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2013年10月17日木曜日

千と千尋の神隠し 考察6


ある程度物語の説明が終わったところで、
中心題材になる通貨政策について述べなければならない。

カオナシのしていることはなにか。
紙幣の発行である。

カオナシの出す砂金は、インチキ砂金であり、
魔法が溶けると土に戻ってしまう。
しかし、振りかえって考えれば、
私達の今日使用している紙幣も、インチキ砂金である。
金はなにも含まれていない。
ただの紙である。


歴史的に見れば、昔は違った。

金そのものが通貨だった。


やがて金貨が通貨になった。
交換、決裁手段が金地金から、貨幣状のカタチになることによって実は、
使用する金の量は減る。
その代わり、例えば金貨の表面にローマ皇帝の肖像が刻印される。
王権で、通貨の価値の一部を肩代わりするのである。
社会の持つ一定量の金地金で、よりおおくの通貨を手にしたい、
言い換えればより多くの商取引を実行したい、
社会がそう望んだのである。
だってそうでしょ、通貨が少なければ、通貨が人々の手に渡らず、
そもそも商業取引が開始しないでしょ。


やがて金貨のかわりに、紙幣になった。
初期の紙幣は、金兌換であった。
銀行に持ってゆけば、紙幣に書いてある量の金と交換してくれた。
この方式だと、金貨以上に通貨の量を増やせる。
発行してる紙幣に相当する金全てを保持している必要はない。
1/10、1/100、あるいはもっと少なくても良い。
いっぺんにみんなが金地金を持ちたいとは考えないのである。
商業取引には紙幣のほうが便利だし、
取引は日々行われるものだから。
これは国家主権で、通貨の価値の一部を肩代わりするのである。
同じ量の金地金があるならば、
この兌換紙幣のほうが、はるかにたくさん通貨の量を増やせる。
言い換えれば、はるかにたくさん商取引の量を増やせる。
だってそうでしょ、通貨が少なければ、通貨が人々の手に渡らず、
そもそも商業取引が開始しないでしょ。


やがて、兌換紙幣のかわりに不換紙幣になった。
銀行に行っても金に変えてくれない。
ただの紙である。
これは国家主権で、通貨の価値の全部を受け持つのである。
発行できる通貨の量は膨大になる。
なにしろ金を用意しなくてよいのだから。
言い換えれば、商取引を出来るだけ多く増やそうと、
社会が望んだのである。
だってそうでしょ、通貨が少なければ、通貨が人々の手に渡らず、
そもそも商業取引が開始しないでしょ。


そのかわり、むやみに増刷しまくると、
貨幣の価値が下がってインフレになる。
だから中央銀行制度、つまり紙幣発行局を、
政府と少々距離をもたせる、というシステムで運営している。
それでも通貨を無限に発行する能力があることは変わらない。
特にデフレ局面においては。
とここまでは貨幣の歴史の基礎知識である。

そんなわけでカオナシは、
金貨製造機ではなく、兌換紙幣製造機でもなく、
不換紙幣(つまり今日私達が使用している通貨)の印刷機なのである。

そして、カオナシは最終的に銭婆婆のところに落ち着く。
銭婆婆はその名の通り、銭の人であるから、中央銀行である。
千尋とハクが銭婆婆と分かれる際に、
銭婆婆はカオナシに、
「あんたはここに残りなさい、私を手伝っておくれ」というが、
大人向けの表現をするならば、
「政府そのものが紙幣増刷するのはまずい。
なぜならばどうしても過度の増刷になるから、バブルが発生して、
カエルが飲み込まれたり、食品を無駄にしたり、色々と不具合になる。
あくまで政府とは距離を置いた中央銀行の権限としての増刷活動に制限したい。」
という意味になる。

2013年10月13日日曜日

千と千尋の神隠し 考察5

のろいと虫と印鑑について、
おそらく多くの人々が理解できなかったのではないかと思う。


1、銭婆は苦しんでいるハクを見て、
「この龍はもう助からない。ハンコには盗んだものが死ぬように呪いをかけてある」という。

2、ハクが悶絶していると釜爺が「なにかが命を食い荒らしている」と言う。

3、吐き出した印鑑と虫を見て釜爺が「これだ」と言う。

4、印鑑についている虫を千尋は踏み潰す

5、千尋が銭婆のところに印鑑を返しにいって、ハクを助けてくれるよう頼むと宣言

6、銭婆に印鑑を返した時、「守りのまじないが消えているね」と言われ、ハッと気づいて
「あの虫踏みつぶしました」と言う。すると銭婆は笑って、
「其の虫は妹が弟子を操るために龍の腹に忍び込ました虫だ」と言う。


さてここで質問。
ハクを苦しめていたのはなんなのだろうか。
呪いか?虫か?

