アニメ版ナウシカは、
コミック版ナウシカの、
ごく一部に過ぎない。
そしてコミック版ナウシカの本質は、
キリスト教批判であり、キリスト教克服である。
ペリー来航で西洋文明に触れた日本人は、
大きなショックを受けた。
西洋文明を理解し、消化しようと努力を重ねるが、
彼我の能力差はあまりにも大きい。
深刻なコンプレックスを伴う苦闘の中で、
徐々に明らかになってきたことは、
巨大なる西洋文明の本質は、
科学技術ではなく、
科学技術の母体となったキリスト教であり、
聖書であるということである。
だいたい太宰治、坂口安吾のあたりから相手の正体は明らかになっていた。
太宰は「如是我聞」という文章でそのことについて触れており、
坂口は太宰死去に際に「不良少年とキリスト」という文章を発表している。
キリスト教との対峙はその後も続き、
遠藤周作の浄土真宗的キリスト教もそうだし、
漫画では諸星大二郎「生命の木 ぱらいそさいくだ」もその系列である。
宮崎駿もその系列に連なる。
コミック版ナウシカは、非常にバイブルを重要視して、
そこに強い批判を加えている。
(そのことについて、
クリスチャンであり、宮崎ファンでもある、
立花隆、佐藤優が本格的に議論しようとせず、
避けて通ろうとしているのは、まことに残念である)
巨大な生きた石の塊、「シュワの墓所」は、
バイブルのことである。
宮崎はこのコミック版ナウシカを、
「ヨハネの黙示録」を元に組み立てている。
大地の浄化に必要とされる1000年という期間は、
千年王国に対応する。
「ヨハネの黙示録」では千年王国出現の直前に、
「この世の支配者たちの上に君臨されるかた」が出現する。
その人物は「血染めの衣」をまとっている。
ナウシカの服がオームの血、のちにシュワの墓所の血で染まることに対応している。
旧約聖書の冒頭の創世記は、
天地の始まりを説き、
新約聖書の終結のヨハネの黙示録は、
天地のこれからを説く。
全ての時間は、バイブル二冊の中に封じ込まれている。
人間に許されるのはただ、
バイブルの解釈だけである。
全ては計算された出来事であり、
生きているのはバイブルのみであり、
全ての生物は生命のなかばをバイブルに奪われたままになっている。
ナウシカは、キリスト教が生んだ科学技術の産物である巨神兵、すなわち核兵器を用いて、
シュワの墓所を破壊する。
これが知性主義の結末であるというのだ。
キリスト教とナウシカ、両者の根源的な対立点を述べよう。
両者は生と死をどのように捉えるかで決定的な相違がある。
キリスト教では、死は敗北であり、悪いものであり、生と対立するものである。
ナウシカにとって、死は生と相互依存的なものである。
死があるからこそ生があり、両者は不可分である。
「ヨハネの黙示録」の最終章である第22章19に、
「また、もしこの預言の書の言葉をとり除く者があれば、神はその人の受くべき分を、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、とり除かれる」
とある。
ここで言う「いのちの木」とは、創世記に記されている、知恵の木とともにエデンの園に生えていた「生命の樹」であろう。
知恵の樹の実を食べてアダムとイブは知恵を得た。
生命の樹の実を食べれば永遠の生命を得られたのだが、
神はそれを恐れてアダムとイブを楽園から追放した。
「ヨハネの黙示録」は、そのエデンに回帰しようとする物語である。
しかしナウシカは、知恵の樹も、生命の樹も、エデンも拒否した。
太宰や坂口は、ナウシカに会ったら、なんと語りかけただろうか?
