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2020年6月7日日曜日

入金とリスク、あるいは収入と労働の比例関係

コロナで何種類もの支援策が打ち出されている。




定額給付金は、手紙を返信する手間はあるが、ほぼ手間ナシで入金される。
入金は貸付ではなく贈与である。

持続化給付金はネットで申請をすればより多くの額が入金される。ただし書類をそろえる必要はある。インチキ申告でお金をもらうと罰則がある。

緊急小口資金等は、社会保険事務所まで出かける必要がある。ほぼ無条件で入金する。もっとも書類は何種類か必要である。その上貸付である。低利で返済期間も長いが、それでも貸付であるに変わりはない。借金をこさえたくない人は行かないだろう。

政策金融公庫等でも貸付が緩和されている。しかし金融機関の貸付なので審査はある。額は審査に通れば非常に大きい。無論返済義務はある。




表にしてみた。実は現在、申請給付(個人最大100万)と申請無条件貸付(個人最大80万)の額が逆になっている。貸付の最大額を増やすべきだろう。200~300万が妥当かと思う。


「額に汗する」という言葉がある。熱心に働くことを表す。世間の考えでは、労働量と収入は比例するのである。給付の場合には、本人の請け負うリスクと給付額が比例する。だからこの表のようになっている。


どうして定額給付金が必要か、なんとなくおわかりかと思う。国民一律に配られる定額給付金が存在するからこそ、困っている人への持続化給付金が「許される」のである。国民は平等に関してうるさい。どこかで国民共通の利得を導入しなければ、困窮者への支援にたいして「甘えるな」という反発が出る。一律である程度の銭を掴ませるからかこそ、困窮者への支援が可能になる。残念ながら、それが国民感情である。


という話を、BI(ベーシックインカム)およびJGP(就労保証)の議論に流用する。



つまり、BIもJGPも、両方必要なのである。今はコロナだからBI中心なのは皆納得していると思う。下手に働いて感染拡大は避けたい(3波までは覚悟しておく必要がある)。



コロナ後には、いわゆる公務員と生活保護の間が空く。それをJGPで埋めるのは大変良いことである。ただし、どれほど少額でもBIは必要になる。社会保障費等と相殺はよろしくない。登録した口座に確実に入金される、儀式のようなものがどうしても必要なのである。そのカネで、生活保護やJGPや公務員待遇改善への批判を、黙らせることができる。BIのような形で通貨発行権の行使を社会全体に認めさせる必要があるのである。

同時にJPGも「必要」である。「額に汗する」価値観に逆らわないために、BIがあるならばJGPも必要なのである。国家による勤労価値観の称揚である。引きこもりの人も、一日4時間程度、週3日程度から、徐々に労働に馴れ、社会に馴れてゆくことができるのだから。

BIもJGPも、単独で賛否を問うものではなく、全体の社会設計の中で考えるべきものである。
このような議論は本来社会学者や政治学者がしなければならないのだが、古市さんあたりに聞きに行っても意味ないので、とりあえず私がやってみた。

2020年5月5日火曜日

数字・簿記・文学

「神曲」解説【ダンテ・アリギエーリ】



週休二日さんから凄い読み解きが上がってきたので、まずはお読みいただきたい。じっくり読んで消化した上で戻ってきていただきたい。情報量が非常に多いので、「神曲」を軽くでも読んだことがない方は再読、三読くらいは必要だろう。画期的な読み解きである。


以下私なりの補助解説


1189年、十字軍が開始された。この後何度も繰り返される。ヨーロッパ世界のイスラム世界との接触が戦争によって増える。そしてフィボナッチという数学者が出現する。多くの人はフィボナッチ数列で名前で覚えられていると思うが、彼がイスラムの数学をヨーロッパに紹介する。イスラムの数字も紹介する。位取り法もはいっている。

