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2013年12月25日水曜日

風立ちぬ・解説18

前回堀辰雄の「風立ちぬ」を解読しようとして、
堀辰雄の「美しい村」に話がそれた。
「美しい村」は教会ソナタという形式で書かれており、
音楽の形式を踏襲して書かれた小説であった。

さらに寄り道だが、
音楽の形式を踏襲してかかれた小説の代表作としては、
トーマス・マンの「トニオ・クレーゲル」がある。

「トニオ・クレーゲル」はソナタ形式で書かれている。
「トニオ・クレーゲル」の説明の前に、
まずはソナタ形式の説明をする。

まず書かなきゃいけないことは、
古い、バッハの時代の「教会ソナタ」と、
新しいハイドン・モーツアルト以降の「ソナタ」は、
まったく別物であるということである。
はっきり言えば言葉の意味が混乱している。

バッハ以前は「ソナタ」は器楽曲、くらいの意味である。

ハイドン以降は「ソナタ」は、ソナタ形式の楽章を含む曲、という意味である。
ソナタ形式は、バッハ以前はあまりかかれなかった。
ソナタ形式は、ハイドン、モーツアルト、ベートーヴェンが発展させたと理解いただければOKである。

で、以下ソナタ形式の説明というか、
音楽の形式の説明である。


音楽の原初形態は、
(A)
である。
メロディー流れてはい終わり。

しかし人間はいくら才能があってもメロディー無限に創造できるわけではないから、
もっとリソースを大事に使いたいと考える。
そして次なる形式が考えられた。
(A+A)
そう、2回繰り返すのである。
単位時間あたりの手間が半分になる。
これでずいぶん楽になった。

空いた時間で、もう少し凝った構造にする。
(A+B+A)
Aのリピートの間に、違う要素を挿入する。
こうすると、同じAという素材を使った曲でも、
Bの中身を入れ替えれば、まったく違う局に出来る。

この手でさらにリピートする。
(A+B+A+B+A)
手間もかからず飽きない曲の出来上がりである。

さらにCという要素を入れて、さらに長い曲を作る。
(A+B+A+C+A+B+A)
ABCという3つのメロディーで、7単位時間埋めれた。
手間をかけずに、かつ飽きない曲が作曲できた。
こうやって、上手に労力を節約して曲を作ってきた。



さらに別のやりかたもある。
(A+A1+A2+A3)
変奏曲である。
一つのメロディーを微妙に変えて、何度も繰り返す。
これはメロディーを着想する手間は省けるが、
微妙に変える変え方が難しいから、頭が酷使される。
ただし曲としての統一感は最高である。なんせ基本同じメロディ-だから。

http://youtu.be/XQdqVeadhAY

リンクは「きらきら星変奏曲」。
メロディーを少しずつ変えて繰り返している。
「きらきら星変奏曲」はまあ名曲の部類だが、
変奏曲形式は時々、ものすごい名曲を生み出す。
頭にかかる負荷が半端ない分、
パワーのある作曲家は逆によい作品をつくれるのである。
たとえばバッハの「無伴奏ヴァイオリンのためのシャコンヌ」
「オルガンのためのパッサカリア」
「ゴールドベルク変奏曲」
ブラームスの「ハイドンの主題による変奏曲」
しかし、いつもいつもパワー前回というわけには、
人間いかないのである。
ちなみにバッハさんは2回の結婚で合計20人も子供をつくったくらいの、
それくらいの体力の持ち主でありましたことよ。


そんなわけで、作曲の歴史は作業効率化の歴史である。
なにか良いメロディーを思いついたとして、
そのメロディー(仮にAとする)を中心に、なるべく長い曲を書きたいのだが、
新しい要素を最小限に、
かつ頭を酷使せず、
かつ統一感を保つ形式はないものか。
そこでひねり出されたのがソナタ形式である。

(A+B + A1+B1 + A+B)

基本2つのメロディー(A+B)の繰り返しである。
AとBは基本的に、対照的なメロディーを使う。
Aが激しければ、Bはやさしいとか。
これで十分飽きがこないものになる。
そして途中に変奏を入れる。
頭を少々使うのである。
しかし変奏曲ほどは大変でなく、
かつ統一感も十分にある。