ページ
2013年12月14日土曜日
2013年12月12日木曜日
物語作家
1600年の日本の人口は、
1200万~2200万くらいと推定されている。
キリシタン人口は75万あったのではないかと、推定されている。
(いずれも論拠不確か)
少なく見積もって3%くらいはキリシタンだった。
今日日本の人口1億2000万
クリスチャン人口、多く見積もって1%の120万である。
江戸時代より前のキリスト教布教は成功し、
明治以降のキリスト教不況は失敗した。
その間になにがあったか。
識字化である。
江戸時代、侍以下多くの人々が、
読み書きそろばんをマスターした。
寺子屋が全国に広がった。
それでなにがおこったか。
物語の充実である。
文字の読み書きをすれば、
抽象思考能力が高まり、
物語咀嚼能力が高まる。
高まった能力は、対象を求める。
識字化により物語需要が増大した。
そして需要あれば供給があるものである。
江戸以前の物語、
記紀、源氏、平家、太平記も人々に広がったし、
新たに多くの物語が製作された。
代表的なものは、たとえば忠臣蔵、近松の心中物、八犬伝。
最後のものは中国の水滸伝がもとだが、
前二者はオリジナルである。
ここで前二者がいずれも主人公が死ぬ話であるということを覚えておいていただきたい。
かくて日本では、物語に充足した。
あらたに物語群を加える必要性がなくなった。
明治維新後、バイブルという物語の流布が再開されても、
すでに市場に余地はほとんど無かったのである。
東アジアでもっともクリスチャンの比率の多いのは、
1にフィリピン、2に韓国
いずれも自前の物語群の脆弱な国である。
これをもってしても日本の江戸期の物語の充実が、
(ひらかなの読みやすさからの流布力とあいまって)
相当な水準だったことが見て取れる。
そして明治以降も物語の生産は続いた。
円朝、漱石、鴎外、龍之介以下、連綿と続く。
物語を生産するのは作家に限らない。
溝口、小津、黒澤も膨大な数の物語を生産してきた。
宮崎駿はその最たるものであり、
影響力という観点ではおそらく、
一人で明治以降のすべての作家、映画作家の合算に匹敵するだろう。
では日本史上過去最大の物語作家は誰か。
私見では、大西瀧次郎である。
神風特攻隊の創始者である。
大西は文筆家でも映像作家でもなかったが、
軍事技術と、
膨大な予算と、
多くの若者の命と、
自分自身の命さえつぎ込んで、物語を作った。
「この戦争は勝てぬかもしれぬ。
ここで青年が起たなければ、日本は滅びますよ。
しかし、青年たちが国難に殉じていかに戦ったかという歴史を記憶する限り、日本と日本人は滅びないのですよ」
大西は知っていた。
国家、国民というものは、観念的、抽象的な存在であり、
物語によって作られ、維持されるものであり、
最高のシーン、最高の設備、最高の出演者をそろえれば、
最高の物語が描け、それが未来永劫受け継がれてゆくことを。
この物語、なにしろかけたコストが桁違いである。
これ以上の大作のクランクインは、今後数百年は不可能であろう。
その上江戸期の物語、
忠臣蔵(切腹するために戦闘する)、
心中物(死に向かう道が美しく描かれる)の価値観を十分踏まえ、
楠、真田のような歴史上の事件も背景として持つ。
戦況不利という必要に迫られたとはいえ、
なんとも上手に物語を作ったものである。
伝統的にみても、市場のニーズ的にみても、
最強の物語が出来上がってしまった。
この特攻隊の物語を、以降便宜上「大西物語」と呼ぶ。
戦後、この大西物語にいくつもの疑問が呈されてきた。
最低の作戦だ、犬死だ、無駄な死だ。
おしゃれで、スマートで、理論的には正しい意見である。
しかし当然ながらそれらの言説は、
大西物語ほどの予算をつぎ込めなかった。
今日で言えば、ハリウッド超大作と、自家撮り料理動画のYoutubeにアップくらいの、
絶望的なコストの差がある。
いくら頭をひねっても、
それだけ予算に差があれば、視聴者への説得力という点では勝負にならない。
だからいずれもそれを覆すほどの力は無く、
時が経つにつれ大西物語の力はますます大きくなってとどまるところを知らない。
あしたのジョー、ヤマト、ガンダム、スラムダンク、永遠のZero、
なぜそれらの物語が「泣ける」のか。
大西物語だからである。
大西を除けば明治以降最大の作家と言える宮崎駿も、
大西物語の手のひらの上にいる。
「ここが玉座ですって?
ここは墓場よ、あなたと私の。
あなたは外に出ることも出来ずに私といっしょにここで死ぬの」
大人しそうな少女の骨の髄まで、
特攻精神は浸透しているのである。
実際に特攻隊をアニメに登場させて、
それが引退作品なのである。
おそらく私たち日本人は、
この物語から抜け出せまい。
これ以上にコストがかかる作品が、製作不能だからである。
「青年たちが国難に殉じていかに戦ったかという歴史を記憶する限り、日本と日本人は滅びないのですよ」
まったくそのとおり。
滅びないといっても良いし、滅ぼせないといっても良い。
滅ぼすためには大西物語より説得力のある物語の製作が必要である。
当然大西物語以上の製作コストをかけなければならない。
そのコストの最低ラインは、
主演級俳優の死亡1万人以上、
一般出演者死亡300万人、
原爆2発を含む全国焦土化、
物語製作者は完成時に切腹。
1200万~2200万くらいと推定されている。
キリシタン人口は75万あったのではないかと、推定されている。
(いずれも論拠不確か)
少なく見積もって3%くらいはキリシタンだった。
今日日本の人口1億2000万
クリスチャン人口、多く見積もって1%の120万である。
江戸時代より前のキリスト教布教は成功し、
明治以降のキリスト教不況は失敗した。
その間になにがあったか。
識字化である。
江戸時代、侍以下多くの人々が、
