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2013年12月27日金曜日
風立ちぬ・解説20
風立ちぬ
さて話題は堀辰雄の風立ちぬに戻る。
堀の「風立ちぬ」は
序曲
春(移動する)
風立ちぬ(病室の中)
冬(歩き回る)
死のかげの谷
の5章に分かれる。
春と冬が対応している。
ということは、序曲と死のかげの谷が対応していると見て間違いない。
「美しい村」のような音楽的構成のような気もするが、
5楽章構成の曲で、このような内容の音楽がじつはあまりない。
バロックの組曲で
序曲
アルマンド
クーラント
サラバンド
ジーグ
というのはあるにはある。
が、致命的なことに、
三楽章クーラントの速度が速く、四楽章サラバンドの速度が遅い。
序曲
アルマンド
クーラント(急)
サラバンド(緩)
ジーグ(急)
序曲とアルマンドが、中庸のペース
という感じになることが多く、
風立ちぬのように、
序曲
春(移動する=急)
風立ちぬ(病室の中=緩)
冬(歩き回る=急)
死のかげの谷
という三楽章がもっともまったりとした曲、という構成にはならない。
堀辰雄の「風立ちぬ」は、
第三章風立ちぬが中心となるものなので、
どうしても第三楽章がゆっくりとしていないと、
対応しているとは言えないのだ。
ベートーヴェンの田園交響曲は5楽章構成だが、
「田舎に到着したときの愉快な感情の目覚め」
「小川のほとりの情景」
「田舎の人々の楽しい集い」
「雷雨、嵐」
「牧歌 嵐の後の喜ばしい感謝の気持ち」
という順序であり、
第三楽章はかなりアップテンポの曲になっている。
したがって堀辰雄「風立ちぬ」の雛形にはなりえない。
マーラーの交響曲第五番も同様の理由で却下。
唯一対応していると言えるのが
ベルリオーズの幻想交響曲である。
かなりグロテスク系の音楽(特に終楽章)なのでムード的には遠いのだが、
対応関係としてはもっとも近い。
次回は幻想交響曲と堀辰雄「風立ちぬ」対応関係について
風立ちぬ・解説19
映画「風立ちぬ」解読のために、
堀辰雄「風立ちぬ」を解読せねばならず、
そのために堀辰雄「美しい村」を解読するために、
トーマス・マンの「トニオ・クレーゲル」を解読しようとして、
トニオが準拠しているソナタ形式の解説をようやく終わったところである。
以下トニオの構造解説
提示部
A:主人公歩く(学校の帰り道、男の友人と)
B:主人公踊りを見る(好きだが手の届かない女の子の踊りを)
展開部
A1:主人公人生を歩む
B1:主人公自説をくるくる回転的に熱弁する(知人の女性に馬鹿にされながら)
再現部
A:主人公旅をする(故郷と、北海への旅)
B:主人公踊りを見る(提示部と男の子と女の子は結婚していた!)
小説としての出来はかなりよい。
個人的には読んで楽しくないのだが
(文体がくどくて重い)、
崇拝者が出現するのもよくわかる出来である。
ご覧いただきたいのだが、
芸術の言語は通常言語と音楽にはさまれた位置に存在する。
芸術言語は明確な意味がない。
言葉を多義的に、あるいは無義的にさえしようする。
だからどうしても形式が必要になるのである。
小説家、物語作家のいくつかは、
このことを十分に自覚し、
音楽に使用される形式を文学に適用できないかと考えた。
堀辰雄もその一人であり、
堀のような言語一つ一つを多義的に、使うひとならば、
(音楽に近い言語を使うということだから)
なおさら形式が重要になってくる。
重複になるが以下「美しい村」の形式
序曲:過去の女性への手紙、散漫な内容
美しい村:フーガ。村の中を歩き回る。
夏:新しい女性との出会い、まったりとした時間
暗い道:その新しい女性との道行きの短い描写
(参照、教会ソナタの典型)
1楽章:ゆっくりとして、自由な曲
2楽章:フーガ。テンポは速め。
3楽章:ゆっくりとした歌うような曲
4楽章:早目のテンポの曲
これほど形式を重視する作家ということは、
逆に言えばこれほど形式を重視しなければならないほど、
多義的な言葉遣いをする作家ということである、
ということを説明したくて、長々と音楽形式の説明をしてきた。
さてここまできて、
堀辰雄の「風立ちぬ」への解説に向かえる。
堀辰雄「風立ちぬ」を解読せねばならず、
そのために堀辰雄「美しい村」を解読するために、
トーマス・マンの「トニオ・クレーゲル」を解読しようとして、
トニオが準拠しているソナタ形式の解説をようやく終わったところである。
以下トニオの構造解説
提示部
A:主人公歩く(学校の帰り道、男の友人と)
B:主人公踊りを見る(好きだが手の届かない女の子の踊りを)
展開部
A1:主人公人生を歩む
B1:主人公自説をくるくる回転的に熱弁する(知人の女性に馬鹿にされながら)
再現部
A:主人公旅をする(故郷と、北海への旅)
B:主人公踊りを見る(提示部と男の子と女の子は結婚していた!)