これがソナタ形式である。
変奏曲ほど手間がかからず、
かつなにやら知的でまとまった印象がある。
使いやすいので、作曲の必殺技として、
ハイドン、モーツアルト、ベートーヴェン、シューベルト、メンデルスゾーン、シューマン、ブラームスくらいまで、最優先の形式として使われてきた。
一般の方が耳にする交響曲はたいていソナタ形式の楽章を(多くは第一楽章として)含んでいる。

(特急の説明なので、聞いたら音楽学者は激怒するような説明だが、
一般的にはこれで十分な理解である)

ソナタ形式の説明で1回分終わった。
次回はいよいよ「トニオ・クレーゲル」解説。

2013年12月23日月曜日

風立ちぬ・解説17


宮崎駿の映画「風立ちぬ」は、
堀辰雄の「風立ちぬ」を下敷きにしている、というより、
題名そのまんまである。

しかし、堀辰雄の「風立ちぬ」は、
宮崎の映画公開後も特に研究はされていないようである。
ネットで調べても、よくわかるレビューが出てこない。
理由は簡単である。
正直、面白くない小説だからである。


まず文体が悪い。
ものすごく読みにくい文体である。
内容もつかみにくい。
簡単な内容なのだが、文体が悪いせいで、
ものすごく把握しづらい。
といって、悪い小説とも言いづらい。
大変優れた部分も、あるにはあるからである。

とにかく下敷きである以上、
堀辰雄の「風立ちぬ」を理解しないことには、
宮崎の映画も理解できない、はずであるので、
いやいやながら読んだ。


短編小説「風立ちぬ」は、
5章に分かれている。

序曲

風立ちぬ

死のかげの谷

の5部構成である。


構成に凝るのが堀辰雄の特徴のようである。
私は新潮文庫の風立ちぬを読んだのだが、
あわせて収録されている「美しい村」も、
同様に構成に凝っている。

序曲
美しい村

暗い道

の4部構成になっている。

「美しい村」という小説の中の一部が
「美しい村」というタイトルになっていて、
かつそのなかで主人公は「美しい村「」という小説を、
書き進めている、というわけで、
入れ子構造というやつである。

そして、
第二章「美しい村」にはサブタイトルとして、
「或いは 小遁走曲(フーガ)」
と書かれている。
バッハの小フーガ ト短調 BWV 578のことである。
http://dtm-orchestra.com/little_fugue_in_g_minor.htm


中身は特に小説らしい話の展開はなく、
ただ単に主人公が村のあちこちを歩き回るというだけの話なのだが、
薔薇が、小鳥が、レエノルズさんが、天狗岩が、じいやが、子供が、少女が、
くりかえし登場してきて、
フーガで主題が繰り返される感じがしなくもない。

私も一応細かく分析してみたのだが、
フーガ的ではある。ただし、やはりフーガではない。
よく言って頑張って書いたフーガ風の文章である。


フーガというのは、カノン(輪唱)の発展したもので、
「かえるのうたが、きこえてくるよ」という歌をパートごとにずらして歌い始める、
あの形式と思ってさしつかえない。


フーガ、カノンの最大のポイントは、
ポリフォニー、つまり同時に複数のメロディーが演奏されることである。
一人が「きこえてくるよ」と歌うとき、
今一人は「かえるのうたが」と同時に歌っている。
しかし、文章でそれは不可能である。
だから小フーガをまねしたといっても、
まねしきれるものではなく、
単に読みにくい文章で、
エゴと環境がやたらと混濁し、
過去と現在がやたらと混濁するだけである。


「風立ちぬ」同様、面白いものではない。
しかし、全体の構成、4部構成というか、
冒頭に「序曲」とついている以上、
四楽章構成と言った方がよいだろう、
この構成自体は面白い。


4楽章構成で、2楽章がフーガとなると、
西洋音楽の分類では、典型的な「教会ソナタ」である。
「教会ソナタ」、たとえば無伴奏ヴァイオリンのためのソナタがそうなのだが、

