ページ

2016年4月13日水曜日

「豊饒の海」追記4





三島の仏教理解に問題があるとすれば、刹那滅論が唯識特有のものだと勘違いしてしまったところにある、と私は思う。というとなにを言っているか一般には理解不能だが、私もよくわかっていないのでたちが悪い。しかしできるだけ説明してみる。刹那滅論についての説明はこちら。


http://www.sakai.zaq.ne.jp/piicats/kusharon.htm






ゼノンの詭弁に「飛んでる矢は止まっている」というのがある。飛んでる矢の刹那刹那は、特定の位置に存在している。時速60キロメートルの車は、一時間後には60キロ地点に、二時間後は120キロ地点に存在している。つまり、車は1時間後に60キロ地点に止まっている、という考えである。時間を1分後、1秒後と細かく分けても、やはり特定位置に止まっていると見てさしつかえない、とする考え方である。これは映画のフィルムで考えれば、それなりに納得出来る話で、映画のフィルムの上の画像は、当たり前だが静止している。フィルムを上映すると動いているように見えるが、時間を細かく分ければ止まっている。そして「運動」という概念が否定されるのである。
究極的に言えばこれは、眼と耳の相性の悪さの問題である。目は時間を扱えない。瞬間の連続でしかない。そして耳は時間しか扱えない。目があまりにも優位だと、刹那滅論になる。
実は文明によって目と耳のバランスは変わるのだが、インドは目が優位な文明である。(というより耳優位の文明はイスラムくらいである。西洋でも、イスラムに近いポイント、イタリア、ドイツ、ロシアで音楽が発生した) そしてインドの文化での時間の切れ方というのを最も端的に表現しているのは、輪廻転生である。誰もが生まれ変わって別の生を歩む。生まれ変わる対象は人生の中でどんな良いこと、悪いことをしたかで決まるのだが、人生一回一回は輪廻の度に切れる。この輪廻システムの単位時間(50年くらい)を、極限まで小さくすると、刹那滅論になるのである。なんのことはない、釈迦は輪廻からの解脱方法を説いたが、仏教の教学が精緻化すると、輪廻をミクロにした世界観の中に仏教全体がどっぷりつかってしまった。釈迦が凡人なら草場の陰で泣いているだろうが、ご安心ください、そこは解脱した方なので心配無いものと思われる。
もっとも「仏教とはなにか」を研究する場合には、ここはおそらく最大の躓きの石になる点である。ブッダの弟子を自称する人々が、輪廻的世界観にどっぷりつかろうと言い出すのである。そしてこれは大乗仏教の問題点ではない。刹那滅論は説一切有部、つまり小乗仏教のころからの仏教のほぼ定説なのである。大きく言えば、刹那滅論が出てきた瞬間から、仏教はヒンズー教に負けていた、飲み込まれていたと考えて良いだろう。


さてそこで三島である。写真を見ればわかるとおり、三島は目が優位の人間である。巨大な目をしている。音楽さえも視覚的に鑑賞する、と本人言っていたそうである。そんな三島に、輪廻、あるいはその縮小版の刹那滅論は、無茶苦茶なじみが良かったはずである。そんな興奮が「豊饒の海」にはある。三島は仏教的ではあるが、仏陀的ではない。そして強くインド的である。
我々中村元以降の現代人、つまり初期仏典に気軽に親しめる現代人には、三島は仏教を十分理解出来ていないような感覚が残るのである。しかし、仏教的かどうかと、仏陀の教えに近いかどうかは、ひどいようだが関係無い。仏陀の教えを中心とした思考の総体を我々は仏教と呼んでいるのである。仏教にはキリスト教のような異端審問は存在しない。つまり三島は三島なりに仏教を理解したのである。





2016年4月10日日曜日

「豊饒の海」追記3

三島由紀夫の熱心な読者ではないもので、「潮騒」も「仮面」も読んでいない。「仮面」は人間失格を下敷きにしているという説があるそうである。しかし読んでいないのでなんとも言えない。
そんな私でも、「潮騒」の「炎を飛び越えてうんぬん」というフレーズは見たことがある。普通に考えれば下敷きは、炎を飛び越えてブリュンヒルデの目を覚ました、ジークフリートが原型である。であるならば、最後の大作「豊饒の海」も、ニーベルングの指環を下敷きにしているはずである。日本文学研究者たちは、どこでそれを、つまり読み解きのルートを見失ったのだろうか?


