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2014年12月19日金曜日

銀河鉄道の夜・解読2

銀河鉄道の夜は、完成していない。
第四稿まで推敲されたが、結局完成されないまま、
原稿の欠落や矛盾を抱えたまま出版されている。
そのため、きれいな構造を見出すことが難しい。
構造が見えたとしても、
それは推敲途中の構造であり、
作者の最終目標ではない可能性が捨てきれないから、
このページで過去にやってきたような、
確実な情報としては伝えづらい。
その上で、読み解けた部分を説明してゆきたい。

当然ながら銀河鉄道の夜は、
星空を旅する物語である。
読み解きには星空の参照が欠かせないが、
その点については既に十分な研究がある。

プリオシン海岸



天文に疎い私としては、
この方面で書き加えるべき知見は特に無い。

それで従来どおり物語の構造を見てゆこう。

まず章立てである。
9章に分かれているが、
9章目の「ジョバンニの切符」が規模が大きすぎる。
それで「ジョバンニの切符」のみを、
11に分ける。

一、午后の授業
二、活版所
三、家
四、ケンタウル祭の夜
五、天気輪の柱
六、銀河ステーション
七、北十字とプリオシン海岸
八、鳥を捕る人
九、ジョバンニの切符
9-2 タイタニック死者の乗車
9-3 リンゴ
9-4 かささぎ 孔雀 渡り鳥
9-5 新世界交響楽 インディアン
9-6 ソ連の発破と双子の星
9-7 蠍の炎
9-8 ほんとうの神様
9-9 石炭袋とカンパネルラの消滅
9-10 牛乳の入手
9-11 カンパネルラ溺死と父帰還の予感

その上で、例えば鉄道について注目してみる


三、家 (模型の鉄道)
五、天気輪の柱 (現実の鉄道)
六、銀河ステーション (銀河鉄道)

鉄道は3回登場する。
家でジョバンニはカンパネルラ宅での鉄道模型遊びについて言及する。
天気輪の柱でジョバンニは遠くの列車を見る。
銀河ステーションでジョバンニは銀河鉄道に乗り込む。

次にレンズに注目する

一、午后の授業 天の川のレンズ
二、活版所 虫眼鏡くん
九、ジョバンニの切符 アルビオン観測所のレンズ

レンズも3回登場する。
午後の授業で、先生は天の川はレンズ状になっていると説明する
活版所でジョバンニは、「よう虫眼鏡くん」と馬鹿にされる
ジョバンニの切符で、アルビオン観測所にレンズがある

どうも「3回」というのがかなり重要なようだ。

「鏡」あるいは「千と千尋の神隠し」想起いただきたい。
いずれも「3」で仕立てられた物語であるが、
そのような物語の場合、
そのことが作品冒頭で暗示されている。

で、銀河鉄道本文を検討すると、
「3」という数字が頻出する。

二、活版所より
「町を三つ曲がってある大きな活版所に入って」
「入り口から三番目の高いテーブルに座った人」

三、家より
「三つ並んだ入り口の左側には」
「ああ三時ごろ帰ったよ」

四、ケンタウル祭の夜より
「三本の足のついた小さな望遠鏡」

五、天気輪の柱より
「青い琴の星が三つにも四つにもなって」

六、銀河ステーションより
「天気輪の柱がいつしかぼんやりとした三角標の形になって」

というわけで、
銀河鉄道の夜の中には、
同一のものが三回出現する、と仮定して読み解きをすすめる。


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2014年12月1日月曜日

銀河鉄道の夜・解読1

どうも日本アニメ系の人々にとって、
歴史上最重要の作品は、
宮沢賢治「銀河鉄道の夜」のようである。

私は昔から宮沢が嫌いなのでろくに読んでいなかった。
今回ようやく少しまとめて読んで、
なるほどこれは大きな作家だと理解できた。
45過ぎて遅い話である。

銀河鉄道の夜を解読するにあたって、
まずは宮沢賢治について考えたい。

賢治は童話作家である。
似た存在は、宮崎駿以外に居ない。
つまり、童話を書いているのだが、童話をかくのに相応しくないほどに、
頭の性能が高く、過剰に充実した作品を作っている。
宮崎の場合は、知識、教養、および動画作画能力である。
宮沢賢治の場合は、文章の密度である。

