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2024年12月3日火曜日

澶淵の盟

 澶淵の盟(せんえんのめい)は1004年の条約である。宋が契丹と条約を結んだ。毎年契丹に銀と絹を約束をした。銀10万両と絹布20万匹である。つまり、軍事力は契丹のほうが強かった。日米安保と一緒である。毎年2000億程度支払っている。無論日本のよりアメリカのほうが軍事力が強い。だからそうなる。お金は弱者から強者に流れる。


それで、ユダヤ人が献金でアメリカ政界を支配している、とよく言われる。本当にそうか。イスラエルがアメリカよりも強い軍事力を持っているとは到底思えない。弱者が普通に、澶淵の盟あるいは日米安保をしているだけではないのか。


ユダヤの実力について今一つ疑問がある。今ネット上でみる残虐画像は、たいていイスラエルのものである。世界中の人々が、イスラエルの、つまりユダヤ人の残虐さに眉をひそめている。つまり、イスラエルおよびユダヤ人は、情報宣伝戦で負けている。世界のメディアはユダヤが支配しているのではなかったのか。支配しているのに情報宣伝戦で悪者になるという事がありうるのか。そもそも支配できていないのではないのか。


イスラエル、あるいはユダヤ人が、長良川の鵜飼いの鵜に見える。綱を持っているのは誰か。

2024年12月2日月曜日

トランスジェンダーと福音派

 同じ穴のムジナ

LGBTとはなにか。キリスト教文化圏における「原罪」なるものの克服努力である。

キリスト教には「原罪」がある。アダムとイブが神の命令にそむいて知恵の身を食べた。食べて性と知恵に目覚めた。神はアダムとイブの罪を咎めて楽園から追放した。

その罪は子孫に相続されていった。これが原罪である。(相続しても地球人口現在80億人。男性のみでも40億。つまり男性の私の罪の相続は40億分の1なので、ほぼ無罪だと思うのだが、それはともかく)その罪の身代わりとなって自らを殺したのがキリスト様である。だからキリストを信じる者は救われる。というのがキリスト教教義である。

お分かりになられたと思うが、この教義ではイエス=キリストと「原罪」はセットなのである。原罪があるからイエス様が誕生した。ところで西洋社会の知識人たちは、もうキリスト教を信じていない。イエス様が神だとは思っていない。が、長年キリスト教の中に沈没していたせいで、「原罪」なるものへの恐怖は残存しているのである。

そんな半端な知識人たちは、キリストのことは相手にしていないくせに、いや相手にしていないからこそ、なんとか原罪からの脱却、というか原罪の恐怖からの脱却をしたくて、原罪の原因である「性の目覚め」をいじり倒す。

それでLGBTである。自分たちはもはや自分の性を操作することが出来る。だから原罪なんて恐くない。全然まったく恐くない。ビビってないぞ、怯えてないぞ、大丈夫だ、俺たちゃ自由なんだ、ヒャッハー。

傍から見れば、ただのクリスチャンである。ねじくれているだけで、ただの神を恐れる人々である。その意味で、LGBTを推進したアメリカ民主党も、福音派が支持基盤にあるアメリカ共和党も、同じ穴のムジナである。


お殿様

そうなる原因は、キリスト教にはない。西洋人は世界のチャンピオンだった。いわば人類のお殿様階級だった。だから文化相対主義がない。口では似たようなことを言っても、本気で悩んで考えたことはない。知識人で理解している人は存在するが、なにしろ知識人の思想である、定義上一般人には理解出来ない。よって西洋社会は今でもキリスト教どっぷりである。

ラーム・エマニュエルはユダヤ人である。だからキリスト教的反応とは言い難い、という反論来るかもしれない。ではユダヤ人文化というものはどういうものか、教えていただきたい。今私たちがユダヤ人と呼ぶ人々は、欧米に居住するか、欧米からイスラエルに移民した人々である。要は欧米人である。つまり文化的にはほぼクリスチャンである。そして欧米のクリスチャンは、自分達のキリスト教文化を相対化できていない。その中で生まれ育ったユダヤ人という少数者が、そこから脱却できるわけがない。

