第一巻「春の雪」には動物の死骸が2回出てくる。滝にかかる黒い犬の死骸と、もぐらの死体である。黒い犬は、門跡に供養される。この作品で門跡に供養されるのは、ほかには本多しかいない。となると黒い犬は、本多の死体が時間がループして本多の目の前にあると考えて良いだろう。もぐらは安永である。安永は盲目なのでまず間違いない。可哀想に松枝に池に捨てられる。
今日の読解は、いわゆる芸術的であり、思想的であり、いやどういう言い方をすればわからないが、やたらと凝った言葉遣いでされることが多い。ところが、三島自身はそういう現代思想が流行した時代よりも前の人物である。つまり、そのような言葉遣いで三島の作品を分析しても、かえって分析出来ないということになる。簡略な、簡潔な言葉で分析していったほうが、結果が良い。
難解な言葉を使うということは、考えるスピードが遅くなるということである。時間がふんだんにあるなら別だが、普通の人間は簡潔な言葉で読解をすすめることをお勧めする。簡潔な言葉でも数年かかるのが大作の読解である。難解なことばだと何十年かかるやら。
犬の死骸とモグラの死骸の正体も、作者がなにを達成したかったのか、という疑問から逆算すれば、わりに単純な話である。Naverにも書いたが、「天人五衰」に登場する謎の人物2人についても同様である。
柏倉浩造氏は、三島本人であると理解されているようであるが、単純に考えるならば、作中ナイフを使えるような登場人物は、飯沼勲のみなのである。ベレー帽の老人は本多の二十程度年下で、身軽である。飯沼の分身、としか考えられない。野菜の老人も、松枝の分身という考え方で十分であろう。当然「なぜジンジャンの分身は出現しないのか」という疑問が出てくるが、ジンジャンの分身はジンジャンの姉である。というか姉に三つの黒子があったのだから、本物といいいうるのは寧ろ姉であって、ジンジャンが偽物、分身であっった。ここの本多の錯誤が、全編の転換点になる。そして本多の分身も時間をループさせて第一巻「春の雪」に登場し、安永の分身もループさせて登場する。主な人物は一応全部処理されているのである。
ページ
2016年4月8日金曜日
「豊饒の海」追記
http://matome.naver.jp/odai/2146003917202443101?&page=1
長い時間がかかった。最初に読んでから2年以上かかっている。なんとかまとめられた。細かい部分はまだ残るが、とりあえずここで区切りとする。
私自身は、さしたる文学好きではない。文学を専攻していた人間に比べれば、読んだ文学作品は三十分の一くらいだろう。実はそもそも三島が好きではない。読んでない作品のほうが多い。あの文体が気に入らない。読みにくく、読むスピードが上がらない。無駄な装飾に満ちている気がする。最上級の偽物の気がする。それでも、豊饒の海に取り組んではっきり言えるのが、ともかくこのひとは全力を出せる人である、ということである。悲しいほどに、哀れなほどに全力を尽くして、この作品を書いた。敬服に値する。
文学の研究をされている諸氏に申し上げたい。全力で書かれた作品は存在する。才能のある作家が、全力で書いているのである。そのような作品には、礼儀を持って対しなければならない。別の言い方をすれば、読み込まなければならない。
「読み込む」という世界が存在するのである。多くの文学研究者が知らない世界である。なぜ知らないと断言できるか。一覧表を見る機会がすくないからである。
大作ならば、最低でも登場人物表と章立て表、いずれもできるだけ詳細なものを作成しなければ、作品の読み込みは不可能である。フォンノイマンくらいの頭脳の持ち主ならばいざしらず、通常の脳みそでは、才能ある作家の構想は、章立て表や登場人物表を作って初めて浮かび上がるものである。100回読む、10年読む、それだけの理解が、一覧表を作成しさえすれば、数年で、十数回の通読で達成できる。その一覧表をあまり見かけないということは、多くの大学で文学を講じているにもかかわらず、文学作品そのものの研究はあまりされていないはずである。
それでも直感の鋭い人はいるもので、驚くべきことに、豊饒の海がニーベリングの指環を下敷きにしていることを、作家の村上春樹と、漫画家の岡本倫は認識している。それは作品から明らかである。そして文学研究者は認識が不十分である。小耳に挟んだことはあるのかもしれないが、十分掘り下げずに放置されてきた。不名誉なことだろうと思う。
http://www.michitani.com/books/ISBN4-89642-021-7.html
柏倉浩造
この読み解きは名著である。私とは考えが違うが、ジンジャンの入れ替え物語の読み解きは大変参考になった。感謝申し上げる。
http://homepage3.nifty.com/fm-classic-live/027K.html
以下黛さんの発言****「豊饒の海」と「ニーベルングの指輪」の相似性というのは私の友人でこれも死にましたけど矢代秋雄君という作曲家が、いち早くそれを指摘して三島さんの生前のことですけど、非常に三島さんの思想には、ワーグナーに通じるものがあると論文を書いたことがある***
というふうに、作曲家も早くから指摘していた。
実は問題の根源は、ワーグナーにある。「ニーベルングの指環」の台本が、デキが悪いのである。おそらく多くの三島研究者が台本に取り組み、できの悪さに呆れ果てて放棄したはずである。わたしもそうしそうになった。しかし現在では
http://www31.atwiki.jp/oper/pages/1843.html
全編を日本語翻訳して無料で公表してくれる人が居るのである。この方の翻訳がなければ、豊饒の読み解きは不可能だった。
