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2024年12月6日金曜日

無限の解釈がある?ない?

 よく文学作品は「無限の解釈がある」と言われます。

間違いです。無限にはありません。

文学の解釈の分岐は確かに多いです。

言葉の多義性に起因するものです。


数字意外のたいていの言葉には多義性があります。

「水」と言うとき、物理的な水なのか、精神的な救いなのか、インターバル(水入り)なのか、様々な意味があります。

単語の意味の分岐が平均10通りの時、もしも文章が100語で構成されていたならば、

10×10×....=10の100乗の解釈が最大で成立します。

ある作品が1万語で構成されていたなら、

10の1万乗の解釈が成立します。非常に大きな数になります。しかし無限ではない。有限個数なのです。


言葉の意味自体が有限個数です。言葉の意味は通常は言葉で説明します。つまり言葉の意味=「言葉の数」の「意味を説明する際に通常使用する語数」乗になります。「意味を説明する際に通常使用する語数」は辞書をみますと、50語や100語もあればなんとかなります。大きく見て「意味」=「言葉の数の100乗」くらいです。ところで言葉の数は有限個数ですから、言葉の意味も有限個数になります。


なんでこういうことにこだわるかというと、解釈の分岐はどんな大きな数でもよいので、有限個数であると考えなければ、解釈の分岐の幅を狭める行為が無意味になるからです。解釈の分岐が無限個数ならば、無限はゼロと隣り合わせのやっかいな数ですから、どんなアプローチをしても解釈の分岐は無限のままです。しかし書くことも読むことも無限個数の解釈を想定はしていません。ある程度の解釈の幅を想定しているはずです。ですから文章の解釈は無限だ、という間違った理解は排除しなければなりません。


「作品には無限の解釈がある」という発言は、多くの場合、作品解釈の努力の放棄宣言です。

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