ページ

2013年10月28日月曜日

千と千尋の神隠し 考察8

追加である。
電車についての考察も必要である。

電車に初めて接するのは、
鳥居の中、劇中では赤い門の中、
お母さんが千尋に、電車の音がしていると伝えるときである。


次には飲食店ブロックから湯屋ブロックに渡る橋の上、
千尋は電車を見下ろして、ハクに注意される。
この時カメラワークが少々混乱というか、わかりにくくなっており間違えやすいのだが、
詳細に見てみると電車は飲食店ブロックから出ているのがわかる。

出てきた電車は湯屋ブロックにはいらず、向かって左脇を通る。
そして千尋が乗る駅は湯屋ブロックから少し離れた距離にある。


電車に乗ってみると、
「めめ」という積み荷が置いてある。
「めめ」とは飲食店ブロック最初のお店であり、
店には「めめ」「目」「生あります」などど不気味な文言が並んでいる。


湯屋および飲食店の商品は、
一部菜園で生産されるほかはよそから運び込まれるほか無いわけで、
「めめ」という商品はこの電車で運ばれてきた、
湯屋や飲食店ブロックに売ったあと、
一部売れ残りが千尋の乗った電車に載せられていた、とかんがえられる。
あるいは飲食店ブロックで調達された「めめ」が、
電車でほかの場所に運ばれている、でも良い。
いずれにせよ電車は商品を運ぶ手段であり、
実際に上の棚から荷物をおろす動きの描写がある。


神々が船で移動しているのは、
物語の最初で明示される。
お客は船で、では電車はなにを運ぶのか。

電車に乗っている黒い人は、
おそらく行商人、神々を支える存在なのであろう。


交易は元来、西のものを東に、東のものを西に移動させる行為である。
双方向的なものである。
劇中の交易は、電車は一方通行である。
不完全な交易である。
そして釜爺は言う。
「昔は帰りがあったんだが」
一方通行になった原因はなにか。


状況は物語の冒頭に示される。
鳥居に隣接してほこらがあり、
ほこらに隣接して大樹がある。
大樹の先端は、おそらく落雷であろうか、
折れてしまっている。

落雷で枝が折れた時期と、
電車が一方通行になった時期は、一致するはずである。
光合成は不十分になり、
この樹は地下から水分と養分を吸い上げるだけの存在になった。
そして電車は沼地を通る。
維管束の中を養分が流れる様が、
電車として描かれる。

それが宮崎の考える現代文明の姿である。
光合成の能力を失い、
大地の養分を浪費しているだけの存在。


振り返って全体の構成を考えてみよう。
この物語ははっきり、3部分に分割できる。

千尋が異世界に迷い込み、湯婆婆と契約するまでの部分。
湯屋で働き、功績と失敗をする部分。
電車に乗って銭婆婆のところに行く部分。

3部分がきれいに冒頭で表示される

最初の部分を象徴するのが赤い門=鳥居であり、
次の部分を象徴するのが湯屋=小さな石の祠であり、
最後の部分を象徴するのが、電車の走る沼沢地=先の折れた大木


かえすがえすも、
物語の始まり方の上手い作家である。

2013年10月21日月曜日

千と千尋の神隠し 考察7


この映画の中心主題は、
通貨である。
通貨映画、貨幣映画という、
大変ユニークな内容である。

千尋の父と母は、
財布もあるしカードもあると言いながら無断で飲食し豚になる。

ハクの本名は琥珀であり、
古代における宝石はすなわち貨幣である。

オクサレサマは本物の砂金を産する河の神であった。

カオナシは不換紙幣印刷機であったし、
その落ち着きどころは中央銀行であった。

このような宮崎の経済観、貨幣観は、
はっきりアンチリフレの立場によるものである。

アベノミクスの成功を見ればわかるとおり、
経済論としてはまったき間違いである。
それはここでは論じない。

内容的に経済書であれば容易に反論可能なものであったが、
物語の出来が良すぎた。あまりにも良すぎた。

千尋の成長物語と、
小さな祠の中の物語と、
壮大な文明論、
そして貨幣と経済の物語、
4つ重ね合わされたら、
かなりの文学オタでも太刀打ち出来ない力を持ってしまう。
(通常重ね合わせは二つである)

加えて美しい絵と、壮麗なオーケストレーションである。
圧倒的な説得力である。

実社会に生きる人間としては、
正直困ったものだなあと思う。
スタジオジブリさんならお金は有り余っていると思うが、
普通の市民はデフレのままでは、
経済活動なんかできやしないのである。

