若い頃は映画ファンだった。
当時はDVDなんてものはなく、
ビデオテープで映画を見ていた。
見まくった挙句にたどり着いたのが、
タルコフスキーだった。
タルコフスキー最後の作品「サクリファイス」を見たのは、
学生時代、地方の映画館でだった。
(ノスタルジアも、サクリファイスも、地方の映画館で見れたのである。
のんきな時代である。
他の作品はビデオで見た)
サクリファイスはキリスト教映画だった。
マタイ受難曲が流れ、
父と子と精霊の三位一体教義を美しく映像化したシーンを見て、
私は十分に満足しきってしまった。
最後にタルコフスキーの言葉が出る。
短い言葉だが、すでに末期ガンであった彼の、
遺言のような、絶叫のような言葉であった。
「この映画を息子アンドリューシャに捧げる。
希望と確信を持って
アンドレ・タルコフスキー」
そして私は映画ファンをやめた。
すでに彼が死去していたことは知っていた。
彼はソ連の映画監督であった。
資本主義社会ではこんな監督が生存不可能であることは、
十分承知していた。
「このレベルの作品がもう出現しないなら、ほかに楽しいことを探したほうが早い」
しかし結局二十年の時を経て、
ふたたび映画ファンに戻れたようである。
日本のアニメ監督の仕事のおかげである。
(宮崎も、押井も、タルコフスキーの影響を強く受けている)
年末あるデザイナーさんとお話していて、
その人が好きな映画として挙げていたので、懐かしくなり、
正月に久しぶりに「惑星ソラリス」を見た。
ふと気がついた。
黒澤明の「夢」あれはほとんど、
タルコフスキーのパクリではないかしら。
タルコフスキーの死去は1986年
黒澤の「夢」は1990年の作品である。
黒澤のほうがずっと先輩である。
普通先輩が後輩をまるごとパクる、というのは考えにくい。
しかしたとえば「惑星ソラリス」の水草のシーン
「夢」の最終章「水車のある村」の最後のシーン
まったく同じではないか?
発見してかなり動揺してしまった。
これほどの著名な作家が後輩をマルパクリとは、恥を知らないか?
と興奮しても仕方が無いので、
冷静になって一覧表にしてみた。
「夢」は8章から成る。
1)「日照り雨」に相当するタルコフスキーのシーンは思い浮かばない
2)「桃畑」の鈴を持った少女は、青い服でソラリスに登場する
3)「雪あらし」凍った女性という意味ではソラリスの妻役と共通
4)「トンネル」ストーカーに出てくる意味深い犬に共通
5)「鴉」画家を描いている。「アンドレイ・ルブリョフ」に共通。
6)「赤富士」思い浮かばない
7)「鬼哭」思い浮かばない
8)「水車のある村」上記のように水草のシーンがソラリスに酷似
このように類似がたくさんあるのである。
だれが見ても、6と7は出来が悪い。
なんでこの話を入れたのか理解不能であった。
日照り雨は狐の嫁入りの話だから結婚式の話、
水車のある村は葬式の話だから、
映画全体としては人間の一生を描いたものだ。
じゃあなんで原発と核汚染の話が必要だったのか?
