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2018年12月13日木曜日

「豊饒の海」追記15

どうも未だに、ラストシーンの意味についての議論が盛んなようである。私なりに説明してみる。

本多繁邦は綾倉聡子に過去の記憶をすべて否定される。
「それも心心でっさかいに」
記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまったと本多は思つた。

というのが「豊饒の海」のラストである。ポイントを押さえれば明快に説明できる。

1、元ネタの「ニーベルングの指環」のラストを参照する
2、輪廻を基本に考える


1、元ネタの「ニーベルングの指環」のラストを参照する
「ニーベルングの指環」は、ブリュンヒルデが指環を持って火の中に飛び込み、同時にヴァルハラ城も炎上し、神々の世界が一旦終わる。終わった後に「愛の救済の動機」が奏でられ、新たな生と、あらたな世界の生成が予感されて終幕する。

この終末が「豊饒」に受け継がれたと考えるならば、新たな転生が、より良い転生が待っている。

2、輪廻を基本に考える。
本多はここで死ぬ。死なないにしても、長生きした主人公の人生そのものはいったんここで否定される。すると今度は、本多が転生する。後述するようにそれは第一巻の滝で死んでいた黒い犬なのだが、もしも時系列をループさせないならば、あらたな人間として生まれ変わるはずである。本多の人生は、大きく金をもうけて、晩年青年にいじめられた、というだけでさのみ大きな事件のなかった人生だった。しかし飯沼茂之を援助したりして、実際安永も援助はしたわけだから、功徳はそれなりに積んでいる。積んでいるから転生先はもうすこし良い身分である。豊かかどうかしらないが、少し魂がハイグレードになっているはずである。

本多をいじめた安永は、第一巻でモグラとして登場する。松枝につまんで池に捨てられる。同様に、本多も黒い犬となって登場している。こちらは門跡に供養される。
ほかの転生は、飯沼勲が第四巻で変態ナイフ男になって登場、松枝もやさいくず爺さんとなって登場である。つまり、松枝、飯沼は文句なしに劣化版転生、本多、安永は時系列どおりに解釈すれば、アップグレードして転生している。つまり転生がプラスになるかマイナスになるかは人次第である。だから本多も次は虫に生まれるかも知れず、菩薩に生まれるかもしれないのだが、本多だけの持つ属性は、「門跡に供養される」である。第四巻のラストシーンも、事実上門跡の供養なのだから。

ところで門跡とは、皇族が出家してなるのが普通である。聡子は皇族ではないが、皇族になりかけて出家した。門跡が供養するとは、いわば準国葬なのである。国家全体に貢献したもののみが国葬を受ける。本多はそこまで国家全体に奉仕していないが、飯沼のように国家を憂うものを助け、タイ王子との外交も尽力した。単純素朴な暴力漢でもなく、エゴと美意識のみの貴族でもない、平凡な住民だが、それなりに社会に貢献した。そして最後に、癌の老体に鞭打って、汗だくになりながら参道の坂道を登りきった。坂の上の青い天に、一朶の白い雲がかがやいていたのかどうかはいざしらず。

本多は三島自身でもあり、近代の日本人そのものだが、三島は自分と日本人に十全ではないまでもそれなりの評価をしていたことになる。自分は死ぬ。近代日本は死ぬ。転生した来世は、もうすこしでも良いことになればよいな。素直で純粋な心を持った小説家。

2018年12月12日水曜日

「豊饒の海」追記14

以下のようなことは三島の全作品を読んでから判断することだが、私が三島の全作品を読む見込みは全く無いので、性急な判断をさせていただく。

三島は、「銀河鉄道の夜」や「斜陽」のような作品は、おそらく内容読み込めていない。なんとなく凄さはわかっていたと思われるが、それらの尖がった小説実験理解できていない。

「人間失格」はおそらくだが意味がわかっている。「絹の明察」も天皇が主役である。

「闇の奥」はおそらく読めている。全体の登場人物戦略と、ニーベルングの指環を背景にした作品があるということを、読めている。優秀である。

実はほとんどのイギリス文学研究者は「闇の奥」を読めていなかったはずである。いくつか解説を読んでみたが、まともな読み解きはなかった。「闇の奥」を下敷きにした「地獄の黙示録」もほとんどの映画批評家が内容読み解けていなかった。「闇の奥」理解はかなり大きなポイントなのである。これを読めただけで、三島は一級品である。