小説としての出来はかなりよい。
個人的には読んで楽しくないのだが
(文体がくどくて重い)、
崇拝者が出現するのもよくわかる出来である。
ご覧いただきたいのだが、
芸術の言語は通常言語と音楽にはさまれた位置に存在する。
芸術言語は明確な意味がない。
言葉を多義的に、あるいは無義的にさえしようする。
だからどうしても形式が必要になるのである。
小説家、物語作家のいくつかは、
このことを十分に自覚し、
音楽に使用される形式を文学に適用できないかと考えた。
堀辰雄もその一人であり、
堀のような言語一つ一つを多義的に、使うひとならば、
(音楽に近い言語を使うということだから)
なおさら形式が重要になってくる。
重複になるが以下「美しい村」の形式
序曲:過去の女性への手紙、散漫な内容
美しい村:フーガ。村の中を歩き回る。
夏:新しい女性との出会い、まったりとした時間
暗い道:その新しい女性との道行きの短い描写
(参照、教会ソナタの典型)
1楽章:ゆっくりとして、自由な曲
2楽章:フーガ。テンポは速め。
3楽章:ゆっくりとした歌うような曲
4楽章:早目のテンポの曲
これほど形式を重視する作家ということは、
逆に言えばこれほど形式を重視しなければならないほど、
多義的な言葉遣いをする作家ということである、
ということを説明したくて、長々と音楽形式の説明をしてきた。
さてここまできて、
堀辰雄の「風立ちぬ」への解説に向かえる。
2013年12月25日水曜日
風立ちぬ・解説18
前回堀辰雄の「風立ちぬ」を解読しようとして、
堀辰雄の「美しい村」に話がそれた。
「美しい村」は教会ソナタという形式で書かれており、
音楽の形式を踏襲して書かれた小説であった。
さらに寄り道だが、
音楽の形式を踏襲してかかれた小説の代表作としては、
トーマス・マンの「トニオ・クレーゲル」がある。
「トニオ・クレーゲル」はソナタ形式で書かれている。
「トニオ・クレーゲル」の説明の前に、
まずはソナタ形式の説明をする。
まず書かなきゃいけないことは、
古い、バッハの時代の「教会ソナタ」と、
新しいハイドン・モーツアルト以降の「ソナタ」は、
まったく別物であるということである。
はっきり言えば言葉の意味が混乱している。
バッハ以前は「ソナタ」は器楽曲、くらいの意味である。
ハイドン以降は「ソナタ」は、ソナタ形式の楽章を含む曲、という意味である。
ソナタ形式は、バッハ以前はあまりかかれなかった。
ソナタ形式は、ハイドン、モーツアルト、ベートーヴェンが発展させたと理解いただければOKである。
で、以下ソナタ形式の説明というか、
音楽の形式の説明である。
音楽の原初形態は、
(A)
である。
メロディー流れてはい終わり。
しかし人間はいくら才能があってもメロディー無限に創造できるわけではないから、
もっとリソースを大事に使いたいと考える。
そして次なる形式が考えられた。
(A+A)
そう、2回繰り返すのである。
単位時間あたりの手間が半分になる。
これでずいぶん楽になった。
空いた時間で、もう少し凝った構造にする。
(A+B+A)
Aのリピートの間に、違う要素を挿入する。
こうすると、同じAという素材を使った曲でも、
Bの中身を入れ替えれば、まったく違う局に出来る。
この手でさらにリピートする。
(A+B+A+B+A)
手間もかからず飽きない曲の出来上がりである。
さらにCという要素を入れて、さらに長い曲を作る。
(A+B+A+C+A+B+A)
ABCという3つのメロディーで、7単位時間埋めれた。
手間をかけずに、かつ飽きない曲が作曲できた。
