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2014年12月1日月曜日

銀河鉄道の夜・解読1

どうも日本アニメ系の人々にとって、
歴史上最重要の作品は、
宮沢賢治「銀河鉄道の夜」のようである。

私は昔から宮沢が嫌いなのでろくに読んでいなかった。
今回ようやく少しまとめて読んで、
なるほどこれは大きな作家だと理解できた。
45過ぎて遅い話である。

銀河鉄道の夜を解読するにあたって、
まずは宮沢賢治について考えたい。

賢治は童話作家である。
似た存在は、宮崎駿以外に居ない。
つまり、童話を書いているのだが、童話をかくのに相応しくないほどに、
頭の性能が高く、過剰に充実した作品を作っている。
宮崎の場合は、知識、教養、および動画作画能力である。
宮沢賢治の場合は、文章の密度である。

宮沢の文章は読みにくい。
それは単純に、文章教養が高いからである。
その素地はおそらく、
仏教によってつくられた。
賢治の実家は熱心な浄土真宗の信者で、
後にかれは日蓮宗に鞍替えするのだが、
重要なことは、子どもの頃から仏典に親しんでおり、
成人後もやはり仏典を教養の中心にすえている、ということである。
中島敦における漢文が、
宮沢賢治における仏典なのである。
坂口安吾も仏教を勉強しているが、
あれは成人後の勉強であり、
しかも「勉強」なのである。
宮沢賢治は「信者」である。
脳みそへのしみこみ方は、次元が違うはずである。

例えば「二十六夜」中の、
賢治がでっちあげたお経を見よ

「爾の時に疾翔大力、爾迦夷に告げて曰いはく、諦に聴け、諦に聴け、善之を思念せよ、我今汝に、梟鵄諸の悪禽、離苦解脱の道を述べん、と。
爾迦夷、則、両翼を開張し、虔く頸を垂れて、座を離れ、低く飛揚して、疾翔大力を讃嘆すること三匝にして、徐座に復し、拝跪して唯願ふらく、疾翔大力、疾翔大力、たゞ我等が為ために、これを説きたまへ。たゞ我等が為ために、之を説き給へと」

でっちあげにしては大変出来が良い。
彼は帝大卒でもなければ、洋行帰りでもないので、
土俗的なムードで見られることが多いのだが、
実体はなんのことはない、
仏教経典によって言語中枢を鍛え上げられた、
人間コンピューターのような面がある。

コンピューターという言い方が賢治を讃えることになるのか貶すことになるのか、
私にはわからないが、
いずれにせよ文章をつらねてゆく性能として、
極端に高いものがある、ということが賢治作品解読の基本認識になる。


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2014年11月28日金曜日

小津安二郎「秋刀魚の味」解読


小津の最後の作品、「秋刀魚の味」は、
おそらく彼の最高傑作ではないかと思う。
小津嫌いの私でも認めざるを得ないほどに、優れている。

この作品を傑作たらしめているのは、
バーでの場面である。
この場面のみ解読する。
それだけでおそらく、
小津映画の全てを解読したことになるであろうことを期待している。

以下役名ではなく、俳優名で説明する。

笠智衆はラーメン屋で偶然昔の部下、加東大介に再会する。
「艦長、お久しぶりです」
笠智衆は朝風という駆逐艦の館長、加東は乗組員だった。

二人はバーで酒を飲みながら旧交を温める。
「艦長、どうして日本は負けちゃったんですかねえ」
「さあねえ、だけど負けて逆によかったじゃないか」

そこにバーのマダム、岸田今日子が帰ってくる。
岸田は笠智衆の亡き妻ににている、という劇中設定になっている。
岸田は髪が濡れ、頭にタオルを巻いている。

「あらいらっしゃい。わたし銭湯行っていたのよ。
お酌しましょうか?
いつものあれ、かけましょうか?」

あれとは、軍艦マーチのレコードである。
岸田がレコードをかけると、
加東は体を揺らし、敬礼をする。
「艦長もやってくださいよ」
笠智衆もつきあって敬礼する。
岸田もつきあって敬礼する。
加東は調子にのって、狭いバーの店内で行進しはじめる。

するとどうだろう、
画面には確かに狭いバーの店内しか映していないのに、
視聴者の脳内に別の映像が浮かび上がってくるのである。
広大な海洋に波を切って進む、連合艦隊が。

それは、どんな特撮映画もかなわない、美しい連合艦隊の姿である。
あたりまえである、おのおのが頭に描くもっとも美しい姿なのだから、
他人の描く絵がかなうわけがない。
芸術の要点が想像力の喚起だとすれば、
映画の、最高に芸術的になった瞬間だろうと思う。

さて、解読である。
駆逐艦朝風は1944年に、魚雷攻撃を受けて沈没している。
当時の習慣として、船が沈没して艦長が生存したとは考えがたい。
笠智衆は死者である可能性が大きい。
それと話している加東も、やはり死者であろう。

そう考えれば、岸田今日子を銭湯帰りという設定にした理由も了解できる。
彼女はたったいま、十数年間浸かっていた水の中から上がってきたのである。

小津安二郎は、兵隊として招集もされたし、
除隊後も映画製作のために外地にも行き、
終戦はシンガポールで迎えている。
戦争を全身で体験した人物である。

コミカルな軍艦マーチのバーのシーンの裏には、
連合艦隊の雄姿シーンが隠れており、そのさらに裏には、
死者に対する合掌のような、祈りのシーンが隠れている。




2014年10月30日木曜日

風立ちぬ・解説28

神曲煉獄編、魔の山、堀「風立ちぬ」と宮崎「風立ちぬ」の、
共通要素の一覧である。










もはや、いちいち細かい説明はしない。
この映画が傑作であるという証明は、
この一覧だけで十分である。


ダンテのこだわった「7」という数字は、
聖書由来のものであるが、
淵源をたどればメソポタミア文明にゆきつく。
メソポタミアは海から上がってきた7人の賢人が、
7つの都市を建設してから始まった、
という伝説があるらしい。
宮崎駿がそこまで意識したものかどうかは不明である。


文化とは連続である。
物語を要素に分解して、
「これでどんな物語も自由に創造できる」
とよろこんでいた時代もあった。
(お気づきだろうか、
物語を要素分解して、組み合わせを変えて再創造というのは、
遺伝子組み換え作業に酷似している)


だがそれは創造ではなく、
順列組み合わせの羅列でしかない。
人や民族や国と同じく、
物語も時間の上に連続して存在するものであり、
南北朝の楠→大阪の陣の真田→太平洋戦争の神風
のように、連続してひとを動かすものである。


そのような物語の連続性を描写しつつ、
宮崎終生の主題である、
テクノロジーと人間の相克を描いたのが本作である。
宮崎駿「風立ちぬ」の解読をこれにてひとまず終了する。



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