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2021年9月6日月曜日

架空の上限値

 「闇の奥」

https://note.com/fufufufujitani/n/n3e0c750e44c8


のような作品は、当時のアフリカのリアルな惨状を描写し、その裏で神話物語を描いている。表裏合わせて意味になる。

だから物語が現実から飛翔しているように感じられるが、その実神話は、自分たちの神話、自分たちのアイデンティティーなのである。つまり現実からはさほど飛翔していない。神話を上限値として現実に着地している。


似たような例では、「君の名は」

https://note.com/fufufufujitani/n/n5518c0062fb9


表面ではややとっぴな取替物語である。しかし裏にはアマテラス・スサノオ神話があり、裏もさのみ飛翔しない。表面の物語と裏の物語、飛翔度は実は同じくらいである。

ながなが説明したのは、物語は確かに架空のものだが、その架空度というか現実からの飛翔度は上限値があり、そこを外れすぎてしまうとメジャーなものにはなりにくい。

SFというジャンルの栄枯盛衰がこのあたりの事情を端的に表現している。日本でもかつてSFが流行った。今は流行らない。中国では今流行っている。今現在「科学の進歩神話」を信じられる人々の間でのみ有効な物語であり、「科学の進歩神話」が生活から遠ざかると無効になる物語なのである。架空の上限値を突破してしまうのである。


物語を支配するこの架空の上限値が、物語に構成を発生させる第一原因だと思っている。

2021年9月5日日曜日

リアルへの物語の回帰

 例えば漱石の「こころ」


https://note.com/fufufufujitani/n/n6b55283380ba

物語の別の層に、明治歴史物語がひそんでいる。

例えば太宰の「人間失格」

https://note.com/fufufufujitani/n/n1ca6e61dfbf8

別の層に天皇=日本の物語がひそんでいる。


市井の人間を描いているように見えながら、歴史をひそませている。

描かれている主人公の振る舞いは、あからさまに架空である。

逆にひそんでいる歴史物語は、現実に即している。


つまり物語の架空性は、増加していない。物語が重層的になって加算されたのは、現実性であって架空性ではない。裏に歴史物語を加えることによって、物語はスポーツ観戦に近づいている。リアルに近づいている。

物語にはリアルに近づこうとする力が働いているようである。

2021年8月27日金曜日

言語と物語の二本の足

 言語、およびそれにより組み立てられる物語には、

二本の足がある。

片足は現実に立っている。社会とは関係ない、リアルな物理的事象である。

片足は社会の上に立っている。

現実と関係がある必要はない。人々の脳に届けばそれでよい。


言語はコミュニケーション・ツールだが、

同時にまったくリアルの物理的事象から乖離できるわけではない。

言語は物理的事象を記述できるが、

社会的制約から離脱できわけではない。


社会的制約の最たるものが、物語である。

人々の納得する物語を作らなければ、人々の間で、意見も、見識も、事実さえも共有できない。


言語が二本足で立つならば、

おそらく貨幣もそうなのだろう。

現在の信用貨幣は物理的制約から離脱できていると思われている。

しかし言語がそうであるように、まったく物理的事象から無縁ではいられない。

今日ではそれは全銀協システムなのだろう