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2021年9月5日日曜日

リアルへの物語の回帰

 例えば漱石の「こころ」


https://note.com/fufufufujitani/n/n6b55283380ba

物語の別の層に、明治歴史物語がひそんでいる。

例えば太宰の「人間失格」

https://note.com/fufufufujitani/n/n1ca6e61dfbf8

別の層に天皇=日本の物語がひそんでいる。


市井の人間を描いているように見えながら、歴史をひそませている。

描かれている主人公の振る舞いは、あからさまに架空である。

逆にひそんでいる歴史物語は、現実に即している。


つまり物語の架空性は、増加していない。物語が重層的になって加算されたのは、現実性であって架空性ではない。裏に歴史物語を加えることによって、物語はスポーツ観戦に近づいている。リアルに近づいている。

物語にはリアルに近づこうとする力が働いているようである。

2021年8月27日金曜日

言語と物語の二本の足

 言語、およびそれにより組み立てられる物語には、

二本の足がある。

片足は現実に立っている。社会とは関係ない、リアルな物理的事象である。

片足は社会の上に立っている。

現実と関係がある必要はない。人々の脳に届けばそれでよい。


言語はコミュニケーション・ツールだが、

同時にまったくリアルの物理的事象から乖離できるわけではない。

言語は物理的事象を記述できるが、

社会的制約から離脱できわけではない。


社会的制約の最たるものが、物語である。

人々の納得する物語を作らなければ、人々の間で、意見も、見識も、事実さえも共有できない。


言語が二本足で立つならば、

おそらく貨幣もそうなのだろう。

現在の信用貨幣は物理的制約から離脱できていると思われている。

しかし言語がそうであるように、まったく物理的事象から無縁ではいられない。

今日ではそれは全銀協システムなのだろう

2021年8月26日木曜日

記憶の連鎖

 記憶力の優れた人が居て、見たものを物語化できるとする。初期段階ではそれは、「噂話」「バカ話」の類である。それが様々な部族、氏族、社会でどんどん積み上がってゆく。


すると社会の構成員には、2種類のインプットが存在しはじめる。


一つは現実そのもの

今一つは物語である。


現実は、実はいにしえよりさほど変化がない。変化するのは物語である。今日我々はかなり定型化した物語の中に生きているのと思われるのだが、原始社会ではおばちゃんの長話のみが大量に存在し、その大量の長話しの海から、徐々に物語の形式化が進んでいったと思われる。

しかしこの時点では、物語をブラッシュアップしているのか、文法をブラッシュアップしているのかわからない。「~語族」と物語の関係が今ひとつ明らかでない。


昔小泉文夫が「一つの民族は一つの歌しか持ち得ない」と喝破したことがあった。一つの歌がその民族のアイデンティティになる。他に歌があってもそれは最初の歌のバリエーションでしかない。その民族(でも部族でも、呼称はなんでもOK)の自画像というかIDカードとして文化はある。


ならば、物語もそうだろう。部族の始祖神話は、その部族特有のものであって、そも部族のIDカードになる。どうせ本当の先祖なんぞ誰にもわからない。