ページ

2016年5月11日水曜日

コンラッド「万策尽きて」 解読





コンラッド「万策尽きて」は、ワーグナー「ニーベルングの指環」を下敷きにした作品である。三島由紀夫の「豊饒の海」もそうなのだが、こちらは1902年作だから68年古い。三島ほどの壮大な展開は見せないが、非常に上手な作品である。


赤の部分のみ上手く分類できないが、登場人物の属性はほぼ共通している。主人公は偉大な船乗りだが、お金世界の圧力に負けて転落してゆく。


「指環」とは関係ないが、「西洋人の眼に」も素晴らしい出来だった。とにかくコンラッドは技術が高い作家である。読んで損は無いと思ったのでご紹介しておく。逆に三島の良さも理解できた。

2016年4月20日水曜日

「豊饒の海」追記12

作品を読むには、細部の検討まもちろんだが、全体のフレームを読む必要がある。ところが高校の現代国語で扱うのが全体のフレーム、構成ではなく、この言葉がどこにかかるか、みたいな細部ばかりである。そして、全体が読めない人間が大量生産され、自国の文学さえ楽しめなくなる。これはもはや、犯罪である。元来文芸が発達いた国である。国語が得意だろうが苦手だろうが、文学作品くらいだれでも楽しめるはずである。でも楽しめない人が多い。現代国語に毒されているのである。


「鏡子の家」という作品が三島にある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8F%A1%E5%AD%90%E3%81%AE%E5%AE%B6
に解釈が色々載っている。かなりひどい。
最後に七匹の犬をつれて主人が戻る。七匹の犬とは北斗七星である。北斗七星は北極星を守る存在である。北極星の中国名は天皇星である。つまり不在だった主人は天皇である。それが、この作品の理解の第一歩である。

「音楽」という作品もある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%B3%E6%A5%BD_%28%E5%B0%8F%E8%AA%AC%29
麗子の兄との近親相姦。これはアダムとイブの近親相姦を下敷きにしている。その麗子が兄の子を抱いて、聖母マリアのような顔になる。つまりこれは、旧約聖書創世記と、新約聖書をドッキングさせた作品なのである。間のショートカットが大胆だが、三島なりにキリスト教世界を日本の日常に翻案した作品である。


物語とは、主語と述語の順列組み合わせではない。物語は過去に存在し、発展しながら現在まで生き残った人類文化である。ある程度以上の見識を持った文学者は、かならず過去の作品に取り組み、吸収し、解体し、再構築し、読者に届ける。
作品全体の構成から見れば、この物語の進化の樹形図と、その図の上における位置が明快に見える。それを手がかりに、細部を読み解いてゆくのが正しい読み解きである。


「豊饒の海」は上記2作品より手がかかっている。それだけ読み解きには手がかかったが、これは別に特殊技能ではない。手間さえ厭わなければ、だれでも読み解けるし、理解して楽しむことができる。それが多く人々に広がれば、日本文化はもっと良くなるだろうに、「現代国語」が邪魔しているように、私には思える。

2016年4月19日火曜日

「豊饒の海」追記11

「豊饒の海」のくだらなさ


というページにあるように、「豊饒の海」最大の弱点は、第四巻「天人五衰」にある。美しい恋愛も、血沸き肉踊るテロもない。ようするに三島は、ニュートラルになってしまった戦後日本の成れの果てを描こうとしたわけだから、ここを面白くするわけにはいかない。面白いと整合が取れないのである。私も大変退屈した。
しかし実際には、江戸時代の太平も、この「天人五衰」以上になんにもない時代だったわけで、それでも今日江戸時代を顧みれば、文化の発展は十分にあり、興味深い時代である。同時代の清朝、ムガール、下手をすれば大英帝国の住民よりも、一般庶民の生活としては恵まれていたのではないか。
ドナルド・キーンが「幕末の時点で、日本の庶民のほうがイギリスより豊かです。服を数着もっていましたから」と言っているのを読んだことがある。もともとさのみ戦乱がなく、平和で豊かな土地なのである。それでも三島が戦後日本のテンションの低さにあせったのは、三島の戦争体験ヒエラルキーの低さによる。


S級:石原莞爾、坂井三郎などの英雄
かれらは太平洋戦争でのバラモンである。「東條の馬鹿が戦争指導したんだから、そりゃ負けるだろう。東條とやって負けないほうが難しいわ」と、石原は思っていたはずです。「俺くらいの天才が20人位いれば、負けてなかったな。しかしなかなか存在しないから天才なわけで、しょうがないな」と坂井は思っていたはずである。ようするに、彼ら個人の中では全然負けていない。全然堪えていない。


A級:Sよりは下の存在である。会田雄次などの実戦経験あり、しかし敗北した人である。砲弾をかいくぐった。上手くゆきそうなときもあった。でも負けた。もう少し装備が良ければ、という気もしている。手応えがあった時もあった。かれらは、そんなに自信を喪失していない。負けて悔しいが、苦しいが、出来た部分があったのが救いである。


B級:司馬遼太郎、山本七平などの、実戦経験ナシ、そのまま帰ってきた組。だいたいそんなに敵には遭遇しないのである。兵隊の6割は戦病死、餓死である。それが前回の戦争の実情である。準備だけして、敵に遭遇せず、そのまま負けたのだからフラストレーションは最大である。生涯悶絶して太平洋戦争を思い出す人々である。大変である。


C級:三島由紀夫など、そもそも徴兵検査に合格しなかった組である。昔の都会人と田舎人は、体力が全く違う。田舎だと「軍隊はなにも苦労のないところだった」。都会人だと「軍隊は地獄だった」となる。それくらい昔の田舎の生活は、労働過多、栄養不足だった。三島のような文弱は、採用しても無駄だから合格しない。三島は喜んで帰郷したそうである。しかし、のちのち生き残った自分に罪の意識を持つ。


しかし、これでさえ最下級ではない。


D級:黒澤明が、この疑いを持たれている。徴兵逃れをしたのではないかと言われている。


しかし世界的名声という意味では、D級が最大、C級がつぎ、S、A、B級は日本人しか知らないだろう。そういう意味では国家に貢献しているとも言える。
三島はテンションが高い。しかし最もテンションが高いのは黒澤である。今日の視点から見れば、彼らが従軍しなくてよかったなと思う。従軍してたらもっとテンション低くなったろう。


「豊饒の海」作中、新河男爵という人物が登場する。河の流れが人物になっているのだから、だんだん流れが緩くなる。諧謔が鈍くなる。その果て、河が終わったところから始まるのが、「天人五衰」である。大汗かいて努力して、三島はわざわざ面白くない小説を書いたのである。と背景がわかってさえやはり面白く読めないのだから、これは三島の能力をたたえるべきか、たたえないべきか、私にもよくわからない。