タルクフスキーの遺作「サクリファイス」は、
核戦争によって壊滅した世界を救済しようとする話である。
主人公は「日本の木」を子供と育てており、
最後は着物を着て、尺八音楽を流しながら家に火をつける。
そういえばタルコフスキーは、チェルノブイリ事故のついてもコメントしていた。
「チェルノブイリという言葉は、ヨハネの黙示録にある苦よもぎ、という意味だ」
チェルノブイリ事後は1986年4月
彼の死去は同年12月である。
というわけで、私の組み立てた仮説は以下である。
1)黒澤はタルコフスキーの友人だったから彼の死を悼んだ。
2)のみならず、彼の映画、「サクリファイス」のメッセージを、強く受け止めた。
3)おりしもチェルノブイリの事故があった。
4)コッポラ、ルーカス、スピルバーグ、スコセッシによびかけて、
タルコフスキーの追悼映画を作った。それが「夢」であった。
全編タルコフスキーへのオマージュに満ちている。
しかしそのことは黒澤は口にはしなかった。
「夢」はパクリではなく、オマージュだった、
そう考えれば、赤富士、鬼哭の内容も納得できる。
この仮説が正しいとすれば、
黒澤も、コッポラも、ルーカスも、スピルバーグも、スコセッシも、
立派なもんだ。
今こういう人材が居れば、
反日映画をアンジェリーナジョリーが作るってこともなかったんだろうな。
ハリウッドの主要な人材全部黒澤ファンだから、結果的に親日になっていた。
黒澤一人のおかげで日本は凄く助かっていたのだな。
それにしても黒澤の晩年、日本の映画村から総スカンをくらっていたが、
あれはなんだったのだろう。もったいないことをしたもんだ。
ページ
2014年1月3日金曜日
2014年1月1日水曜日
財務省問題とニクソンショック
消費税が上がるそうである。
大変困ったことであるが、それはおいておいて、
今財務省内でおこっているであろうことを、読み解く。
三橋貴明 1969年生まれ
上念司 1969年生まれ
渡邉哲也 1969年生まれ
いずれもリフレ派の評論家であるが、
同年生まれで3人も居る。
(厳密には三橋氏はリフレ派ではないそうだ。
しかしだいたいの意味で捉えていただければわかると思うので、
以下そのままゆく)
私は68年生まれだが、
考え方としてはだいたい近い。
(無論経済学の知識は彼らの1/1000くらいである)
で、どうしてここに集中するのか。
それより上の世代では、リフレは少数である。
下の世代では、リフレは多数とまでは言い切れないが、
上の世代よりははるかに多い。
思うに、ニクソンショックが決定的に影響力を持つ。
1971年、ニクソンがドルと金の兌換を停止した。
それ以降、紙幣と金は切り離されたままである。
上記3人が物心ついたときには、
すでに金と紙幣が関係ない世界に生きていたのである。
だが本位制時代の考え方は残っていた。
だから上記3人の世代は、
現在の世界を「言語で説明しようとする」。
その下の世代になると、もはやあたりまえだから、
あまり論じなくなる。
ここらあたりが、生まれたときから不換紙幣時代という、
最初の世代なのである。
ということは、
財務省内部でも、
1969年生まれくらいを境に、
経済にたいする意見が大きく異なっているはずである。
それより上の世代は、
「財政均衡至上主義」
「国債発行はなるべく抑えたい」
「通貨の価値を高めたい」
という考えがマジョリティーのはずだし、
それより下の世代は、
「財政均衡よりも景気回復が重要」
「国債は通貨と基本的にはかわらない」
「通貨の価値を気にするのは意味がない」
と考えている人が、マジョリティーのはずである。
財務省内で以上2派閥、というか2世代が、
大きく戦っているはずである。
といっても年上と年下なので、
かならず旧世代が勝つのだが、
旧世代の人々は、
大変居心地の悪い思いをしながら、
仕事をしているはずである。
なぜならすでに、新世代が数的にはマジョリティーだから。
同じようなことが戦前にもおこった。
戦艦が大事なのか、航空機が大事なのか、という議論である。
