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2016年4月10日日曜日

「豊饒の海」追記3

三島由紀夫の熱心な読者ではないもので、「潮騒」も「仮面」も読んでいない。「仮面」は人間失格を下敷きにしているという説があるそうである。しかし読んでいないのでなんとも言えない。
そんな私でも、「潮騒」の「炎を飛び越えてうんぬん」というフレーズは見たことがある。普通に考えれば下敷きは、炎を飛び越えてブリュンヒルデの目を覚ました、ジークフリートが原型である。であるならば、最後の大作「豊饒の海」も、ニーベルングの指環を下敷きにしているはずである。日本文学研究者たちは、どこでそれを、つまり読み解きのルートを見失ったのだろうか?


問題の根源は、知識の蛸壺化にあるのだが、それを促したのは、専門家によるあまりにも専門的な用語の使用の氾濫である。通常の人間は、専門家の書いた文学論を読まない。なにを書いているかわからないからである。ひょっとして本人ですらなにを書いているかわからないような晦渋な文章で、ただでさえ難しい文学の論評をする。そうすると、論評される前よりも論評された後のほうが、文学がわかりにくくなるのである。小林秀雄以降の文学評論の多くはそうである。
ところで、人間の脳みその大きさは一定である。少なくともこの数十年間変化は無い。そしてたとえば60年前の人の文学理解と同レベルの文学理解を達成しようと考えると、難しい言葉遣いによってわかりにくくなっている分、60年前の人よりもより多くの脳みそパワーを消費しなければ、同じ地点に到達できないということになる。
そうはいっても、やはり文学研究者であるならば、人に負けるわけにはいかない。無理でもなんでもガリガリ頭に入れてしまう。同じ人間だから、同じ脳みそサイズだから、無理な努力は必ずどこかにひずみを生む。ひずみは一般教養の不足となって表れる。トーマスマンの全著作は読んである。三島も全部読んでいる。それは凄いことである。一方で「ニーベルングの指環」のあらすじを把握していない。それでは実は、「豊饒の海」は読めないのである。三島は、豊富な教養を持っている。すくなくとも「デフレ政策が既得権益者を保護する政策である」ということは、理解できているのである。では今日の文芸評論家の何人がそれを理解したか。
三島は法律でも、経済でも、文学でも、かなりバランス良く理解、目配りできてる。つまり、統合的な知識人である。その三島を研究するひとが、ある程度のバランスの知識を持たず、「三島文学」のみをひたすら研究しつづけるとしたら、それはなんのための研究なのであろうか。それは本当に三島由紀夫の研究なのであろうか。
そして、この諸悪の根源である文学評論の小難しい文体に対する責任の大半は小林秀雄にあるとしても、実は三島由紀夫の小説の文体も、与って罪ある文体なのである。意味もなく小難しく、過剰装飾の文体である。インテリが飛びつきそうな文体である。かれの文体を真似た研究者たちによって、どれほど文学がわかりにくくなったことか、そして、わかりにくくなった作品群には、三島の小説も含まれる。
変な結論が出てしまった。なんのこっちゃ、三島の「豊饒の海」が十分に読解されてこなかった責任は、三島自身にもあるということになる。三島の装飾過剰な文体いあるということになる。そして、小難しい文体で論評をしている人々は、三島の忠実な後継者ということになり、それを嫌う私こそが異端ということになる。読まない人が忠臣で、読んだ人間が謀反人なのである。
つまり三島はおそらく、自分の作品をそんなに読んで欲しいと思っていなかったと思う。読んでもらいたい、人に届けたいという強い欲求を、三島の作品からは感じることが出来ないのである。逆に言えば、三島は自分の中に大きな問題を抱えていなかったように思える。なんでも出来てしまう。なんでも理解できる。マスコミからはスター扱いされる。不足が無い。そんな三島が羨む存在は何もない。
そんな彼が例外的に羨んだであろう存在は、三島のような秀才には決して出来ないことをする、身勝手で、わがままで、情緒不安で、エゴイスティックなエロスを持つ人物、馬鹿に分類されるような人物、ワーグナーと太宰のみだったのではないか。玉川上水の濁流に半分ジークフリート、半分ハーゲンの男が飲み込まれてゆく嫌なイメージとともに、そう思う。





2016年4月8日金曜日

「豊饒の海」追記2

第一巻「春の雪」には動物の死骸が2回出てくる。滝にかかる黒い犬の死骸と、もぐらの死体である。黒い犬は、門跡に供養される。この作品で門跡に供養されるのは、ほかには本多しかいない。となると黒い犬は、本多の死体が時間がループして本多の目の前にあると考えて良いだろう。もぐらは安永である。安永は盲目なのでまず間違いない。可哀想に松枝に池に捨てられる。


今日の読解は、いわゆる芸術的であり、思想的であり、いやどういう言い方をすればわからないが、やたらと凝った言葉遣いでされることが多い。ところが、三島自身はそういう現代思想が流行した時代よりも前の人物である。つまり、そのような言葉遣いで三島の作品を分析しても、かえって分析出来ないということになる。簡略な、簡潔な言葉で分析していったほうが、結果が良い。
難解な言葉を使うということは、考えるスピードが遅くなるということである。時間がふんだんにあるなら別だが、普通の人間は簡潔な言葉で読解をすすめることをお勧めする。簡潔な言葉でも数年かかるのが大作の読解である。難解なことばだと何十年かかるやら。