幸か不幸か、日本人はお殿様ではなかった。連中がバカにするアジア人だった。侵略の恐怖から明治維新を起こし、なんとかやってきた。やがて立ちふさがる巨大な文明のカギがキリスト教だと気づき、キリスト教の咀嚼、消化、吸収につとめた。

キリスト教的作品リンク


日本人は頑張ったと思う。でも欧米人のようにお殿様の地位に居たら、この努力ができたかどうか怪しい。多分出来なかった。運が良かったのか悪かったのか、私にもよく分からない。

2024年11月27日水曜日

ステルス重層性

 「仁義なき戦い」の読み解きしていて気づいたのだが、

この作品は「ステルス重層性」とでも呼ぶべきものを持っている。

「仁義なき戦い」あらすじ解説【深作欣二】

普通の人がこの作品を鑑賞すると、


誰かが殺される→

♪チャリラー ♪チュリラー→

誰々死亡のテロップ→

♪ビンバンボンバン ♪ビンバンボンバン→

場面転換→

誰々は~のナレーション→

(最初に戻って誰かが殺される・・・)


の無限ループとして記憶されているはずである。ドラマの内容は、実は半分も認識されていない。

表面的な刺激、面白さが強すぎて、通常のドラマとしての理解が遠ざかってしまう。場面の意味をゴリゴリ考えて、ようやく中身が理解できる。

似たような構造の作品に、フェリーニの「8½(はっかにぶんのいち)」がある。

「8½(はっかにぶんのいち)」あらすじ解説【フェリーニ】

これも表面的な映像効果が素晴らし過ぎて、



面白過ぎて中身が頭に入って来ない。しかし頭が活性化していないわけではない。映画マニアほど映像効果に興奮するから、頭は非常に活性化している。つまり中身が頭に入って来ない方が正しい鑑賞態度になる。だから古い映画だが解釈が十分にされていなかった。



通常の作品ではこれら2作品よりも、表面的な面白さが少ない分、内容は把握しやすい。ところが名作になると、ゴリゴリ内容把握を進めてゆくと、第二層、深層への扉がいつしか開いて、より深い理解に到達する。私の場合、

「仁義なき戦い」「8½(はっかにぶんのいち)」のような表面が面白過ぎる作品も、

「シャッターアイランド」「ワンスアポンアタイムインアメリカ」「オッペンハイマー」のような文学的、本格的、真面目な作品も、

「シャッター アイランド」あらすじ解説【マーティン・スコセッシ】

「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」あらすじ解説【セルジオ・レオーネ】

「オッペンハイマー」あらすじ解説【クリストファー・ノーラン】

だいたい同じくらいの努力量で第二層に到達した。「シャッター」が日本の物語だと発見するのと同じくらいの努力で、「仁義なき戦い」では神原に土居組の現状を聞かなければ若杉は態度を決定できない事を発見した。他の人にとってどうかはわからないが、私の体験では分かりにくさという意味ではだいたい同等なのである。

いずれにせよ章立て表、キャラ表はやはり内容理解には必須だと感じた。物語論(今はカッコ良く「ナラトロジー」という言い方をすることが多い)は、肝心の物語内容理解のための方法論を持っていなかった。顕微鏡ナシで微生物の研究をするとか、望遠鏡ナシで宇宙の構造を考えるとか、そんな状態だった。その状態でも「物語とはなにか」と考える事は確かに出来る。実際望遠鏡ナシの時代でも随分宇宙について考えた。宇という字も宙という字も望遠鏡のない時代につくられたものだ。でもより深く宇宙を知りたいなら、望遠鏡を入手したほうが良い。望遠鏡の作り方も考えた方がよい。