ページ

2018年10月6日土曜日

米中戦争

中国、半島は「古代国家」である。

「優生学」の悪名のもとに見失われがちな知見だが、東アジアの住民は、元来世界最高レベルの知能指数を持っている。文化的に、ではなく生物的に最高レベルなのである。単純に言えば頭がよい。だから日本、半島、中国が世界の政治経済をリードしてもおかしくない。しかし現状そうなっていない。元大統領の裁判見ればわかるとおり、韓国も民主主義、近代国家とは言いがたい。中国の民主化ははるか未来の蜃気楼である。

メリットはデメリットの母である。東アジアの住民は知能が高く、高いせいで学習能力が高く、過去の記憶の保持能力が高い。日本の場合は過去を天皇に押し込んで自由に動けるが、半島と中国は天皇がいないのでそうはいかない。近代文明をいくら学習しても、過去の文明が忘れられない。過去を強く覚えている。それゆえ、彼らは依然として古代国家である。

古代国家とはなにか。王がおり、その近辺のみが主権を握り、一方で民衆は民草であって国家の存亡には関心がない。自己の利益のみを追求する。ようするに、近代国家にくらべればはるかにバラバラである。現に、大量の人々が日本に出稼ぎに来ているが、本国に帰りたい、本国を良くしたいという志を持つひとは非常に少ない。まったく無いとは言わないが。

その古代国家の人々が、資本の流入により経済成長した。金持ちになった。なっても中身は近代人ではない。古代人である。社会全体、国家全体は考えない。考える習慣がない。全員得手勝手に利益を追求してゆく。そんな彼らが神の見えざる手によって最適化された姿が、現在の韓国、中国である。

アメリカはその中国と、はっききり敵対関係になった。なったがアメリカはおそらく理解していまい、自分たちが対峙する敵は、自分たちのような、国家意思を持った人々ではない。各人が利益を追求しているだけの人々の集合である。つまり、敵としての実態は存在していない。

南シナ海で活動している中国海軍は、おそらく習近平の意思と関係なく動いている。なぜなら古代国家とはそういうものだから。中国海軍はアメリカと戦いたいのではなく、習近平を、アメリカの力を借りて脅迫したいのであろう。古代国家の住民としては当然の行動である。

日本でも盛んだが、アメリカマスコミへの介入も、民主主義への介入も、国家意思ではない。担当者個人の欲望、自分が中国政府内部で確固たるポジションを確立するための活動で、活動をエグいくらい出来なければ、やがで失脚するか、消滅するのが、古代国家の官僚の運命だからである。

元来アメリカが作ったのが共産党中国である。現在オーナーが、作品を潰そうとしている。つまり、アメリカは自分の作品の不完全さを認めたのである。次の統治システムは、当然オーナーであるアメリカが作る。しかしどう作るかは大変むずかしい。古代国家の伝統が、当面生き続けるからである。

2018年9月27日木曜日

経済学

多くの経済学者が、「リフレーション政策は有害無益だ」あるいは「消費税増税は必要だ」と言ってきた。「復興増税」に大量の経済学者が賛成した。彼らの見識の程度は明らかである。ところが彼らは、なんの反省もせず、なんの責任も取らず、今も教職にあって学生を教え続けている。学生こそいい面の皮である。間違った教師から教わるのは、なにも教わらないよりはるかに悪い。間違った教師から教わった学生は、一部の天才と一部の反抗児以外は、全部使い物にならなくなる。時間をかけてお金を払って経済学がわからなくなる努力を、多くの学生が日々積み重ねている。悪夢である。間違った情報のインプットは、ほとんどの場合致命的なのである。

政治学者にもそういった類はわんさかいるようである。おそらく、法律分野でも、歴史分野でもわんさか居る。居るが、まったく改善されない。

諸悪の根源は、私は文学だと思っている。文学理解が不十分だから、思考能力が身につかない。私は文学同様経済も素人だが、消費税のまずさくらいすぐわかる。私の1万倍くらい経済学の知識のある大学教授がわからない。これは私見では、文学理解の問題である。

文学が最低限は理解できなければ、現代社会はどうも理解できないようである。最低限の理解とはなにか。それは「とおりいっぺん読んだだけでは理解できない、重層的なところが、文学にある」ということである。べつに個々の作品を読み解く必要はない。「読み解きが必要な文学がある」ことだけ理解できれば十分なのである。

