再現性のない知識集団では、知識の妥当性よりも世間が優先されると前回書いた。
つまり再現性のない分野の研究者の集合は、
再現性のない分野の研究者単独よりも、確実に愚かになる。
「三人集まらなければ文殊の知恵」である。
この20年の経済学者の不始末の最大の原因はここにあるだろう。集まって世間を作ったがゆえに、最も愚かしい判断に加担してしまった。集まらなければ良い判断ができた可能性もある。
困ったことに、人間は一人よりも集団のほうが確実に強い。
集団になると愚かになる。しかし集団のほうが強い。だから経済学者たちは愚かな政策を強く推進してしまった。となるとこの20年の経済政策に関して、改善策がないということになる。
現在主流派のうち多くはMMTから目をそむけている。徐々認知する方向にゆくのだろうし、「闇のプリンス」サマーズが没落すれば大勢は決すると思われる。敗北した経済学者たちは再編されて、紆余曲折のもと新しい集団が形成される。その新しい集団は、前の集団と同じく「世間」にまみれたものになる。そしてふたたび前の集団と同じく凡庸化が進行し、同じように愚劣化し、同じように日本にとってのガンになる。
「しかし似たようなことは西洋でも起きるではないか」
起きると思う。そういう世間圧力による凡庸化から逃れられる人間集団は考えにくい。しかし日本の場合はその頻度がおそらく高い。日本文化が、人々の距離を近づけ、繊細な表現で感情を共有するのに適した文化だからである。そのような文化の特徴はメリットになることもあるが、少なくとも再現性がない分野での凡庸化は促進させてしまうデメリットはある。
となると、実は責任は経済学者にあるのではなく、日本社会にあるのではないか。
この点について以前少し考察した。
https://note.com/fufufufujitani/n/n49fd6b79b5a9
経済学者が「自由に」考えることを、日本社会は許容しない。すくなくとも、多くの経済学者は許容しない。自分が自由に考えていないからである。
財務省系の学者は、判で押したように、「消費税以上に社会保障費の上昇がまずい」と盛んに言い募る。言えば云うほど消費税のまずさが際立つのだが、どうも気づいていないようである。これまた自由がない。学者で発言の自由がないということは、事実上学者ではないということなのだが、それでも世間的にはそう通っていて、実をいうとどの程度民衆をいじめ倒すか、その塩梅については自由がある。ムチは絶対に振るわなければならない。振る回数は個人の自由である。
0 件のコメント:
コメントを投稿