こちらご覧いただくのが早いのだが、
受動意識仮説では、意識は受動的な役割しか果たさない、とする。 神経が指を曲げる情報を出した後に、意識は「よし指を曲げよう」と考える。あたかも意識自身が指を曲げ始めることができるかのように。 つまり、脳内には無意識の小人が何人も存在しており、それらの合議で行動が決定されるのだが、決定された行動の作業中にようやく意識が、「よし行動しよう」と考えている、ということである。前後逆なのである。ほぼ錯覚である。意識はあくまでも事後的なのである。意識はワンマン社長ではなかった、部下のいいなり社長だった。でもワンマン社長だと思いこんでいる。
では意識はなんのためにあるか。おそらくエピソード記憶のためにある。エピソード記憶に関してはこちら。
https://bsd.neuroinf.jp/wiki/%E3%82%A8%E3%83%94%E3%82%BD%E3%83%BC%E3%83%89%E8%A8%98%E6%86%B6
エピソード記憶に関する情報が少なくて、私の論考もそこで止まっているのだが、ここがおそらく、物語論の基礎になるべき部分であろう。
エピソード記憶とはつまり、物語化による世界理解である。エゴは、エピソード記憶によって、言い換えれば物語によって成り立っている。 嫌なことにどうやら文化によって、受動意識仮説の受容は差があるようである。前野氏がアメリカ人に受動意識仮説を陳述すると、拒否反応だった。インド人に言うと、あっさり受け入れられた。意識に関する意識が文化で大きく異なるのである。
となると物語に関する意識も大きく異なる可能性が高い。ということは、世界共通の「物語論」は現状では成立不能の可能性がある。脳科学がより発展してエピソード記憶に関する多くの知識が集積したのち、はじめて物語論の基礎が確立する。それまでは各文化で勝手に、自分の文化の規定する意識から導き出された物語論を考えてゆくほかないのだろう、残念な結論だが。