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2013年12月28日土曜日

風立ちぬ・解説21

さてベルリオーズの幻想交響曲だが、
今日では「風立ちぬ」のような純文学にはふさわしくないような、
おおがかりで、少々B級な音楽と思われているが、
昭和初期だとそこらへんの感覚なくても仕方がない。
むしろ積極的に音楽を勉強している堀辰雄がほめられてしかるべきだろう。


「幻想交響曲」は5楽章に分かれる。
内容は、当時ベルリオーズが恋していた女優のスミスソンと、
出会い、再開し、野原で彼女への思いと猜疑にかられ、
結局刺殺してしまい断頭台へ送られ、
最終的に魔女の宴会で魔女の仲間になった彼女を発見する、
というひどい話である。

以下Wikiより
第1楽章「夢、情熱」 (Reveries, Passions)
彼はまず、あの魂の病、あの情熱の熱病、
あの憂鬱、あの喜びをわけもなく感じ、
そして、彼が愛する彼女を見る。
そして彼女が突然彼に呼び起こす火山のような愛情、
胸を締めつけるような熱狂、発作的な嫉妬、優しい愛の回帰、厳かな慰み。


第2楽章「舞踏会」 (Un bal)
とある舞踏会の華やかなざわめきの中で、彼は再び愛する人に巡り会う。


第3楽章「野の風景」 (Scene aux champs)
ある夏の夕べ、田園地帯で、
彼は2人の羊飼いが「ランツ・デ・ヴァッシュ」(Ranz des vaches)を吹き交わしているのを聞く。
牧歌の二重奏、その場の情景、風にやさしくそよぐ木々の軽やかなざわめき、
少し前から彼に希望を抱かせてくれているいくつかの理由[主題]がすべて合わさり、
彼の心に不慣れな平安をもたらし、彼の考えに明るくのどかな色合いを加える。
しかし、彼女が再び現われ、彼の心は締めつけられ、辛い予感が彼を突き動かす。
もしも、彼女に捨てられたら…… 1人の羊飼いがまた素朴な旋律を吹く。
もう1人は、もはや答えない。
日が沈む…… 遠くの雷鳴…… 孤独…… 静寂……


第4楽章「断頭台への行進」 (Marche au supplice)
彼は夢の中で愛していた彼女を殺し、死刑を宣告され、断頭台へ引かれていく。
行列は行進曲にあわせて前進し、その行進曲は時に暗く荒々しく、時に華やかに厳かになる。
その中で鈍く重い足音に切れ目なく続くより騒々しい轟音。
ついに、固定観念が再び一瞬現われるが、
それはあたかも最後の愛の思いのように死の一撃によって遮られる。


第5楽章「魔女の夜宴の夢」 (Songe d'une nuit du Sabbat)
彼はサバト(魔女の饗宴)に自分を見出す。
彼の周りには亡霊、魔法使い、あらゆる種類の化け物からなるぞっとするような一団が、彼の葬儀のために集まっている。
奇怪な音、うめき声、ケタケタ笑う声、遠くの叫び声に他の叫びが応えるようだ。愛する旋律が再び現われる。
しかしそれはかつての気品とつつしみを失っている。
もはや醜悪で、野卑で、グロテスクな舞踏の旋律に過ぎない。
彼女がサバトにやってきたのだ…… 彼女の到着にあがる歓喜のわめき声……
彼女が悪魔の大饗宴に加わる……
弔鐘、滑稽な怒りの日のパロディ。
サバトのロンド。
サバトのロンドと怒りの日がいっしょくたに。



以上ふまえた上で、幻想交響曲と風立ちぬを比較する

第1楽章「夢、情熱」(序曲)
特に共通点はない。
物語が始まるというだけである。

第2楽章「舞踏会」(春)
曲は快速な3拍子(ワルツ)である。
小説では主人公と婚約者はサナトリウムに移動する。
トニオ・クレーゲルでは第一主題が移動(行進)、
第二主題が踊りだったが、
ここでは同一ものとして扱われる。
堀はかなりトニオを参照している。
ちなみに、
トニオの邦訳が1927年
風立ちぬが1938年である。
いずれにせよ登場人物が活動的である、という意味では共通している。

第3楽章「野の風景」(風立ちぬ)
曲はゆっくりとした曲調。
小説もゆっくりしており、基本婚約者は寝たきりである。

第4楽章「断頭台への行進」 (冬)
行進なので、テンポはやめで、推進力をもって進む曲調である。
小説は、第三章で寝たきりの婚約者のそばに張り付いていた主人公が、
仕事(小説の構想を練る)ためにそこここらを散歩する。
ここも共通している

第5楽章「魔女の夜宴の夢」 (死のかげの谷)
曲はかなりグロテスク。
小説は大人しく、かなり共通していない。
ただ一つ注目すべき点は、
小説内で主人公が、リルケの「レクイエム」を読み始めることである。
曲のなかではグレゴリオ聖歌の「レクイエム」より、「怒りの日」のメロディーが流れる。
この点はあきらかに共通している。