しかしだからと言って、この作品が良くないという気はさらさら無い。
宮崎監督を非難する気もまったく無い。
説明してきたように、大変密度高く設計された、
まれに見る充実した物語である。
カラマーゾフ的な文明論映画と言ってさしつかえない。

それに、「川と再会する」という、
やさしい、心ゆたかなお話を、
つくる監督も偉いですし、
その映画を支持して、
歴代最高観客動員を計上させる国民も、たいしたものです。

細かい分析は、つくるサイドの人間や、
私のような分析オタに任せればよろしくて、
大事なのは直感的に作品の魂を感じられる心でして、
この映画を評価できるような、
良い心、美しい心を持った日本人、日本社会に頼もしさを覚えます。

だから映画ファンとしては、万人に繰り返し見ていただきたい作品です。
「ただし、経済観だけはちょっと注意して」
と言いたいですね。
「なぜなら、物語の作り方があまりにも素晴らしいから、
経済観まで洗脳されかねないから」

2013年10月17日木曜日

千と千尋の神隠し 考察6


ある程度物語の説明が終わったところで、
中心題材になる通貨政策について述べなければならない。

カオナシのしていることはなにか。
紙幣の発行である。

カオナシの出す砂金は、インチキ砂金であり、
魔法が溶けると土に戻ってしまう。
しかし、振りかえって考えれば、
私達の今日使用している紙幣も、インチキ砂金である。
金はなにも含まれていない。
ただの紙である。


歴史的に見れば、昔は違った。

金そのものが通貨だった。


やがて金貨が通貨になった。
交換、決裁手段が金地金から、貨幣状のカタチになることによって実は、
使用する金の量は減る。
その代わり、例えば金貨の表面にローマ皇帝の肖像が刻印される。
王権で、通貨の価値の一部を肩代わりするのである。
社会の持つ一定量の金地金で、よりおおくの通貨を手にしたい、
言い換えればより多くの商取引を実行したい、
社会がそう望んだのである。
だってそうでしょ、通貨が少なければ、通貨が人々の手に渡らず、
そもそも商業取引が開始しないでしょ。


やがて金貨のかわりに、紙幣になった。
初期の紙幣は、金兌換であった。
銀行に持ってゆけば、紙幣に書いてある量の金と交換してくれた。
この方式だと、金貨以上に通貨の量を増やせる。
発行してる紙幣に相当する金全てを保持している必要はない。
1/10、1/100、あるいはもっと少なくても良い。
いっぺんにみんなが金地金を持ちたいとは考えないのである。
商業取引には紙幣のほうが便利だし、
取引は日々行われるものだから。
これは国家主権で、通貨の価値の一部を肩代わりするのである。
同じ量の金地金があるならば、
この兌換紙幣のほうが、はるかにたくさん通貨の量を増やせる。
言い換えれば、はるかにたくさん商取引の量を増やせる。
だってそうでしょ、通貨が少なければ、通貨が人々の手に渡らず、
そもそも商業取引が開始しないでしょ。


やがて、兌換紙幣のかわりに不換紙幣になった。
銀行に行っても金に変えてくれない。
ただの紙である。
これは国家主権で、通貨の価値の全部を受け持つのである。
発行できる通貨の量は膨大になる。
なにしろ金を用意しなくてよいのだから。
言い換えれば、商取引を出来るだけ多く増やそうと、
社会が望んだのである。
だってそうでしょ、通貨が少なければ、通貨が人々の手に渡らず、
そもそも商業取引が開始しないでしょ。


そのかわり、むやみに増刷しまくると、
貨幣の価値が下がってインフレになる。
だから中央銀行制度、つまり紙幣発行局を、
政府と少々距離をもたせる、というシステムで運営している。
それでも通貨を無限に発行する能力があることは変わらない。
特にデフレ局面においては。
とここまでは貨幣の歴史の基礎知識である。

そんなわけでカオナシは、
金貨製造機ではなく、兌換紙幣製造機でもなく、
不換紙幣(つまり今日私達が使用している通貨)の印刷機なのである。

そして、カオナシは最終的に銭婆婆のところに落ち着く。
銭婆婆はその名の通り、銭の人であるから、中央銀行である。
千尋とハクが銭婆婆と分かれる際に、
銭婆婆はカオナシに、
「あんたはここに残りなさい、私を手伝っておくれ」というが、
大人向けの表現をするならば、
「政府そのものが紙幣増刷するのはまずい。
なぜならばどうしても過度の増刷になるから、バブルが発生して、
カエルが飲み込まれたり、食品を無駄にしたり、色々と不具合になる。
あくまで政府とは距離を置いた中央銀行の権限としての増刷活動に制限したい。」
という意味になる。