1楽章:ゆっくりとして、自由な曲
2楽章:フーガ。テンポは速め。
3楽章:ゆっくりとした歌うような曲
4楽章:早目のテンポの曲

となる。

(教会ソナタの例
http://youtu.be/981I153BSXY



それで堀辰雄の美しい村では、

序曲:過去の女性への手紙、散漫な内容
美しい村:フーガ。村の中を歩き回る。
夏:新しい女性との出会い、まったりとした時間
暗い道:その新しい女性との道行きの短い描写

となり、教会ソナタの緩急緩急をほぼ正確に写している。


このような、音楽形式の小説を、
トーマス・マンも書いているのだが、
それは次回。

2013年12月20日金曜日

在日問題

在日問題について読み解く

戦前コリアンと
戦後コリアンについて分割して考える。


戦前コリアンは大日本帝国臣民として来日し、
戦後ほとんどが半島に帰ったが、
一部が日本に残った。

戦後コリアンは密入国した人々だが、
特別永住権を与えられて合法的に存在している。

長らくマスコミで伝えられてきた話では、
「在日のほとんどは戦前強制連行でつれてこられた人々である」
というものだった。
誰が、こんな話を作ったのか?
そしてなぜ戦後密入国したコリアンを、合法的な存在に変えてしまったのか?


私見では原因は朝鮮戦争と、
済州島事件、保導連盟事件にある。

済州島事件、保導連盟事件はいずれも朝鮮戦争開始の前後から、
戦争停止しばらく後まで続いた、
韓国政府による、
韓国国民虐殺事件である。

当時は北朝鮮の力が強かったから、
韓国国内で共産主義勢力に汚染されたと思われた地域の住民を、
韓国政府は徹底的に虐殺した。

そして朝鮮戦争中、あるいは直後であったから、
米軍は事実上虐殺を黙認した。

戦後コリアンのうち多くは、
おそらくその虐殺を逃れてわたってきた人である。
米軍がそれを望めば、
かつ日本政府も半島の共産化をおそれている状況ならば、
日本政府はかれらの存在をなかったことにすることに、
やぶさかではないはずである。
なぜならば、
自国国民の虐殺があまり表ざたになれば、
大韓民国政府の半島支配の正統性が大きく損なわれて、
結果として北朝鮮に利益をもたらすからである。

北朝鮮は大量の自国国民を餓死させているが、
それは失政であり、意図的ではないと言い張ることも出来る。
中国の天安門事件は、あるいはチベット大虐殺は、
騒擾事件であり鎮圧したのだと、言い張ることもできる。

しかしどうも、済州島も保導連盟も、
無辜の民を大量に虐殺したようなのである。
これは、まったく言い開きの出来ない事件である。

推定数十万規模。
米軍も黙認していたとなれば、
米軍の正義も地に落ちる。
アメリカの東アジアの軍事プレゼンスの正当性にも大きく影響する事件である。
おそらく半島から撤退するしかなくなるのではないか。


だから、
「在日のほとんどは戦前強制連行でつれてこられた人々である」
という神話がでっちあげられた。
以上あくまで私見である。
さらに私見と続けるならば、
従軍慰安婦問題も、おそらく背景ににはこれら虐殺のカモフラージュ要求がある。
大躍進、文革のカモフラージュとして南京大虐殺が喧伝されるのと同根である。


では今後の展開はどうか?
1、仮に半島を韓国が統一し、中国と敵対するならば、
中国は上記事件を韓国の犯罪として言い立てるであろう。
2、仮に半島を韓国が統一し、中国と同盟を結ぶならば、
中国は上記事件を米軍の犯罪として言い立てるであろう。
3、半島情勢が現状維持のままならば、
北朝鮮に手を焼いている中国はなにも言い立てないであろう。
北朝鮮が戦略的にプロパガンダをしかける可能性はある。
若干左寄りになっている韓国社会が、自分で問題を掘り起こしてくる可能性もある。
それは米国との距離を遠ざける結果になる。

戦後コリアンにとって重要なのは、
自分たちの祖父、祖母が、
どのような経緯で渡航してきたのか、
しっかりと聞き取りの記録を残しておくことである。

この作業が運動として盛り上がる可能性は、
日米同盟、米韓同盟が堅持されているかぎりにおいて、
ほとんどゼロパーセントである。
一人ひとりで活動してゆくほかはない。