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2013年9月23日月曜日

「千と千尋の神隠し」考察2

「千と千尋の神隠し」は、
バブル崩壊で苦しむ日本の再生を願った、
宮崎駿なりの文明論的日本再生マニュアルである。


文明論としての構造はそこここらに見つけることができるが、
まずはネット上でよく言われる名前問題。
千尋のフルネームは「荻野千尋」である。
これを湯婆婆との契約書では、
意図的にかどうか知らないが、
荻の火の代わりに犬と書く。
だから名前を完全には奪われなかったのだ、とする解釈が、
ネット上で広く流布している。
間違っては居ない。
しかしもう少し掘り下げて考えてみる。


古代中国の文明では、
中国人自身は世界の中心に居る中華、あるいは中夏と表現される。
そこをとりまく異民族は、
東夷
北狄
西戎
南蛮
である。
東夷は、魏志倭人伝の正式名称
「三国志魏書東夷伝倭人の条」を見ればわかるように、
東に住む住民である。
北狄は北方狩猟民
西戎は西方遊牧民
南蛮は南方の住民である。
(このうち東と南は比較的水の多い地域に住む)


さてところで北狄の狄の字に草冠をつけると、
荻になる。
千尋は間違って火のかわりに犬の字を書いたが、
西戎は別名犬戎とも言う。
つまり荻野千尋は元来、西戎ないし北狄である。
実際最初に原っぱで沢山の石の像の、
カエルやら人やら、不気味な姿が立っているが、
これらは基本的に中央アジア遊牧民の建てる石人に類似している。


さて、千尋の異世界での仕事のメインは、
オクサレサマとハクの救済、
つまり川の救済である。
ところが、
東夷および南蛮の世界では、
川は神様であり、かならず龍の姿で描かれる。

というわけで、
「千と千尋の神隠し」は、
西戎北狄が、東夷南蛮と再会する物語ともいうことが出来るのである。

2013年9月22日日曜日

「千と千尋の神隠し」考察 1

人は核兵器を危険なシロモノだと言うが、そして実際危険なのだが、
核兵器は物語ほどは危険ではないし、殺傷能力もない。
バイブル、コーラン、資本論、それらがどれほど多くの人間を殺傷してきたことか。
近くはポルポト、スターリンの例だけで十分であろう。
そしてそれは、それらのテキストが悪いものだったからでもなく、
良くないものだったからでもなく、
大変良いもの、大変優れていたものだったからこそおこった現象なのである。
大変優れたテキストは、多くの人々に伝播し、多くの人々の考えを支配し、
社会を巨大な幻想でドライブする。
それらの毒を消す方法はただひとつ、そのテキストの内部構造を明らかにし、
素晴らしさの源泉を十分解明すること、言い換えれば素晴らしさを消費し尽くすことである。
それは、批判ではない。批判は多くの場合、素晴らしさを強化する。