問題の根源は、知識の蛸壺化にあるのだが、それを促したのは、専門家によるあまりにも専門的な用語の使用の氾濫である。通常の人間は、専門家の書いた文学論を読まない。なにを書いているかわからないからである。ひょっとして本人ですらなにを書いているかわからないような晦渋な文章で、ただでさえ難しい文学の論評をする。そうすると、論評される前よりも論評された後のほうが、文学がわかりにくくなるのである。小林秀雄以降の文学評論の多くはそうである。
ところで、人間の脳みその大きさは一定である。少なくともこの数十年間変化は無い。そしてたとえば60年前の人の文学理解と同レベルの文学理解を達成しようと考えると、難しい言葉遣いによってわかりにくくなっている分、60年前の人よりもより多くの脳みそパワーを消費しなければ、同じ地点に到達できないということになる。
そうはいっても、やはり文学研究者であるならば、人に負けるわけにはいかない。無理でもなんでもガリガリ頭に入れてしまう。同じ人間だから、同じ脳みそサイズだから、無理な努力は必ずどこかにひずみを生む。ひずみは一般教養の不足となって表れる。トーマスマンの全著作は読んである。三島も全部読んでいる。それは凄いことである。一方で「ニーベルングの指環」のあらすじを把握していない。それでは実は、「豊饒の海」は読めないのである。三島は、豊富な教養を持っている。すくなくとも「デフレ政策が既得権益者を保護する政策である」ということは、理解できているのである。では今日の文芸評論家の何人がそれを理解したか。
三島は法律でも、経済でも、文学でも、かなりバランス良く理解、目配りできてる。つまり、統合的な知識人である。その三島を研究するひとが、ある程度のバランスの知識を持たず、「三島文学」のみをひたすら研究しつづけるとしたら、それはなんのための研究なのであろうか。それは本当に三島由紀夫の研究なのであろうか。
そして、この諸悪の根源である文学評論の小難しい文体に対する責任の大半は小林秀雄にあるとしても、実は三島由紀夫の小説の文体も、与って罪ある文体なのである。意味もなく小難しく、過剰装飾の文体である。インテリが飛びつきそうな文体である。かれの文体を真似た研究者たちによって、どれほど文学がわかりにくくなったことか、そして、わかりにくくなった作品群には、三島の小説も含まれる。
変な結論が出てしまった。なんのこっちゃ、三島の「豊饒の海」が十分に読解されてこなかった責任は、三島自身にもあるということになる。三島の装飾過剰な文体いあるということになる。そして、小難しい文体で論評をしている人々は、三島の忠実な後継者ということになり、それを嫌う私こそが異端ということになる。読まない人が忠臣で、読んだ人間が謀反人なのである。
つまり三島はおそらく、自分の作品をそんなに読んで欲しいと思っていなかったと思う。読んでもらいたい、人に届けたいという強い欲求を、三島の作品からは感じることが出来ないのである。逆に言えば、三島は自分の中に大きな問題を抱えていなかったように思える。なんでも出来てしまう。なんでも理解できる。マスコミからはスター扱いされる。不足が無い。そんな三島が羨む存在は何もない。
そんな彼が例外的に羨んだであろう存在は、三島のような秀才には決して出来ないことをする、身勝手で、わがままで、情緒不安で、エゴイスティックなエロスを持つ人物、馬鹿に分類されるような人物、ワーグナーと太宰のみだったのではないか。玉川上水の濁流に半分ジークフリート、半分ハーゲンの男が飲み込まれてゆく嫌なイメージとともに、そう思う。





2016年4月8日金曜日

「豊饒の海」追記2

第一巻「春の雪」には動物の死骸が2回出てくる。滝にかかる黒い犬の死骸と、もぐらの死体である。黒い犬は、門跡に供養される。この作品で門跡に供養されるのは、ほかには本多しかいない。となると黒い犬は、本多の死体が時間がループして本多の目の前にあると考えて良いだろう。もぐらは安永である。安永は盲目なのでまず間違いない。可哀想に松枝に池に捨てられる。


今日の読解は、いわゆる芸術的であり、思想的であり、いやどういう言い方をすればわからないが、やたらと凝った言葉遣いでされることが多い。ところが、三島自身はそういう現代思想が流行した時代よりも前の人物である。つまり、そのような言葉遣いで三島の作品を分析しても、かえって分析出来ないということになる。簡略な、簡潔な言葉で分析していったほうが、結果が良い。
難解な言葉を使うということは、考えるスピードが遅くなるということである。時間がふんだんにあるなら別だが、普通の人間は簡潔な言葉で読解をすすめることをお勧めする。簡潔な言葉でも数年かかるのが大作の読解である。難解なことばだと何十年かかるやら。


犬の死骸とモグラの死骸の正体も、作者がなにを達成したかったのか、という疑問から逆算すれば、わりに単純な話である。Naverにも書いたが、「天人五衰」に登場する謎の人物2人についても同様である。


柏倉浩造氏は、三島本人であると理解されているようであるが、単純に考えるならば、作中ナイフを使えるような登場人物は、飯沼勲のみなのである。ベレー帽の老人は本多の二十程度年下で、身軽である。飯沼の分身、としか考えられない。野菜の老人も、松枝の分身という考え方で十分であろう。当然「なぜジンジャンの分身は出現しないのか」という疑問が出てくるが、ジンジャンの分身はジンジャンの姉である。というか姉に三つの黒子があったのだから、本物といいいうるのは寧ろ姉であって、ジンジャンが偽物、分身であっった。ここの本多の錯誤が、全編の転換点になる。そして本多の分身も時間をループさせて第一巻「春の雪」に登場し、安永の分身もループさせて登場する。主な人物は一応全部処理されているのである。