旧世代に人々は航空機に適応できず、
新世代の人々は航空機をやりすぎた。
(真珠湾奇襲は、航空機崇拝をやりすぎた例だと思っている)
こういう対立がおこっていると、
組織というものは、ダメになる。
不安感、焦りがどうしても拭えなくなる。
それで冷静な議論が出来なくなる。
対立を解消するには共通の目的を持つことだ。
むちゃでもなんでも、組織を維持する為にどこかに行こうとする。
大日本帝国海軍と陸軍は、
対中戦争、対米戦争に頭をつっこんで、
崩壊していった。
消費税増税は、対米戦争ほどのダメージが無いが、
対中戦争程度のダメージはある。
1969年生まれが次官になるころ、
1969+55歳で、だいたい2024年、くらいから財務省は落ち着くんだろうなとおもう。
落ち着けば冷静な経済運営が出来る。
逆に言えば、あと11年くらいは、財務省は不安定さを持つ。
焦って消費税増税を強行するようなことを、してしまう。
こまったものである。
11年くらいの辛抱である。
(とはいうものの、なんのかんの言ってエリートである。
あと3年くらいで大勢は決すると思っている)
大変困ったことであるが、それはおいておいて、
今財務省内でおこっているであろうことを、読み解く。
三橋貴明 1969年生まれ
上念司 1969年生まれ
渡邉哲也 1969年生まれ
いずれもリフレ派の評論家であるが、
同年生まれで3人も居る。
(厳密には三橋氏はリフレ派ではないそうだ。
しかしだいたいの意味で捉えていただければわかると思うので、
以下そのままゆく)
私は68年生まれだが、
考え方としてはだいたい近い。
(無論経済学の知識は彼らの1/1000くらいである)
で、どうしてここに集中するのか。
それより上の世代では、リフレは少数である。
下の世代では、リフレは多数とまでは言い切れないが、
上の世代よりははるかに多い。
思うに、ニクソンショックが決定的に影響力を持つ。
1971年、ニクソンがドルと金の兌換を停止した。
それ以降、紙幣と金は切り離されたままである。
上記3人が物心ついたときには、
すでに金と紙幣が関係ない世界に生きていたのである。
だが本位制時代の考え方は残っていた。
だから上記3人の世代は、
現在の世界を「言語で説明しようとする」。
その下の世代になると、もはやあたりまえだから、
あまり論じなくなる。
ここらあたりが、生まれたときから不換紙幣時代という、
最初の世代なのである。
ということは、
財務省内部でも、
1969年生まれくらいを境に、
経済にたいする意見が大きく異なっているはずである。
それより上の世代は、
「財政均衡至上主義」
「国債発行はなるべく抑えたい」
「通貨の価値を高めたい」
という考えがマジョリティーのはずだし、
それより下の世代は、
「財政均衡よりも景気回復が重要」
「国債は通貨と基本的にはかわらない」
「通貨の価値を気にするのは意味がない」
と考えている人が、マジョリティーのはずである。
財務省内で以上2派閥、というか2世代が、
大きく戦っているはずである。
といっても年上と年下なので、
かならず旧世代が勝つのだが、
旧世代の人々は、
大変居心地の悪い思いをしながら、
仕事をしているはずである。
なぜならすでに、新世代が数的にはマジョリティーだから。
同じようなことが戦前にもおこった。
戦艦が大事なのか、航空機が大事なのか、という議論である。
旧世代に人々は航空機に適応できず、
新世代の人々は航空機をやりすぎた。
(真珠湾奇襲は、航空機崇拝をやりすぎた例だと思っている)
こういう対立がおこっていると、
組織というものは、ダメになる。
不安感、焦りがどうしても拭えなくなる。
それで冷静な議論が出来なくなる。
対立を解消するには共通の目的を持つことだ。
むちゃでもなんでも、組織を維持する為にどこかに行こうとする。
大日本帝国海軍と陸軍は、
対中戦争、対米戦争に頭をつっこんで、
崩壊していった。
消費税増税は、対米戦争ほどのダメージが無いが、