そして今日私達日本人は、素晴らしい物語作家を手にしている。
例えば宮崎駿だが、氏の「千と千尋の神かくし」などは、
観客動員数2300万人である。
その後のテレビ放映、DVD、BRの販売を考えれば、
ほぼ日本人全員が鑑賞していると言ってさしつかえない。
言い換えれば、ほぼ日本人全員が洗脳されていると言ってさしつかえない。
私は近年、そのことに気づいた。
今まで日本に’住んでいると思っていたが、
住んでいたのは「ジブリランド」という国で、
昔日本と呼ばれていた場所らしいと気づいた時の驚き!!
そして物語を無毒化するべき役割を背負うはずの映画批評家には、
残念ながらこの大作を解析する力量を持つものがほとんど居ない。
私が昔若かりし頃、ミニコミ紙に映画批評のようなものを書いている時、驚いたのは、
「もののけ姫」あるいは押井の「攻殻機動隊」のような傑作映画をまともに批評できる人物が、
ほとんど存在していなかったのである。
甲殻にかんしては当時は一人も居なかった。
ある批評家はいけしゃあしゃあと「よく理解できなかった」と書いていた。
だったら5回見ろ、と言いたくなったが、ともかくそんな具合では、
宮崎駿のような巨匠の手のひらから一歩も出れない。
元気が良い奴がたまに手のひらの中をグルグル廻っているのが関の山で、
元気の無い奴は手の真ん中でへたり込んでる状態であった。
千と千尋の公開は2001年、
日本は当時からデフレであったのだが、
結局アベノミクス発動によるデフレ改善のこころみまで、10年以上の歳月を必要とした。
その原因の一端はおそらく、千と千尋の神隠しにある。
「千と千尋の神隠し」はバブル、インフレ、信用創造を否定している。
そこのとに罪は無い。アニメ作家が現実経済の運営に責任あるはずがないし、
理念や世界観を元にしなければ、どんな作品だってつくりようがない。
宮崎駿の経済観は大変幼稚なものであり、
少々でも経済をかじった人間ならば、
簡単に反論ができるようなものでしかない。
「労働価値説?金本位制?
ジブリがスタッフに払うお金も、不換紙幣だよ?」
言ってみれば人畜無害な経済哲学である。
しかし問題なのは、千と千尋の神隠しがすばらしく構成された内部構造を持ち、
超人的な演出能力、ジブリスタッフの作画能力、久石譲の音楽と相まって、
途方も無い説得力を持つ物語に仕上がっているということであり、
それは大変幸福なことで、私達日本人はそれを誇りとすべきなのだが、
どんな幸運でもメリットだけということはありえない。
巨大すぎるグットラックには、それ相応の影があり、
そのマイナス部分の毒消しをすることを、どうやら私達日本人は失敗してきたようなのである。
分不相応なほどの天才の作品を、私達の社会は享受したあげくに、
十年以上対価を支払わされ続けていた、というのが、
近年の日本経済の真相なのであろう。
デフレの慢性化によって、
日本の経済成長率は低く抑えられ、
中国の高度成長もあって、東アジアの軍事勢力地図が大幅に変動し、
安全保障体制が不安定化し、尖閣、沖縄、対馬は領土簒奪の危機に瀕している。
なんのことはないカオナシの情けない姿で膨大な人間の生活が危機に面するのである。
そしてくりかえすが、宮崎駿に責任は無い。
作家として最善のものを作った結果、東アジアの安全保障に影響を与えたとしても、
そこまで考えていちゃなんにもつくれないわけで、
言ってみれば田舎の高校野球のチームに突然ダルビッシュのような奴が来て、
町中熱狂した挙句に仕事がおろそかになって街がさびれる、という現象なのであるから、
腕も折れよと投げまくるダルビッシュさんへの批判はやめていただいて、
街の人々が正気を取り戻すべき、と私は考えるのである。
正気を取り戻す方法は、ダルビッシュを否定することでも、毛嫌いすることでもない。
それは正気から遠ざかる道である。
唯一の方法は、ダルビッシュを完全に理解し、消化し、包容することである。
そんなわけで「風立ちぬ」も「おおかみこども’」も途中だが、
千と千尋の神隠しの考察も始める。

2013年9月13日金曜日

含むネタバレ 風立ちぬ・解説15

鉄道について

登場人物が鉄道に乗っているシーンは9回ある。
うち2回は、二郎が鉄道に乗っているのだが、
明快には示されない。

初めはシベリア鉄道に乗っているシーン。
風景が映されるだけで明示されない。
二度目は失意の軽井沢旅行。
これも列車が映されるだけで、乗っている二郎は登場しない。

となると、明快に列車での移動が表現されるのは、
7回である。
7回!、飲食も7回、タバコも7回である。

1、列車乗車中に震災に被災
2、名古屋に移動中に列車で困窮した民を見る
3、ドイツでの夢。列車を降りると日の丸飛行機が墜落する夢を見る
4、ドイツから西へ移動中、カプローニ最後の飛行へと飛び出す。ピラミッドのある世界
5、菜穂子喀血の報を受け、泣きながら上京
6、二郎の手紙を読んだ菜穂子は、決心して列車で二郎の元へ
7、二郎の元を去った菜穂子は列車に乗る

ほとんど凄惨な状況の描写に結びついている。
4は凄惨なシーンはないが、ピラミッドのある世界を肯定する。
それは2と対応する。かれらはピラミッドの底辺として苦しんでいる民である。

いずれにせよ、この数の揃え方は、意図的なものを感じざるをえない。
というより、たいていの場合傑作は、このような細かくも壮大は設計を持っているものである。