海外の政治化の多くはそうであるし、日本の政治家でもすぐれた人々は、大変文学的に話す。多義的に話す。裏の意味があったりする。裏の意味があるかどうかの判断は、じつはすべて状況からの類推である。だから証拠はない。単純な発言かもしれない。でも政治家である程度以上力量があるならば、裏の意味をもっていると決めて類推する必要がある。
長期間政治学の勉強をしながら、裏がまったく読めない人が居る。よめなくてもよい、よいが「裏が存在していない」と考えるのは致命的である。類推の習慣を放棄してしまってはいけないのである。しかし、そんなひとが多いようだ。

そんな政治学者のみなさんは、実は大変頭が良い。教養が深い。勉強熱心である。たとえばロシアのことを深く知ろうとして、ドストエフスキーあたりを読む。すばらしいと思う。でも中身はよくわからない。なんでこの作品がすばらしいのかもわからない。そのままでは、実は類推能力は低下するのである。ダメな経済学者に学んだ学生になってしまうのである。では解説書を読む。それが良い解説書なら類推能力は向上する。しかし、そんな本はほとんどないのが現実である。

そして、経済学者も、すべてがデーターから予測できる世界でない以上、類推能力が重要なはずである。類推能力のあるなしは実は文章でわかる。文章の良い人はだいたい予測をはずさない。消費税増税が必要、というひとの文章は文章の体をなしていないことが多い。おそらくまともになにかを鑑賞したことがないのだろう。鑑賞したあと咀嚼、消化した体験がないのだろう。彼らは人類文化のメインストリームから疎外されたまま、延々とに学問しつづける。その学問対象が、理系の、純科学的なものであったら問題ない。だが経済学は所詮は、人類社会を研究する分野なのである。

2018年9月26日水曜日

深堀

普通文学の研究をする人は、まずその作家の全作品を読み、周辺の作家(たとえば太宰なら井伏や坂口安吾や川端や志賀)をできるだけ読み、作家の人生を調べ上げ、全集をさらに数回読んだりする。すばらしい努力量である。私には出来ない。敬服に値する。

しかし全員がそれをやりだすと、特定作品を深く読み込む人がいなくなる。実際あんまりいないようだ。観測できるのは、今は下火になったが一時期のロシア文学者と、現在の英米文学者である。英米文学研究者はさすがに人材が豊富なようで、少数ながらそういう人が居る。

遺憾なことに国文学かいわいにはほとんど生息していない。ひとつには、周辺の事象や作家を調査するのがあまりにも容易なので、そちらの調査に嵌ってゆくのだろう。それはそれで、悪いことではない。
周辺事象の調査は永遠に価値ある知見だが、深堀はより深く掘った人間が出現した時点で、研究としての価値がなくなる。むなしいといえばむなしい。マジョリティーになることは、おそらく一生ないだろうと思いながらやっている。

しかし喜びがあるから続けられるのである。やめられなくなるほどの楽しみがある。それはその作品を読めることである。

深堀り派以外の人間でも読むことは読める。しかし、その作家のすばらしさ、その作品のすばらしさは、深堀しなければ十分には理解できない。当たり前である。逆にいえば、全集何度も読む、といった作業は、実はたいして面白くないはずである。作業量的に、さのみ深くは読めないからである。そんなことをしていたら人生終わってしまう。

つまり、二者択一なのである。広く浅く読むか、狭く深く読むか。人間の能力は有限である。両方やるには人生80年では足りないのである。

社会にはどちらの人間も必要だと思う。しかし現実には深堀り派はほとんど生息していない。おそらく学校でまったく教えられないからである。たいてい、先生も、その先生も、そのまた先生も、「深堀する」ということじたい知らない。優秀な弟子ほど先生に忠実だから、深堀派は不利である。
それでもなんとか深堀派が増えればよいなと思う。深堀は良い。大量に作品を読まなくてもよい。怠け者の道である。同じ作品を深く読むだけだから、記憶力があれば空いた時間に手ぶらで研究ができる。なければ章立て表つくって見るだけでも研究にはなる。アマチュアには最適である。

今日の日本には文学科出身のひとは大量に存在しているはずである(私は違うが)。作家の周辺事情の研究にうんざりした人も多いのではないか。私はゴシップ研究家ではないと思った人も居るのではないか。そんな方はネタはなんでもよいから、時間はいくらかかってもよいから、好きな作品を、深く読むことをお勧めする。10回程度読み込めば、その作品の理解度は人類のトップ1%くらいにはなれる。同じ作品を30回読むひとはほとんどおらず、100回よめばライバルは数人程度である。マイナー分野の喜びである。碩学といわれるひとも、たいてい深くは読んでいないのである。