教育者になり、そして又学生を指導し、間違いは拡大再生産されてゆく。

経済も同じである。「神が日本に下した呪い」と成り下がった経済学者たちは、若いころ間違いなく優秀で、間違いなく勉強熱心だった。好き嫌いをせずに目の前の情報を手当たり次第に口に放り込んで咀嚼していった。蓮見、柄谷を口に放り込む人と同じように。その結果凡庸にして、「裏をかかれる存在」になってしまった。彼らは先生たちを信用しなければよかったのだ。だが彼らが経済学者になったのは、先生たちを信用したからだ。

かなりどんづまった状況であることがご理解いただけたと思う。


2021年5月21日金曜日

責任の処理方法の考察・5

 多くの経済学者が、「世間」に従っているだけで、なんら自分の学問的自信に従っていない、というところまで説明した。

ちなみに通常「学問的良心に従っていない」という表現をすることが多いが、それは間違いである。なぜって良心に従って考える人ほど、自分があまりよく理解していないなと感じた際には、人間は自分の判断を主張することをやめ大勢に従うのである。つまり多くの経済学者がなんとなく復興増税に賛成してしまったのは、復興増税に反対しきれるだけの自信がなかったからであって、良心がなかったわけではない。彼らも良心はある。むしろ善良だったりする。でも財政均衡論に対抗するべき主張的根拠を持っていなかった。ひょっとすると40%程度は直感的に「これはまずい」と考えていたと思われるが、直感を口で説明するのは難儀である。よって大勢に流される。


ではどうして自信がなかったか。それは経済学に再現性がないからである。再現性とは実験室のビーカーの中にしかない。実は医学も再現性がないのだが、幸運なことに、あるいは不幸なことに、患者がしばしば死に、あるいはしばしば回復する。よってサンプル数の多さから徐々に正解の方向が見える。ところが経済学の扱う対象は社会全体であって、観測者もその全体の中に含まれる。規模からも立場からも、そして実施と結果のタイムスパンから考えても、精度の高い観測が非常に難しい。


似たような状況にあると思われるのが軍事学である。トルストイが「戦争と平和」で描写したように、実際に軍事行動の際に、なにがどうなっているか把握できている人物は両軍の中に一人も居ない。派遣した部隊は予定通りには行動せず、予期した敵はそこには存在しない。前もっての作戦はほぼ意味がなく、実際に活動中には勝っているのか負けているのか判別がつかない。朦朧たる不可知性のただなかで悶絶し続けるのが戦争の実態であって、予測があり、計画があり、活動があり、結果がある、という品の良いものではない。

そして、もしも日本が戦争を開始した際に、日本人全員がえて勝ってに方針やら予測やらの話をするであろうが、政府の、というか大本営の方針に口出しできる人間は多くないはずである。口出しした結果戦争に負けたなら、口出しした人間は訴追を免れない。と考えると今日の経済学者たちがいかに優遇されているか理解できるだろう。世界中でも有数の経済成長率の低さを達成した以上、彼らは敗軍の軍師である。でも本人たちはまだその責任に気づいていない、あるいは気づいているが見ないふりをしているかである。