宮沢の文章は読みにくい。
それは単純に、文章教養が高いからである。
その素地はおそらく、
仏教によってつくられた。
賢治の実家は熱心な浄土真宗の信者で、
後にかれは日蓮宗に鞍替えするのだが、
重要なことは、子どもの頃から仏典に親しんでおり、
成人後もやはり仏典を教養の中心にすえている、ということである。
中島敦における漢文が、
宮沢賢治における仏典なのである。
坂口安吾も仏教を勉強しているが、
あれは成人後の勉強であり、
しかも「勉強」なのである。
宮沢賢治は「信者」である。
脳みそへのしみこみ方は、次元が違うはずである。

例えば「二十六夜」中の、
賢治がでっちあげたお経を見よ

「爾の時に疾翔大力、爾迦夷に告げて曰いはく、諦に聴け、諦に聴け、善之を思念せよ、我今汝に、梟鵄諸の悪禽、離苦解脱の道を述べん、と。
爾迦夷、則、両翼を開張し、虔く頸を垂れて、座を離れ、低く飛揚して、疾翔大力を讃嘆すること三匝にして、徐座に復し、拝跪して唯願ふらく、疾翔大力、疾翔大力、たゞ我等が為ために、これを説きたまへ。たゞ我等が為ために、之を説き給へと」

でっちあげにしては大変出来が良い。
彼は帝大卒でもなければ、洋行帰りでもないので、
土俗的なムードで見られることが多いのだが、
実体はなんのことはない、
仏教経典によって言語中枢を鍛え上げられた、
人間コンピューターのような面がある。

コンピューターという言い方が賢治を讃えることになるのか貶すことになるのか、
私にはわからないが、
いずれにせよ文章をつらねてゆく性能として、
極端に高いものがある、ということが賢治作品解読の基本認識になる。


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2014年11月28日金曜日

小津安二郎「秋刀魚の味」解読


小津の最後の作品、「秋刀魚の味」は、
おそらく彼の最高傑作ではないかと思う。
小津嫌いの私でも認めざるを得ないほどに、優れている。

この作品を傑作たらしめているのは、
バーでの場面である。
この場面のみ解読する。
それだけでおそらく、
小津映画の全てを解読したことになるであろうことを期待している。

以下役名ではなく、俳優名で説明する。

笠智衆はラーメン屋で偶然昔の部下、加東大介に再会する。
「艦長、お久しぶりです」
笠智衆は朝風という駆逐艦の館長、加東は乗組員だった。

二人はバーで酒を飲みながら旧交を温める。
「艦長、どうして日本は負けちゃったんですかねえ」
「さあねえ、だけど負けて逆によかったじゃないか」

そこにバーのマダム、岸田今日子が帰ってくる。
岸田は笠智衆の亡き妻ににている、という劇中設定になっている。
岸田は髪が濡れ、頭にタオルを巻いている。

「あらいらっしゃい。わたし銭湯行っていたのよ。
お酌しましょうか?
いつものあれ、かけましょうか?」

あれとは、軍艦マーチのレコードである。
岸田がレコードをかけると、
加東は体を揺らし、敬礼をする。
「艦長もやってくださいよ」
笠智衆もつきあって敬礼する。
岸田もつきあって敬礼する。
加東は調子にのって、狭いバーの店内で行進しはじめる。

するとどうだろう、
画面には確かに狭いバーの店内しか映していないのに、
視聴者の脳内に別の映像が浮かび上がってくるのである。
広大な海洋に波を切って進む、連合艦隊が。

それは、どんな特撮映画もかなわない、美しい連合艦隊の姿である。
あたりまえである、おのおのが頭に描くもっとも美しい姿なのだから、
他人の描く絵がかなうわけがない。
芸術の要点が想像力の喚起だとすれば、
映画の、最高に芸術的になった瞬間だろうと思う。

さて、解読である。
駆逐艦朝風は1944年に、魚雷攻撃を受けて沈没している。
当時の習慣として、船が沈没して艦長が生存したとは考えがたい。
笠智衆は死者である可能性が大きい。
それと話している加東も、やはり死者であろう。

そう考えれば、岸田今日子を銭湯帰りという設定にした理由も了解できる。
彼女はたったいま、十数年間浸かっていた水の中から上がってきたのである。

小津安二郎は、兵隊として招集もされたし、
除隊後も映画製作のために外地にも行き、
終戦はシンガポールで迎えている。
戦争を全身で体験した人物である。

コミカルな軍艦マーチのバーのシーンの裏には、
連合艦隊の雄姿シーンが隠れており、そのさらに裏には、
死者に対する合掌のような、祈りのシーンが隠れている。