読み書きそろばんをマスターした。
寺子屋が全国に広がった。
それでなにがおこったか。
物語の充実である。
文字の読み書きをすれば、
抽象思考能力が高まり、
物語咀嚼能力が高まる。
高まった能力は、対象を求める。
識字化により物語需要が増大した。
そして需要あれば供給があるものである。
江戸以前の物語、
記紀、源氏、平家、太平記も人々に広がったし、
新たに多くの物語が製作された。
代表的なものは、たとえば忠臣蔵、近松の心中物、八犬伝。
最後のものは中国の水滸伝がもとだが、
前二者はオリジナルである。
ここで前二者がいずれも主人公が死ぬ話であるということを覚えておいていただきたい。
かくて日本では、物語に充足した。
あらたに物語群を加える必要性がなくなった。
明治維新後、バイブルという物語の流布が再開されても、
すでに市場に余地はほとんど無かったのである。
東アジアでもっともクリスチャンの比率の多いのは、
1にフィリピン、2に韓国
いずれも自前の物語群の脆弱な国である。
これをもってしても日本の江戸期の物語の充実が、
(ひらかなの読みやすさからの流布力とあいまって)
相当な水準だったことが見て取れる。
そして明治以降も物語の生産は続いた。
円朝、漱石、鴎外、龍之介以下、連綿と続く。
物語を生産するのは作家に限らない。
溝口、小津、黒澤も膨大な数の物語を生産してきた。
宮崎駿はその最たるものであり、
影響力という観点ではおそらく、
一人で明治以降のすべての作家、映画作家の合算に匹敵するだろう。
では日本史上過去最大の物語作家は誰か。
私見では、大西瀧次郎である。
神風特攻隊の創始者である。
大西は文筆家でも映像作家でもなかったが、
軍事技術と、
膨大な予算と、
多くの若者の命と、
自分自身の命さえつぎ込んで、物語を作った。
「この戦争は勝てぬかもしれぬ。
ここで青年が起たなければ、日本は滅びますよ。
しかし、青年たちが国難に殉じていかに戦ったかという歴史を記憶する限り、日本と日本人は滅びないのですよ」
大西は知っていた。
国家、国民というものは、観念的、抽象的な存在であり、
物語によって作られ、維持されるものであり、
最高のシーン、最高の設備、最高の出演者をそろえれば、
最高の物語が描け、それが未来永劫受け継がれてゆくことを。
この物語、なにしろかけたコストが桁違いである。
これ以上の大作のクランクインは、今後数百年は不可能であろう。
その上江戸期の物語、
忠臣蔵(切腹するために戦闘する)、
心中物(死に向かう道が美しく描かれる)の価値観を十分踏まえ、
楠、真田のような歴史上の事件も背景として持つ。
戦況不利という必要に迫られたとはいえ、
なんとも上手に物語を作ったものである。
伝統的にみても、市場のニーズ的にみても、
最強の物語が出来上がってしまった。
この特攻隊の物語を、以降便宜上「大西物語」と呼ぶ。
戦後、この大西物語にいくつもの疑問が呈されてきた。
最低の作戦だ、犬死だ、無駄な死だ。
おしゃれで、スマートで、理論的には正しい意見である。
しかし当然ながらそれらの言説は、
大西物語ほどの予算をつぎ込めなかった。
今日で言えば、ハリウッド超大作と、自家撮り料理動画のYoutubeにアップくらいの、
絶望的なコストの差がある。
いくら頭をひねっても、
それだけ予算に差があれば、視聴者への説得力という点では勝負にならない。
だからいずれもそれを覆すほどの力は無く、
時が経つにつれ大西物語の力はますます大きくなってとどまるところを知らない。
あしたのジョー、ヤマト、ガンダム、スラムダンク、永遠のZero、
なぜそれらの物語が「泣ける」のか。
大西物語だからである。
大西を除けば明治以降最大の作家と言える宮崎駿も、
大西物語の手のひらの上にいる。
「ここが玉座ですって?
ここは墓場よ、あなたと私の。
あなたは外に出ることも出来ずに私といっしょにここで死ぬの」
大人しそうな少女の骨の髄まで、
特攻精神は浸透しているのである。
実際に特攻隊をアニメに登場させて、
それが引退作品なのである。
おそらく私たち日本人は、
この物語から抜け出せまい。
これ以上にコストがかかる作品が、製作不能だからである。
「青年たちが国難に殉じていかに戦ったかという歴史を記憶する限り、日本と日本人は滅びないのですよ」
まったくそのとおり。
滅びないといっても良いし、滅ぼせないといっても良い。
滅ぼすためには大西物語より説得力のある物語の製作が必要である。
当然大西物語以上の製作コストをかけなければならない。
そのコストの最低ラインは、
主演級俳優の死亡1万人以上、
一般出演者死亡300万人、
原爆2発を含む全国焦土化、
物語製作者は完成時に切腹。
2013年11月1日金曜日
千と千尋の神隠し 考察9
とりあえずこれで千と千尋の分析は終わりである。
大変緻密に組み立てられていることがご理解いただけたと思う。
これだけ緻密ならば、それは過去最高の観客動員も当然だ、という気がしてくる。
ということはつまり、
これほど緻密に構成された映画は過去に無かった、とも言えそうである。
ということはつまり、
構成の緻密さを基準にするならば、過去最高の映画とも言えそうである。
最後に簡単にまとめてみた。
早わかり一覧表である。
大変緻密に組み立てられていることがご理解いただけたと思う。
これだけ緻密ならば、それは過去最高の観客動員も当然だ、という気がしてくる。
ということはつまり、
これほど緻密に構成された映画は過去に無かった、とも言えそうである。
ということはつまり、
構成の緻密さを基準にするならば、過去最高の映画とも言えそうである。
最後に簡単にまとめてみた。
早わかり一覧表である。
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