こうやって、上手に労力を節約して曲を作ってきた。
さらに別のやりかたもある。
(A+A1+A2+A3)
変奏曲である。
一つのメロディーを微妙に変えて、何度も繰り返す。
これはメロディーを着想する手間は省けるが、
微妙に変える変え方が難しいから、頭が酷使される。
ただし曲としての統一感は最高である。なんせ基本同じメロディ-だから。
http://youtu.be/XQdqVeadhAY
リンクは「きらきら星変奏曲」。
メロディーを少しずつ変えて繰り返している。
「きらきら星変奏曲」はまあ名曲の部類だが、
変奏曲形式は時々、ものすごい名曲を生み出す。
頭にかかる負荷が半端ない分、
パワーのある作曲家は逆によい作品をつくれるのである。
たとえばバッハの「無伴奏ヴァイオリンのためのシャコンヌ」
「オルガンのためのパッサカリア」
「ゴールドベルク変奏曲」
ブラームスの「ハイドンの主題による変奏曲」
しかし、いつもいつもパワー前回というわけには、
人間いかないのである。
ちなみにバッハさんは2回の結婚で合計20人も子供をつくったくらいの、
それくらいの体力の持ち主でありましたことよ。
そんなわけで、作曲の歴史は作業効率化の歴史である。
なにか良いメロディーを思いついたとして、
そのメロディー(仮にAとする)を中心に、なるべく長い曲を書きたいのだが、
新しい要素を最小限に、
かつ頭を酷使せず、
かつ統一感を保つ形式はないものか。
そこでひねり出されたのがソナタ形式である。
(A+B + A1+B1 + A+B)
基本2つのメロディー(A+B)の繰り返しである。
AとBは基本的に、対照的なメロディーを使う。
Aが激しければ、Bはやさしいとか。
これで十分飽きがこないものになる。
そして途中に変奏を入れる。
頭を少々使うのである。
しかし変奏曲ほどは大変でなく、
かつ統一感も十分にある。
これがソナタ形式である。
変奏曲ほど手間がかからず、
かつなにやら知的でまとまった印象がある。
使いやすいので、作曲の必殺技として、
ハイドン、モーツアルト、ベートーヴェン、シューベルト、メンデルスゾーン、シューマン、ブラームスくらいまで、最優先の形式として使われてきた。
一般の方が耳にする交響曲はたいていソナタ形式の楽章を(多くは第一楽章として)含んでいる。
(特急の説明なので、聞いたら音楽学者は激怒するような説明だが、
一般的にはこれで十分な理解である)
ソナタ形式の説明で1回分終わった。
次回はいよいよ「トニオ・クレーゲル」解説。
堀辰雄の「美しい村」に話がそれた。
「美しい村」は教会ソナタという形式で書かれており、
音楽の形式を踏襲して書かれた小説であった。
さらに寄り道だが、
音楽の形式を踏襲してかかれた小説の代表作としては、
トーマス・マンの「トニオ・クレーゲル」がある。
「トニオ・クレーゲル」はソナタ形式で書かれている。
「トニオ・クレーゲル」の説明の前に、
まずはソナタ形式の説明をする。
まず書かなきゃいけないことは、
古い、バッハの時代の「教会ソナタ」と、
新しいハイドン・モーツアルト以降の「ソナタ」は、
まったく別物であるということである。
はっきり言えば言葉の意味が混乱している。
バッハ以前は「ソナタ」は器楽曲、くらいの意味である。
ハイドン以降は「ソナタ」は、ソナタ形式の楽章を含む曲、という意味である。
ソナタ形式は、バッハ以前はあまりかかれなかった。
ソナタ形式は、ハイドン、モーツアルト、ベートーヴェンが発展させたと理解いただければOKである。
で、以下ソナタ形式の説明というか、
音楽の形式の説明である。
