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2019年10月18日金曜日

悪霊・追記3

第三部でのニコライとリザヴェータの逢引の後の会話シーンは、
この作品でもっともやっかいな部分である。

どうもニコライが上手くゆかなかったようで、非常にオドオドしている。
リザヴェータは終始不機嫌である。ニコライを馬鹿にしきっている。

ニコライ「昨夜はなにがあったのだろう」
リザヴェータ「あったことがあったのよ」
わかりやすく言い換えれば
ニコライ「昨夜はどうして上手くいかなかったんだろう」
リザヴェータ「ご存知の通りよ。慰めてあげないわ(あなたがダメだった、ただそれだけよ)」

男性から見れば、リザヴェータが途方も無い性悪女に見える。
「礼儀も思いやりもないけしからん女だ。こんなやつは殴り殺されればいい」と思っていると、直後に本当に殴ろ殺されるから気の毒である。

佐藤優によればロシア女性には恐ろしいノルマを男性に課する人が居るようで、週16回だそうである。平日は一日2回、土日は3回。無理に決まっているのだが、課する人がいる以上、実行できる男性がロシアには居るということである。同じ人間とは思われない。

仮説が二つ成り立って、

1、ロシア革命で結婚制度が破壊された際に、恐ろしい適者生存の戦いが勃発した。軟弱な男女は淘汰された。生き残ったのはそちらが超人的に強い遺伝子のみである。

2、元来ロシア人はそれくらい強い。強いから「結婚制度破壊」のスローガンが有効で、それでロシアでは革命が成功した。

リザヴェータの無遠慮な不機嫌さを見るに、どうも2が正解のようである。「悪霊」は無論ロシア革命より前の作品である。あるいはその上で1の淘汰が発動してよりグレードアップしたのかもしれない。

「悪霊」という作品も、その後のロシア革命も、このロシア人の体質を念頭に置かなければ読めない。そういう体質を想像しながら読み解いてゆくことになる。なんでロシア文学が長大かなんとなくわかる。連中は実質的に自分たちの体質を表現しているだけではないのか。

考えれば羨ましくもあり、妬ましくもあるが、私が日本人離れしたパワフルさを身に着けても、どうせモテないんだから関係ない気もする。並の日本人レベルに追いつくのが先決問題の気もする。いや全てがどうせ無理なんだろう。だんだん考える気力もなくなってくる。

ショーロホフの「静かなドン」に、ある兵隊が長嘆息しているシーンがあったと記憶する。「世界中にはきれいな女がいるんだ。まだ俺たちが見たことがないようなきれいな女性が、一生見ずにおわってしまうような女性が大量に。俺はそう思うとたまらねえ気持ちになる」。手元にないからうろおぼえだが、さすがロシア人様ともなると、そもそも考え方が違う。体質による絶対の自信に支えられた願望と言うべきである。

2019年10月6日日曜日

悪霊・追記2

悪霊でも章立て表は用意した。
ズラズラ書いてたが大量になり過ぎた。
複雑怪奇な小説なのは、構成が複雑怪奇だからで、章立て表を作っても別に簡略にはならなかったのだが、だれかがより簡略で分かりやすい構成解析をしてくれるんじゃないかと思うから貼り付ける。

https://drive.google.com/file/d/1CrMFE02kVs3l7pVvLQSWQWTlNvIPz0fj/view?usp=sharing




第一部はたいへん構成が素晴らしい。最後のワルワーラ邸の全員集合に向かって人間が続々と用意されてゆく。その人間たちのキャラがまた立つ。登場人物一覧表も用意した。



カルマジーノフとリプーチンが望楼人リュンケウスだというのが、なかなか面白い対応だと思った。両者は不必要に情報通で、勢いに流されやすく、自分が何かを成し遂げることはほとんどない。頭は非常に良い。彼らの弱点がフィジカルにあるということがわかっているから、ピョートルは両者の前でのみガツガツを己が食事している光景を見せる。いずれも印象的なシーンを作れているが、ここではピョートルの戦略が優れているのである。同時に作者が両者を対にしていることが明快になるのである。


「ファウスト」ではリュンケウスは、いち早く世界の異変に気づく存在である。敵の襲来も、ヘレナの美貌も、パウキスの悲劇も、いち早く気づくが情報を知らせるだけで特になにもしない。