三島は「憂国」の映画でトリスタンとイゾルデを使うほどワーグナー好きである。当時の作家の一つの目標が、ドイツの作家トーマス・マンで、マン自身ワーグナー好きで影響を受けているから、マン好きの三島(たとえば禁色などはほぼヴェニスに死すである)がワーグナー好きになるのは当たり前である。しかしワーグナーの台本読んでつくづく感じるのは、「ああ、この人はソナタ形式書けないはずだ」というものである。構成感覚自体が、あまり良くない。ピリっと締まった密度の高さが、達成できない人なのである。その構成の甘さは、「豊饒の海」にも引き継がれる。
長い時間がかかった。最初に読んでから2年以上かかっている。なんとかまとめられた。細かい部分はまだ残るが、とりあえずここで区切りとする。
私自身は、さしたる文学好きではない。文学を専攻していた人間に比べれば、読んだ文学作品は三十分の一くらいだろう。実はそもそも三島が好きではない。読んでない作品のほうが多い。あの文体が気に入らない。読みにくく、読むスピードが上がらない。無駄な装飾に満ちている気がする。最上級の偽物の気がする。それでも、豊饒の海に取り組んではっきり言えるのが、ともかくこのひとは全力を出せる人である、ということである。悲しいほどに、哀れなほどに全力を尽くして、この作品を書いた。敬服に値する。
文学の研究をされている諸氏に申し上げたい。全力で書かれた作品は存在する。才能のある作家が、全力で書いているのである。そのような作品には、礼儀を持って対しなければならない。別の言い方をすれば、読み込まなければならない。
「読み込む」という世界が存在するのである。多くの文学研究者が知らない世界である。なぜ知らないと断言できるか。一覧表を見る機会がすくないからである。
大作ならば、最低でも登場人物表と章立て表、いずれもできるだけ詳細なものを作成しなければ、作品の読み込みは不可能である。フォンノイマンくらいの頭脳の持ち主ならばいざしらず、通常の脳みそでは、才能ある作家の構想は、章立て表や登場人物表を作って初めて浮かび上がるものである。100回読む、10年読む、それだけの理解が、一覧表を作成しさえすれば、数年で、十数回の通読で達成できる。その一覧表をあまり見かけないということは、多くの大学で文学を講じているにもかかわらず、文学作品そのものの研究はあまりされていないはずである。
それでも直感の鋭い人はいるもので、驚くべきことに、豊饒の海がニーベリングの指環を下敷きにしていることを、作家の村上春樹と、漫画家の岡本倫は認識している。それは作品から明らかである。そして文学研究者は認識が不十分である。小耳に挟んだことはあるのかもしれないが、十分掘り下げずに放置されてきた。不名誉なことだろうと思う。
http://www.michitani.com/books/ISBN4-89642-021-7.html
柏倉浩造
この読み解きは名著である。私とは考えが違うが、ジンジャンの入れ替え物語の読み解きは大変参考になった。感謝申し上げる。
http://homepage3.nifty.com/fm-classic-live/027K.html
以下黛さんの発言****「豊饒の海」と「ニーベルングの指輪」の相似性というのは私の友人でこれも死にましたけど矢代秋雄君という作曲家が、いち早くそれを指摘して三島さんの生前のことですけど、非常に三島さんの思想には、ワーグナーに通じるものがあると論文を書いたことがある***
というふうに、作曲家も早くから指摘していた。
実は問題の根源は、ワーグナーにある。「ニーベルングの指環」の台本が、デキが悪いのである。おそらく多くの三島研究者が台本に取り組み、できの悪さに呆れ果てて放棄したはずである。わたしもそうしそうになった。しかし現在では
http://www31.atwiki.jp/oper/pages/1843.html
全編を日本語翻訳して無料で公表してくれる人が居るのである。この方の翻訳がなければ、豊饒の読み解きは不可能だった。
三島は「憂国」の映画でトリスタンとイゾルデを使うほどワーグナー好きである。当時の作家の一つの目標が、ドイツの作家トーマス・マンで、マン自身ワーグナー好きで影響を受けているから、マン好きの三島(たとえば禁色などはほぼヴェニスに死すである)がワーグナー好きになるのは当たり前である。しかしワーグナーの台本読んでつくづく感じるのは、「ああ、この人はソナタ形式書けないはずだ」というものである。構成感覚自体が、あまり良くない。ピリっと締まった密度の高さが、達成できない人なのである。その構成の甘さは、「豊饒の海」にも引き継がれる。
2016年3月29日火曜日
西アメリカ帝国4
アメリカが世界の警察を降りることによっておこることは、
結局核の拡散である。
日本、韓国、台湾も核武装するだろう。
これはこれで問題だが、ギリギリ地域を安定させることは可能だと思う。
問題は中近東への核の拡散である。
戦後中近東は「イスラエル-サウジアラビア体制」というべきもので秩序を保って来た。
おそらく、「トルコ-イラン体制」に移行するのだが、
両者とも核武装するだろう。
そしてどこかで核戦争が始まる。
結局核の拡散である。
日本、韓国、台湾も核武装するだろう。
これはこれで問題だが、ギリギリ地域を安定させることは可能だと思う。
問題は中近東への核の拡散である。
戦後中近東は「イスラエル-サウジアラビア体制」というべきもので秩序を保って来た。
おそらく、「トルコ-イラン体制」に移行するのだが、
両者とも核武装するだろう。
そしてどこかで核戦争が始まる。
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