対中戦争程度のダメージはある。
1969年生まれが次官になるころ、
1969+55歳で、だいたい2024年、くらいから財務省は落ち着くんだろうなとおもう。
落ち着けば冷静な経済運営が出来る。
逆に言えば、あと11年くらいは、財務省は不安定さを持つ。
焦って消費税増税を強行するようなことを、してしまう。
こまったものである。
11年くらいの辛抱である。
(とはいうものの、なんのかんの言ってエリートである。
あと3年くらいで大勢は決すると思っている)
2013年12月29日日曜日
風立ちぬ・解説22
さて「幻想交響曲」は、その題の通り基本「幻想」の交響曲である。
主人公がアヘンを吸う。吸って幻覚を見る。
それが幻想交響曲である。
全5楽章は、すべてアヘンの夢である。
ということは、
堀辰雄の「風立ちぬ」という小説も、
全てが夢として創作されている、ということである。
全体が夢、全てが実態がないとすれば、
ここで描かれていることは、
この世の全て、世界の全てである可能性が高い。
(と、理論が飛躍しているように見える方をおられるだろうが、
芸術言語ではこういう思考回路はよくおこることなので、
そういうものだと思って先に進んでいただきたい。
世界の全て、宇宙の全てを描こうと思えば、
実生活からはまったくとりかかりの無い話なので、
全てが夢である、としか表現できないのである)
堀辰雄「風立ちぬ」の登場人物は基本3人で、
ほかにちょろちょろと数人人間登場するが、
父と娘、および作者である娘の婚約者(私)の3名の物語と見て大丈夫である。
さて、宮崎駿の「風立ちぬ」が、
はっきりとヨハネの黙示録を取り込んでいたことを思い出していただきたい。
おそらく堀辰雄も聖書を取り込んでいるはずである。
ならばおそらく、
父:主なる神
娘:子なるキリスト
私:精霊(言語情報として神の意思を伝える霊)ないし人類
という意味合いを持つことが類推される。
類推を補強するのは風立ちぬ(第三章)の記述である。
神経衰弱の患者が、縊死する。
縊死といえばマカベウスのユダである。
ユダも懊悩のあまり縊死した。
続く章、「冬」で、
娘は「私」が仕事にとりかかって娘との距離が遠ざかったこと、
および病態が悪化したことが原因で、
ふたりきりの生活をやめて、父の元に戻りたい、と言い出す。
そして娘はさらに病態を悪化させ、死にいたるのだが、
それはイエスの死である。
父の元に返るのである。
堀辰雄はここで、
日本の女性文学の伝統にのっとり、
イエスを女性として登場させているのである。
さらに全体の構造を考える。
物語は
「風立ちぬ、いざきめやも」で始まり、
娘が死んだ後、山奥の小屋で終わる。
「又どうかすると風の余りらしいものが、
私のあしもとでも二つ三つの落ち葉を他の落ち葉の上に
さらさらと弱い音を立てながら移している」
風が立って物語が始まり、
風が弱まりこそすれ、まだ残っている状況で物語は終わる。
ところで登場人物が父なる神とイエスならば、
これは世界の創造と発展の物語であるはずである。
風が立ち、世界が始まるのである。
風が弱まって、世界の終わりを暗示しながら小説が終わるのである。
http://tobifudo.jp/newmon/betusekai/hokai.htm
そう、風で世界が始まるのは、仏教思想である。
堀辰雄の「風立ちぬ」では、父は天地創造をしない。
天地創造のときに、若干自分の権利を主張するだけである。
(詳しくは
http://www.aozora.gr.jp/cards/001030/files/4803_14204.html
参照、
「もう二三日したらお父様がいらっしゃるわ」
というのがそれにあたる)
堀はここで、
仏教的天地創造神話のなかに、
新約聖書を入れ込む、という離れ業をやっているのである。
いわば仏教でキリスト教を包み込んでいる。
(ちなみに、離れ業をやっているから偉い、というわけではない。
私は依然として堀辰雄が嫌いである。
離れ業をやっている駄作なんぞいくらでもある。