それまでヨーロッパの数字は、ⅠⅡⅢⅣであった。やってられない。フィボナッチ以降は1234になる。当然計算能力は増大し、簿記会計能力も増大するから、つまり商業能力も増大する。
最初の複式簿記の記録は判然としない。1296年ごろという説がある。ダンテの在世中である。ダンテが生きた時代は、計算能力、簿記能力の革命の中だったのである。その社会で書かれ、強く支持された文学がどのような性質のものか、上記記事をご確認いただきたい。納得いただけるものと思う。

次に東アジア世界の年表と合わせて考えてみる


東アジア世界では、西洋のような数字、計算革命は見られない。
それ以前、例えば北宋は当時世界で最も科学技術の進歩した国だった。しかしモンゴル、明以降徐々に地位を落とし、日中戦争あたりが最低値になる。
日本も鎌倉仏教を宗教改革とするならば、ヨーロッパよりもむしろ先んじている。しかし数字、計算革命は見られず、文学の大きな進歩も見られない。
エマニュエル・トッド式に「日本は世界の先端から遅れたことがない」と表現するのは、識字率という点では当たっているし、そこだけで見るならむしろ日本のほうが優れている。高等数学も和算の関和孝が、ニュートンとほぼ同時期に微分積分発見したとかの例もある。しかし社会全体としては会計能力が劣っていることを、ここ30年で我々自身で証明してしまった。それに対する文学系からの正当な批判はほぼゼロだったし、反省も今の所全く聞こえてこない。

ダンテ「神曲」は西洋近代文学の根源とも言える作品である。その中にはフェボナッチからの数学の組み込みが大量に含まれていた。だとするならば、その後の作品もそれを継承するはずである。「ヴェニスの商人」が資本主義を扱い、「ファウスト」「ニーベルングの指環」が通貨発行を扱うのも当然なのである。大きく言えば「ニーベルングの指環作品群」は、「神曲作品群」の末端と呼んでさしつかえない。「神曲」からはじまった巨大な「数字、文字複合文化」の末端を、そうと知らず我々は鑑賞していたのである。


2020年5月4日月曜日

手塚からの影響

司馬遼太郎の二つ年下が三島由紀夫、この二人は「通貨発行」について理解できている。間に挟まった安部公房はどうだかわからない。




その後も散発的にわかる人はコンスタントに居るのだが、政治畑に多い。逆に言えば文学系が不思議なことに「わからなくなった。」

一方こちらは、通貨発行がわからないか、はっきり間違えるわけでもないにせよ、感度が鈍い人。



要するに文化人でわからない人が増えたのである。文化人がわからなくなったのである。
内容的淵源探求の労力は私には払えないが、順序的に手塚が根源にあるとわかる。

手塚に反発する宮崎は、太宰に反発する三島のごとく、一枚剥がせば下僕のように忠実な後継者だから、困ったことにきっちり弱点を踏襲してしまった。そして決定的作品、
「千と千尋の神隠し」が生まれる。

「千と千尋の神隠し」解説【宮﨑駿】 


当時宮崎は司馬と親しかったはずだが、司馬がなんと言ったかは不明。私は司馬の監督不行き届きを攻めたいほどの気分である。

村上春樹も「ニーベルングの指環作品群」につらなりながら、どうも通貨発行に興味が薄いようである。村上龍は「経済も大事だ」と考えたまではよかったが、野菜先生なんぞに意見を聞いていたのでは、わかる資質があってもわからななくなるに決まっている。これは人選した編集者にも責任がある。庵野は「シン・ゴジラ」を見てもおそらく十分理解できていない。島田は問題外の蚊帳の外である。嘘だと思うならば「悪貨」なる小説、ドラマを見ていただきたい。最後まで我慢して鑑賞できたら、今日では勇者に分類されるほどの、それほどのレベルの低さである。

やはり手塚は巨大だった。日本コミック王朝の高祖というべき存在だった。文学者からアニメーターからまるごと影響をかぶっている。偉大すぎたのである。消化に時間がかかったのである。