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ヨハネの黙示録より
「ラオデキヤにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『アァメンたる者、忠実な、まことの証人、神に造られたものの根源であるかたが、次のように言われる。
わたしはあなたのわざを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。
このように、熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう。」
この文章が、「ニコライ・スタヴローキンの告白」と、ステパン先生最後の旅、2回出現する。2回出現するかなら理解可能だか、1回だけでよくも作品として成立していると考えたものである。読者には全く意味不明だったはずである。
「告白」の削除は検閲のためではなく、出版社の判断だったわけだがいずれにせよ、どうも作家は抵抗というか、言論に自由がないほうが燃えるようである。終戦直後の太宰治の「斜陽」と「人間失格」を見よ。
しかしどうして作者が「ヨハネの黙示録」がこんなに好きなのか、私には全く理解できない。普通に読めば普通にくだらない、おどろおどろしいだけの文章である。内容も明快ではない。表現方法が混濁しているから、内容も混濁している。
ところがキリスト教関係の資料で、この「ヨハネの黙示録」以外に時間を記述しているものが、私の知る限りまったくないのである。ようするにキリスト教直線時間というものは、この失敗作の記述のみに依存しているのである。脆弱なシステムである。
しかし論理的にはキリスト教時間が一直線になるというのはよくわかる。
1、アダムとイブが原罪を犯した
2、イエスキリストが肩代わりをした
3、だから人類は救われる
だいたいこんな論理の流れなのだが、ここでアダムとイブ、人類の始祖が登場するのがミソで、始祖の罪が明快に定まっているから、子孫の運命も明快に定まり、結果として長大な時間が定まってしまい、直線時間になるのである。直線時間だから直線時間なのではない。キリスト教の教義的要請なのである。
そして教義的要請を充足させるものが「ヨハネの黙示録」であるから、ドストエフスキーもこの駄文にこだわらざるをえないのである。少々つまみ食いの形だか。
彼は「悪霊」で大々的に取り上げはしたが、円環時間が受け入れがたく、直線時間は理屈に合わず、その間で逡巡しているというのが、私の感想である。悪く言えば刹那で誤魔化した。
そして教義的要請を充足させるものが「ヨハネの黙示録」であるから、ドストエフスキーもこの駄文にこだわらざるをえないのである。少々つまみ食いの形だか。
彼は「悪霊」で大々的に取り上げはしたが、円環時間が受け入れがたく、直線時間は理屈に合わず、その間で逡巡しているというのが、私の感想である。悪く言えば刹那で誤魔化した。