フェージカはステパンの元農奴だがステパン先生のカード賭博の借金のカタに売られて転落し、罪を犯して流刑囚になる。脱獄して故郷近辺をうろついている。最初ピョートルに使われていたが、やがてキリーロフに心酔するようになる。キリーロフはホムンクルスだから、ワーグネルの実質息子なのである。当然好きである。
エルケリは依然ピョートルに心酔している。もっとも最後になんだか捨てられそうな寂しさが表現されている。遅かれ早かれこちらもワーグネルになるのだろうが、そこまで描写されていない。ここらへ、作者Gとエルケリが対になっているという考え方もできて、私には明快な意見がない。だれか考えついたらお教えください。


今回始めて、「集中研究」をやった。
作中難解な箇所をエクセルに書き出して、集中的に検討する作業である。
本文の情報の20%くらいを書き出したと思う。通常の章立てより無論情報欠損が少ない。
やってみると大変有意義だった。難しい箇所が簡単に明快になる。「現代国語」なんかでわけのわかんない文章にウンウン唸る時間、あれは無駄であった。おそらくエクセルでこんな感じでまとめると、明快に読み解けたのではないだろうか。

こちらも一応全部掲載する。

https://drive.google.com/file/d/1CrMFE02kVs3l7pVvLQSWQWTlNvIPz0fj/view?usp=sharing


こういう読み解きをしてこなかったのは、ようするにエクセル使えなかった、使おうと思わなかっただけではないのかと思う。単純な話である。

亀山郁夫氏も

よみとき悪霊」
https://www.amazon.co.jp/dp/4106037130/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_CmHKDb1CZ9Q5B

翻訳の「悪霊」第三巻末尾の解説、
https://www.amazon.co.jp/dp/433475242X/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_EmHKDb7AA3EQC

両者とも非常にすぐれた解説だが、
このややこしい部分に正面攻撃は仕掛けていない。なんで正面攻撃をしないか。多分戦う前から諦めているのだろう。諦める必要はない。表を作ってしばらく眺めていればそのうちなんとかなるものである。

2019年10月3日木曜日

悪霊・追記

とりあえず「悪霊」読み解きアップした。
https://matome.naver.jp/odai/2156984353668968401

ヨハネの黙示録より
「ラオデキヤにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『アァメンたる者、忠実な、まことの証人、神に造られたものの根源であるかたが、次のように言われる。
わたしはあなたのわざを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。
このように、熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう。」

この文章が、「ニコライ・スタヴローキンの告白」と、ステパン先生最後の旅、2回出現する。2回出現するかなら理解可能だか、1回だけでよくも作品として成立していると考えたものである。読者には全く意味不明だったはずである。
「告白」の削除は検閲のためではなく、出版社の判断だったわけだがいずれにせよ、どうも作家は抵抗というか、言論に自由がないほうが燃えるようである。終戦直後の太宰治の「斜陽」と「人間失格」を見よ。

しかしどうして作者が「ヨハネの黙示録」がこんなに好きなのか、私には全く理解できない。普通に読めば普通にくだらない、おどろおどろしいだけの文章である。内容も明快ではない。表現方法が混濁しているから、内容も混濁している。
ところがキリスト教関係の資料で、この「ヨハネの黙示録」以外に時間を記述しているものが、私の知る限りまったくないのである。ようするにキリスト教直線時間というものは、この失敗作の記述のみに依存しているのである。脆弱なシステムである。

しかし論理的にはキリスト教時間が一直線になるというのはよくわかる。
1、アダムとイブが原罪を犯した
2、イエスキリストが肩代わりをした
3、だから人類は救われる
だいたいこんな論理の流れなのだが、ここでアダムとイブ、人類の始祖が登場するのがミソで、始祖の罪が明快に定まっているから、子孫の運命も明快に定まり、結果として長大な時間が定まってしまい、直線時間になるのである。直線時間だから直線時間なのではない。キリスト教の教義的要請なのである。
そして教義的要請を充足させるものが「ヨハネの黙示録」であるから、ドストエフスキーもこの駄文にこだわらざるをえないのである。少々つまみ食いの形だか。
彼は「悪霊」で大々的に取り上げはしたが、円環時間が受け入れがたく、直線時間は理屈に合わず、その間で逡巡しているというのが、私の感想である。悪く言えば刹那で誤魔化した。