犬の死骸とモグラの死骸の正体も、作者がなにを達成したかったのか、という疑問から逆算すれば、わりに単純な話である。Naverにも書いたが、「天人五衰」に登場する謎の人物2人についても同様である。


柏倉浩造氏は、三島本人であると理解されているようであるが、単純に考えるならば、作中ナイフを使えるような登場人物は、飯沼勲のみなのである。ベレー帽の老人は本多の二十程度年下で、身軽である。飯沼の分身、としか考えられない。野菜の老人も、松枝の分身という考え方で十分であろう。当然「なぜジンジャンの分身は出現しないのか」という疑問が出てくるが、ジンジャンの分身はジンジャンの姉である。というか姉に三つの黒子があったのだから、本物といいいうるのは寧ろ姉であって、ジンジャンが偽物、分身であっった。ここの本多の錯誤が、全編の転換点になる。そして本多の分身も時間をループさせて第一巻「春の雪」に登場し、安永の分身もループさせて登場する。主な人物は一応全部処理されているのである。



「豊饒の海」追記

http://matome.naver.jp/odai/2146003917202443101?&page=1


長い時間がかかった。最初に読んでから2年以上かかっている。なんとかまとめられた。細かい部分はまだ残るが、とりあえずここで区切りとする。


私自身は、さしたる文学好きではない。文学を専攻していた人間に比べれば、読んだ文学作品は三十分の一くらいだろう。実はそもそも三島が好きではない。読んでない作品のほうが多い。あの文体が気に入らない。読みにくく、読むスピードが上がらない。無駄な装飾に満ちている気がする。最上級の偽物の気がする。それでも、豊饒の海に取り組んではっきり言えるのが、ともかくこのひとは全力を出せる人である、ということである。悲しいほどに、哀れなほどに全力を尽くして、この作品を書いた。敬服に値する。


文学の研究をされている諸氏に申し上げたい。全力で書かれた作品は存在する。才能のある作家が、全力で書いているのである。そのような作品には、礼儀を持って対しなければならない。別の言い方をすれば、読み込まなければならない。


「読み込む」という世界が存在するのである。多くの文学研究者が知らない世界である。なぜ知らないと断言できるか。一覧表を見る機会がすくないからである。
大作ならば、最低でも登場人物表と章立て表、いずれもできるだけ詳細なものを作成しなければ、作品の読み込みは不可能である。フォンノイマンくらいの頭脳の持ち主ならばいざしらず、通常の脳みそでは、才能ある作家の構想は、章立て表や登場人物表を作って初めて浮かび上がるものである。100回読む、10年読む、それだけの理解が、一覧表を作成しさえすれば、数年で、十数回の通読で達成できる。その一覧表をあまり見かけないということは、多くの大学で文学を講じているにもかかわらず、文学作品そのものの研究はあまりされていないはずである。


それでも直感の鋭い人はいるもので、驚くべきことに、豊饒の海がニーベリングの指環を下敷きにしていることを、作家の村上春樹と、漫画家の岡本倫は認識している。それは作品から明らかである。そして文学研究者は認識が不十分である。小耳に挟んだことはあるのかもしれないが、十分掘り下げずに放置されてきた。不名誉なことだろうと思う。




http://www.michitani.com/books/ISBN4-89642-021-7.html
柏倉浩造


この読み解きは名著である。私とは考えが違うが、ジンジャンの入れ替え物語の読み解きは大変参考になった。感謝申し上げる。




http://homepage3.nifty.com/fm-classic-live/027K.html


以下黛さんの発言****「豊饒の海」と「ニーベルングの指輪」の相似性というのは私の友人でこれも死にましたけど矢代秋雄君という作曲家が、いち早くそれを指摘して三島さんの生前のことですけど、非常に三島さんの思想には、ワーグナーに通じるものがあると論文を書いたことがある***
というふうに、作曲家も早くから指摘していた。




実は問題の根源は、ワーグナーにある。「ニーベルングの指環」の台本が、デキが悪いのである。おそらく多くの三島研究者が台本に取り組み、できの悪さに呆れ果てて放棄したはずである。わたしもそうしそうになった。しかし現在では
http://www31.atwiki.jp/oper/pages/1843.html
全編を日本語翻訳して無料で公表してくれる人が居るのである。この方の翻訳がなければ、豊饒の読み解きは不可能だった。




三島は「憂国」の映画でトリスタンとイゾルデを使うほどワーグナー好きである。当時の作家の一つの目標が、ドイツの作家トーマス・マンで、マン自身ワーグナー好きで影響を受けているから、マン好きの三島(たとえば禁色などはほぼヴェニスに死すである)がワーグナー好きになるのは当たり前である。しかしワーグナーの台本読んでつくづく感じるのは、「ああ、この人はソナタ形式書けないはずだ」というものである。構成感覚自体が、あまり良くない。ピリっと締まった密度の高さが、達成できない人なのである。その構成の甘さは、「豊饒の海」にも引き継がれる。