「風立ちぬ」は駄作ではないが、万人に勧めたくなる傑作でもないと思う)
その意味で、太宰、坂口、あるいは遠藤周作などに先立ち、
キリスト教こそが西洋文明の根本であり、
西洋文明の克服にはキリスト教の超克こそが必要であると自覚した、
先端的な作家であったとは言えるだろう。
主人公がアヘンを吸う。吸って幻覚を見る。
それが幻想交響曲である。
全5楽章は、すべてアヘンの夢である。
ということは、
堀辰雄の「風立ちぬ」という小説も、
全てが夢として創作されている、ということである。
全体が夢、全てが実態がないとすれば、
ここで描かれていることは、
この世の全て、世界の全てである可能性が高い。
(と、理論が飛躍しているように見える方をおられるだろうが、
芸術言語ではこういう思考回路はよくおこることなので、
そういうものだと思って先に進んでいただきたい。
世界の全て、宇宙の全てを描こうと思えば、
実生活からはまったくとりかかりの無い話なので、
全てが夢である、としか表現できないのである)
堀辰雄「風立ちぬ」の登場人物は基本3人で、
ほかにちょろちょろと数人人間登場するが、
父と娘、および作者である娘の婚約者(私)の3名の物語と見て大丈夫である。
さて、宮崎駿の「風立ちぬ」が、
はっきりとヨハネの黙示録を取り込んでいたことを思い出していただきたい。
おそらく堀辰雄も聖書を取り込んでいるはずである。
ならばおそらく、
父:主なる神
娘:子なるキリスト
私:精霊(言語情報として神の意思を伝える霊)ないし人類
という意味合いを持つことが類推される。
類推を補強するのは風立ちぬ(第三章)の記述である。
神経衰弱の患者が、縊死する。
縊死といえばマカベウスのユダである。
ユダも懊悩のあまり縊死した。
続く章、「冬」で、
娘は「私」が仕事にとりかかって娘との距離が遠ざかったこと、
および病態が悪化したことが原因で、
ふたりきりの生活をやめて、父の元に戻りたい、と言い出す。
そして娘はさらに病態を悪化させ、死にいたるのだが、
それはイエスの死である。
父の元に返るのである。
堀辰雄はここで、
日本の女性文学の伝統にのっとり、
イエスを女性として登場させているのである。
さらに全体の構造を考える。
物語は
「風立ちぬ、いざきめやも」で始まり、
娘が死んだ後、山奥の小屋で終わる。
「又どうかすると風の余りらしいものが、
私のあしもとでも二つ三つの落ち葉を他の落ち葉の上に
さらさらと弱い音を立てながら移している」
風が立って物語が始まり、
風が弱まりこそすれ、まだ残っている状況で物語は終わる。
ところで登場人物が父なる神とイエスならば、
これは世界の創造と発展の物語であるはずである。
風が立ち、世界が始まるのである。
風が弱まって、世界の終わりを暗示しながら小説が終わるのである。
http://tobifudo.jp/newmon/betusekai/hokai.htm
そう、風で世界が始まるのは、仏教思想である。
堀辰雄の「風立ちぬ」では、父は天地創造をしない。
天地創造のときに、若干自分の権利を主張するだけである。
(詳しくは
http://www.aozora.gr.jp/cards/001030/files/4803_14204.html
参照、
「もう二三日したらお父様がいらっしゃるわ」
というのがそれにあたる)
堀はここで、
仏教的天地創造神話のなかに、
新約聖書を入れ込む、という離れ業をやっているのである。
いわば仏教でキリスト教を包み込んでいる。
(ちなみに、離れ業をやっているから偉い、というわけではない。
私は依然として堀辰雄が嫌いである。
離れ業をやっている駄作なんぞいくらでもある。
「風立ちぬ」は駄作ではないが、万人に勧めたくなる傑作でもないと思う)
その意味で、太宰、坂口、あるいは遠藤周作などに先立ち、
キリスト教こそが西洋文明の根本であり、
西洋文明の克服にはキリスト教の超克こそが必要であると自覚した、
先端的な作家であったとは言えるだろう。
登録:
投稿 (Atom)