音楽の原初形態は、
(A)
である。
メロディー流れてはい終わり。
しかし人間はいくら才能があってもメロディー無限に創造できるわけではないから、
もっとリソースを大事に使いたいと考える。
そして次なる形式が考えられた。
(A+A)
そう、2回繰り返すのである。
単位時間あたりの手間が半分になる。
これでずいぶん楽になった。
空いた時間で、もう少し凝った構造にする。
(A+B+A)
Aのリピートの間に、違う要素を挿入する。
こうすると、同じAという素材を使った曲でも、
Bの中身を入れ替えれば、まったく違う局に出来る。
この手でさらにリピートする。
(A+B+A+B+A)
手間もかからず飽きない曲の出来上がりである。
さらにCという要素を入れて、さらに長い曲を作る。
(A+B+A+C+A+B+A)
ABCという3つのメロディーで、7単位時間埋めれた。
手間をかけずに、かつ飽きない曲が作曲できた。
こうやって、上手に労力を節約して曲を作ってきた。
さらに別のやりかたもある。
(A+A1+A2+A3)
変奏曲である。
一つのメロディーを微妙に変えて、何度も繰り返す。
これはメロディーを着想する手間は省けるが、
微妙に変える変え方が難しいから、頭が酷使される。
ただし曲としての統一感は最高である。なんせ基本同じメロディ-だから。
http://youtu.be/XQdqVeadhAY
リンクは「きらきら星変奏曲」。
メロディーを少しずつ変えて繰り返している。
「きらきら星変奏曲」はまあ名曲の部類だが、
変奏曲形式は時々、ものすごい名曲を生み出す。
頭にかかる負荷が半端ない分、
パワーのある作曲家は逆によい作品をつくれるのである。
たとえばバッハの「無伴奏ヴァイオリンのためのシャコンヌ」
「オルガンのためのパッサカリア」
「ゴールドベルク変奏曲」
ブラームスの「ハイドンの主題による変奏曲」
しかし、いつもいつもパワー前回というわけには、
人間いかないのである。
ちなみにバッハさんは2回の結婚で合計20人も子供をつくったくらいの、
それくらいの体力の持ち主でありましたことよ。
そんなわけで、作曲の歴史は作業効率化の歴史である。
なにか良いメロディーを思いついたとして、
そのメロディー(仮にAとする)を中心に、なるべく長い曲を書きたいのだが、
新しい要素を最小限に、
かつ頭を酷使せず、
かつ統一感を保つ形式はないものか。
そこでひねり出されたのがソナタ形式である。
(A+B + A1+B1 + A+B)
基本2つのメロディー(A+B)の繰り返しである。
AとBは基本的に、対照的なメロディーを使う。
Aが激しければ、Bはやさしいとか。
これで十分飽きがこないものになる。
そして途中に変奏を入れる。
頭を少々使うのである。
しかし変奏曲ほどは大変でなく、
かつ統一感も十分にある。
これがソナタ形式である。
変奏曲ほど手間がかからず、
かつなにやら知的でまとまった印象がある。
使いやすいので、作曲の必殺技として、
ハイドン、モーツアルト、ベートーヴェン、シューベルト、メンデルスゾーン、シューマン、ブラームスくらいまで、最優先の形式として使われてきた。
一般の方が耳にする交響曲はたいていソナタ形式の楽章を(多くは第一楽章として)含んでいる。
(特急の説明なので、聞いたら音楽学者は激怒するような説明だが、
一般的にはこれで十分な理解である)
ソナタ形式の説明で1回分終わった。
次回はいよいよ「トニオ・クレーゲル」解説。
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