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2021年5月21日金曜日

責任の処理方法の考察・5

 多くの経済学者が、「世間」に従っているだけで、なんら自分の学問的自信に従っていない、というところまで説明した。

ちなみに通常「学問的良心に従っていない」という表現をすることが多いが、それは間違いである。なぜって良心に従って考える人ほど、自分があまりよく理解していないなと感じた際には、人間は自分の判断を主張することをやめ大勢に従うのである。つまり多くの経済学者がなんとなく復興増税に賛成してしまったのは、復興増税に反対しきれるだけの自信がなかったからであって、良心がなかったわけではない。彼らも良心はある。むしろ善良だったりする。でも財政均衡論に対抗するべき主張的根拠を持っていなかった。ひょっとすると40%程度は直感的に「これはまずい」と考えていたと思われるが、直感を口で説明するのは難儀である。よって大勢に流される。


ではどうして自信がなかったか。それは経済学に再現性がないからである。再現性とは実験室のビーカーの中にしかない。実は医学も再現性がないのだが、幸運なことに、あるいは不幸なことに、患者がしばしば死に、あるいはしばしば回復する。よってサンプル数の多さから徐々に正解の方向が見える。ところが経済学の扱う対象は社会全体であって、観測者もその全体の中に含まれる。規模からも立場からも、そして実施と結果のタイムスパンから考えても、精度の高い観測が非常に難しい。


似たような状況にあると思われるのが軍事学である。トルストイが「戦争と平和」で描写したように、実際に軍事行動の際に、なにがどうなっているか把握できている人物は両軍の中に一人も居ない。派遣した部隊は予定通りには行動せず、予期した敵はそこには存在しない。前もっての作戦はほぼ意味がなく、実際に活動中には勝っているのか負けているのか判別がつかない。朦朧たる不可知性のただなかで悶絶し続けるのが戦争の実態であって、予測があり、計画があり、活動があり、結果がある、という品の良いものではない。

そして、もしも日本が戦争を開始した際に、日本人全員がえて勝ってに方針やら予測やらの話をするであろうが、政府の、というか大本営の方針に口出しできる人間は多くないはずである。口出しした結果戦争に負けたなら、口出しした人間は訴追を免れない。と考えると今日の経済学者たちがいかに優遇されているか理解できるだろう。世界中でも有数の経済成長率の低さを達成した以上、彼らは敗軍の軍師である。でも本人たちはまだその責任に気づいていない、あるいは気づいているが見ないふりをしているかである。


2021年5月15日土曜日

責任の処理方法の考察・4

 ゆるやかなボス制を持つ経済学者が、連帯責任共有制度とも言える「復興増税」提言をした。先日発起人の一人が、別のことを言い出した。


https://www.sankei.com/politics/amp/210510/plt2105100002-a.html


これは観測気球であり、無論本気で考えようとか、国民に申し訳ないとかいう気持ちはさらさらない。考えるまでもなく、2012年の金融緩和のそれなりの成功で、財政危機は基本的になくなっているのである。そして復興増税派の経済学者たちも、そのことは2012年の時点で実は認識している。なんやかんやでそこは優秀である。この9年間、「どうやったら過去の間違いをごまかせるか」を考え続け、よい案がないままコロナによる世界的な財政出勤に直面したのである。MMTの普及もあって流石にごまかしきれなくなった。そこでボス連中のうちの一人が観測気球を上げて、世間の反応を見ながら方針を転換しようとしている。方針の転換は結構だが、責任からの逃走は不可能なのだが。


復興増税組の顕著な特徴は


1、全体社会に対して徹底的に責任を取らない

2、日本国内の反対意見は頭からバカにする

3、外国には忠実に従う


つまりようするに、「世間」に生きる人々なのである。欧米の学会のほうが権威が高いから従う。


意見の正しい、正しくないは本来、誰が言ったかと関係ないはずである。犯罪者が言っても正しいことは正しく、釈迦や孔子でも間違いならば間違いである。世間に生きるとそうきっちりとした言明はできなくなる。世間に合わせるしか生きるすべがなくなる。会社員とか官僚ではそれはそれなりに仕方がない態度なのだが、学者としては失格である。どんなに世間の常識と違っていても、自分で考えて正しいことを突き詰めるのが学者の仕事である。彼らは真逆の資質であって、どんなに正しいとはっきりわかっていても、捻じ曲げて世間に合わせる。それは生来そういう性格と見るよりほかない。つまり、今回のコロナ騒動で連中が意見を変えたとしても、連中はその変えた方の意見も、絶対に責任を取らない。全く責任を取らない。完膚無きまで責任を取らない。つまり無責任なままである。上記文章にあるように、間違っていたのならば「間違っていました」以外の意見の発表を差し控えるべきだが、いけしゃあしゃあと国家の方針を考察する文章を掲載している。これがこれから延々と続くと想像できる。


つまり問題は、彼らの知能の程度ではなく(それは実は十分に良い)、世間に追随さえしておけばよいとするその態度である。彼ら一人ひとりは一個の個人ではなく、無責任という名の群れの一部分なのである。

2021年5月10日月曜日

責任の処理方法の考察・3

 東日本大震災の直後、経済学者たちがおそるべき提言をまとめた。

復興増税である。


http://www3.grips.ac.jp/~t-ito/j_fukkou2011_list.htm


復興減税ならわかるが、復興増税となると若い人には意味不明だと思われる。

当時は財政破綻論を本気で信じて疑わない人が多かった。それはまだいい。

ところがリフレ派の勢力が伸びてきた。

リフレーション政策をすると、日銀が国債を買うのだから政府債務は事実上帳消しになってしまう。小うるさいリフレ派との論争に敗れることになる。それだけは嫌だ。日本が沈没してもそれだけは避けたい。


それで主流派経済学者たちが、よく言えば結束した。

悪く言えば「悪事連合協定書」にサインすることによって、互いを非難しあわないように、傷をなめ合う制度を作った。それが上記のリンクである。傷とは無論、経済財政にたいする自らの見識の低さという傷である。


上記リンクに賛同した経済学者たちは一生、国民経済に対して罪を背負うことになる。罪を共有する集団である。逆に言えば113名の学者は(現在では引退、物故したものも居るが)終生仲間を裏切れない。だから連中は今でも緊縮財政を主張している。


このようなシステムを採用しているということは、現在の経済学者の社会は、巨大な権力者が居るわけではなく、集団指導体制というか、ゆるやかなボス制であると考えられる。巨大な権力者がいるならこういう連判状は不要だからである。


つまり、現代に山県有朋は居ない。森鴎外の責任の取らなさは山縣に原因があるが、現在はそうではない。