状況を整理してみよう。


1、ハクは印鑑を盗む前から虫を忍び込まされていたはずである。
それによって顔色が悪くなったりしたかもしれないが、致命的ではなかった。

2、ハクは印鑑を盗んで死の呪いを受け、悶絶して苦しんでいた。

3、千尋のくれた苦団子を飲んで、印鑑と虫を同時に吐き出した。

4、虫は千尋に踏み潰された。

つまり、死の呪いを最終的に受けたのは、千尋が踏みつぶした虫である。
湯婆婆がハクのお腹に忍び込ませた虫である。

苦団子は
銭婆婆の呪いを、湯婆婆の虫に転嫁させた。

河の神の霊力と千尋のひとふみによって、
ハクは
湯婆婆の支配の呪縛からも、
銭婆婆の死の呪いからも、開放されたのである。
もっとも虫は呪いをうけているから、
千尋に踏まれなくてもどうせ死んでしまう運命なのだが。

ちなみにハクの盗んだ印鑑は、
元来契約の書き直しに使用されるものである。
絵コンテではそのように記載されている。

契約を結ぶ主体は湯婆婆であるから、
湯婆婆と銭婆婆で、
契約の締結と契約の書き直しを、
役割分担していると考えて良い。

ちょうど司法立法行政の三権分立のように、
あるいは政府と中央銀行の役割分担のように。

そう、湯婆婆とは冥界の政府であり、銭婆婆は冥界の中央銀行である。
だから銭婆婆と名前がついている。

湯婆婆は王のように、政府のように、従業員を大量に使ってる。
銭婆婆は従業員は居ないが、湯婆婆にまさるとも劣らない魔力を持っている。
湯婆婆は銭婆婆の権力を簒奪しようとハクに盗みをさせたが、
それはあえなく失敗した。

この二人は、劇中語られているように、
「二人で一人前」である。
千尋が門の前でみた石人のように、
一つの像に、顔が二つあるのである。


と、そろそろ本題に入りそうだが、次回に続く。

2013年10月9日水曜日

千と千尋の神隠し 考察4

宮崎駿の上手さは冒頭にある。
ラピュタの冒頭なぞ、何回見ても驚嘆する。
完璧である。


ムスカ、シータ、盗賊の3者が効率よく登場するはじまりのシーン。
すったもんだの挙句、最後にシータが手を滑らせて、
暗い雲の中に消えてゆき、オープニングクレジットに入る。

名曲「君をのせて」のメロディーが流れる中、
かつて飛行文明が栄え、
しかしなんらかの理由で人々は文明を捨て地上に降り立ったことが、
銅版画のような画で示される。

メロディーが引き続きながらクレジットは終了、
再び暗い雲野中のシータの落下シーンにもどり、
「君をのせて」の旋律はチェロからバイオリンに引き渡されて、
小節線をまたぐその瞬間、胸の飛行石が光り始める。
(ご丁寧にもバイオリンにはリタルダンドがかかる。少しためをつくる。
背景としてティンパニがトレモロで煽り立てる。
全ては飛行石発光の、劇的な効果を引き立てるための演出である)

これほど効率的で、充実して、印象的な映画の開始を、私は知らない。
映像と音の奇跡的な結合である。
この数分間だけでも、宮崎駿と久石譲は映画史上に名を残したであろう。


「千と千尋の神隠し」はラピュタに比べればいくぶん地味である。
そもそもタイトルが表記されるだけでオープニングクレジットが無い。

しかしラピュタであそこまで完成されたことが出来る人間が、
普通のオープニングをつくるはずが無い。
必ずや深い意味を含ませている、という気持ちで、
詳細に見る必要がある。


千尋は冒頭で、車の後部座席に横になって、花を持っている。
普通人間が横になって胸に花があると、
死んでいるという意味になる。
実際湯屋にいるのは、
例えばひよこの神様、つまり死んですぐに殺されたヒヨコであり、
ハク、つまり埋められて死んでしまった川の神様である。
湯屋は死の世界である。
千尋は仮死状態ないし一度死んで湯屋の世界に行ったのである。

その死の世界の入り口は、
樹木と鳥居とほこらで示される。
鳥居と樹木に挟まって、小さな石の家がたくさんある。
小さな石の家は、多くが傾いている。
「あの家のようなものはなに?」
「ほこら、神様のおうちよ」
という会話があった。
鳥居を脇に通りすぎて荻野一家は、大きな赤い建物に到達する。
赤くて、門になってる建築物といえば、つまり鳥居である。
あの赤い建物は変容した鳥居だったのである。

そこを抜けて平原にでるのだが、
草原での家は、多くが傾いている。
それら家々は、先ほど見たほこらなのである。
千尋一家はいつのまにかサイズダウンして、
ほこらの小さな世界に入り込んでしまったのである。

そして赤い門を前に千尋は、
まず花束を握りしめたまま車の外に飛び出し、
次に握りしめていた花束を車の中において、そして父のところに駆け出す。
死の世界で死者が活動し始めた瞬間である。

やがて物語が終わり、ハクと別れて、千尋は再びトンネルをくぐる。
見返す門の建物は、赤い色が落ち、地肌の茶色になっている。
ちょうど冒頭で見た鳥居が、赤い塗料が落ち、
木の地肌の茶色であったように。

死の世界の活性化が終わり、同時に死の世界の旅は終わり、
千尋は生の世界での活動を再開したのである。


千と千尋を文明論であると書いてきたが、
大きな大きな文明論は、
小さな小さなほこらの世界で語られる。

マクロとミクロの世界の物語、それをラピュタのように効率的に、
しかし今回は地味で控えめで穏やかに、
このオープニングで宮崎は宣言しているのである。