そしてもっとも重要なことは、「ニーベルングの指環」が通貨発行権を扱うドラマだということを理解していることである。さすがは元大蔵官僚である。この点で、三島はフィッツジェラルドや宮崎駿と並び、コッポラやタランティーノの上にゆく。

文芸研究家、評論家に比べれば、作家はたいてい「読める」。読む能力が高い人が多い。もちろん読めない人もたくさんいるが。
その「読む」という才能だけで言ったら、三島は宮沢賢治や太宰治より確実にワンランク下である。細部をレトリックかけてこねくりまわす悪癖が災いしている。しかし宮沢、太宰に負けても不名誉ではない。連中はどうも(田舎者だけあって)動物的超能力で読む部分が感じられる。現代日本では絶滅した人種である。人間というより原始的生物という感じさえ受ける。

(私はもちろん読み解き能力三島よりはるかに下だが、章立て表や登場人物一覧表の作成によって整理できるから、人の読み解き能力を判別する資格はあるだろう)

残念ながら「読み込む」「読み解く」という世界をまるごと知らず一生を終える文学ファン、文学研究者、文学評論家が大部分である。非常に優秀な頭脳が、「読み解く」ということをしらないまま、無駄に消えてゆく。もったいない。「読み解く」という世界がある、ということさえ認識すれば、実はその瞬間から三倍くらい読めるようになっているのである。しかし「その世界がある」ということをテコでも認めようとしない。なかなか世間に広まるまで時間がかかりそうである。

話し戻って、三島は、通貨発行権の問題をかなり高水準で理解することが出来た。通貨発行と経済的困窮との関係、インド洋の海洋利権、これらは今日でも十分通用する議題である。つまり三島は今日の作家なのである。しかし、話題になるのは三島の愛国心だけで、三島の優れた見識ではない。切腹は確かに重要なイベントだが、切腹評論ならば三島以外にも対象は居る。話題にしなければならないのは三島の見識のはずである。

ではなぜ見識が話題にならないか、それははっきり「豊饒の海」がさほど理解されていないからである。せめて「闇の奥」だけでも十分理解されれば、三島の努力も十分報われると思うのだが。

言い換えよう。むやみに神格化されず、冷静に三島の能力と努力を判定できるようになれば、日本もよい国になれると思うのだが。

2018年12月11日火曜日

「豊饒の海」追記13

NAVERに「豊饒の海」をまとめて2年以上経過したが、最近やけに豊饒が話題にのぼる。
日本の右傾化に関係があるのだろう、いや右傾化して当然と思っているのだが。
流れに乗っていろいろ書きたくなった。

「豊饒の海」追記11
https://yomitoki2.blogspot.com/2016/04/11.html
にも書いたのだが三島由紀夫は戦争に行っていない。
戦争体験ヒエラルキーとしては、かなり下である。丙種不合格だったはずである。
しかし、当時の人間でもそれより以下は居る。
黒澤明は、戦争体験という意味では、三島由紀夫以下である。

黒澤明のインタビューがながらく見つからなかったのだが最近再発見した。
インタビュアーは大島渚。
45分ごろから。

https://youtu.be/rdTztiOZa_4?t=2744

「検閲官の前に立ったら、黒澤勇さんの息子さんですか」と聞かれて、「軍隊に入るだけがお国のためじゃない」「お兄さん(騎兵に入って怪我をした)はお気の毒だった」「兵隊でないほうでお国のために尽くせ」って言われて、最後のところに入ったら「あんた兵役関係ありません」って言われて、点呼もないんですよ」
「横浜の空襲の日に点呼があって行ったら、全部馬鹿とかたわ(ママ)みたいなひとばっかりで」

要するに、父が軍関係者で、兄が軍で怪我をしたもんだから、徴兵されないようになっていた、ということらしい。
そんな黒澤は、自分が生き残ったことを終生気にする。

https://youtu.be/Ryg5K4qGHD4?t=2720

「おまえたちと一緒に死にたかった」

黒澤映画が、細部では映画史上類を見ないエネルギーを持ちながら、しばしば全体として流れが悪く、すっきりと楽しめないものになっているのは、彼の「生き残ってしまった」コンプレックスが原因だと思っている。

三島もしかり。三島も国の将来を憂い、憂いこうじて最終的に自分の命を絶つのだが、徴兵検査不合格の瞬間はともかく、その後の人生はさぞかし苦しいものだったのだろうと想像する。おかげで我々は文学の大作を享受できるのだから文句は言えない。しかし黒澤と同じく、細部のレトリックに惑溺して全体がスムーズに流れないのは、黒澤と共通する精神状態があったのだろうと考えている。