というわけで、
対応関係はあまり明快ではないが
1、章の数が共通している
2、2,3,4章の性格が共通している
3、5章のレクイエムの部分が共通している。


ベルリオーズの「幻想交響曲」と、
堀辰雄の「風立ちぬ」は、
ほぼ有意な関係があると見てよいだろう。

もしも「美しい村」が明快な教会ソナタになっていなければ、
そこまで確信はもてないのだけれども。

2013年12月27日金曜日

風立ちぬ・解説20


風立ちぬ
さて話題は堀辰雄の風立ちぬに戻る。

堀の「風立ちぬ」は

序曲
春(移動する)
風立ちぬ(病室の中)
冬(歩き回る)
死のかげの谷

の5章に分かれる。

春と冬が対応している。
ということは、序曲と死のかげの谷が対応していると見て間違いない。

「美しい村」のような音楽的構成のような気もするが、
5楽章構成の曲で、このような内容の音楽がじつはあまりない。

バロックの組曲で

序曲
アルマンド
クーラント
サラバンド
ジーグ

というのはあるにはある。
が、致命的なことに、
三楽章クーラントの速度が速く、四楽章サラバンドの速度が遅い。

序曲
アルマンド
クーラント(急)
サラバンド(緩)
ジーグ(急)

序曲とアルマンドが、中庸のペース
という感じになることが多く、
風立ちぬのように、

序曲
春(移動する=急)
風立ちぬ(病室の中=緩)
冬(歩き回る=急)
死のかげの谷

という三楽章がもっともまったりとした曲、という構成にはならない。
堀辰雄の「風立ちぬ」は、
第三章風立ちぬが中心となるものなので、
どうしても第三楽章がゆっくりとしていないと、
対応しているとは言えないのだ。

ベートーヴェンの田園交響曲は5楽章構成だが、

「田舎に到着したときの愉快な感情の目覚め」
「小川のほとりの情景」
「田舎の人々の楽しい集い」
「雷雨、嵐」
「牧歌 嵐の後の喜ばしい感謝の気持ち」
という順序であり、
第三楽章はかなりアップテンポの曲になっている。

したがって堀辰雄「風立ちぬ」の雛形にはなりえない。

マーラーの交響曲第五番も同様の理由で却下。

唯一対応していると言えるのが
ベルリオーズの幻想交響曲である。
かなりグロテスク系の音楽(特に終楽章)なのでムード的には遠いのだが、
対応関係としてはもっとも近い。

次回は幻想交響曲と堀辰雄「風立ちぬ」対応関係について

風立ちぬ・解説19

映画「風立ちぬ」解読のために、
堀辰雄「風立ちぬ」を解読せねばならず、
そのために堀辰雄「美しい村」を解読するために、
トーマス・マンの「トニオ・クレーゲル」を解読しようとして、
トニオが準拠しているソナタ形式の解説をようやく終わったところである。


以下トニオの構造解説

提示部
A:主人公歩く(学校の帰り道、男の友人と)
B:主人公踊りを見る(好きだが手の届かない女の子の踊りを)
展開部
A1:主人公人生を歩む
B1:主人公自説をくるくる回転的に熱弁する(知人の女性に馬鹿にされながら)
再現部
A:主人公旅をする(故郷と、北海への旅)
B:主人公踊りを見る(提示部と男の子と女の子は結婚していた!)

小説としての出来はかなりよい。
個人的には読んで楽しくないのだが
(文体がくどくて重い)、
崇拝者が出現するのもよくわかる出来である。




ご覧いただきたいのだが、
芸術の言語は通常言語と音楽にはさまれた位置に存在する。

芸術言語は明確な意味がない。

言葉を多義的に、あるいは無義的にさえしようする。
だからどうしても形式が必要になるのである。

小説家、物語作家のいくつかは、
このことを十分に自覚し、
音楽に使用される形式を文学に適用できないかと考えた。

堀辰雄もその一人であり、
堀のような言語一つ一つを多義的に、使うひとならば、
(音楽に近い言語を使うということだから)
なおさら形式が重要になってくる。

重複になるが以下「美しい村」の形式

序曲:過去の女性への手紙、散漫な内容
美しい村:フーガ。村の中を歩き回る。
夏:新しい女性との出会い、まったりとした時間
暗い道:その新しい女性との道行きの短い描写

(参照、教会ソナタの典型)
1楽章:ゆっくりとして、自由な曲
2楽章:フーガ。テンポは速め。
3楽章:ゆっくりとした歌うような曲
4楽章:早目のテンポの曲

これほど形式を重視する作家ということは、
逆に言えばこれほど形式を重視しなければならないほど、
多義的な言葉遣いをする作家ということである、
ということを説明したくて、長々と音楽形式の説明をしてきた。

さてここまできて、
堀辰雄の「風立ちぬ」への解説に向かえる。