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2020年6月24日水曜日

バルファキスと漱石

「黒い匣」の紹介をアップした。

https://matome.naver.jp/odai/2159288311869712401

著者の苦労が、読んでいるとわかる。
書くのに無茶苦茶苦労したはずである。
「こんなダメダメな連中、ひどい条件押し付けられて当然じゃないか」
と思われないようにする苦労である。これは相当しんどい。

アレクシス・チプラス内閣が内部グズグズの裏切り者集団だったとするならば、
バルファキスがいかにユーログループで好条件を勝ち取ったとしても、
一般の人々の生活はさして改善しない。
すぐに癒着が始まり、腐敗が進むだけだからである。

つまりバルファキスの努力は、バルファキスが書いたことが正しければ、
全部ムダなのである。
フリアラキスの悪口を書けば書くほど、彼は自分でそれを証明している。

では真面目に仕事ができる国はどこかと言えば、ドイツである。
最も貨幣問題に臆病で足引っ張りなドイツが、
いざとなったら最も誠実に状況を改善することができる。

日本もドイツと似たようなものだ。
未だに財政問題でヒスを起こす人々が居る。
よほど勉強がお嫌いなんだろうが、そういう人でもいざ仕事となれば、
とことん誠実に業務を進めてゆく。

(そういう人が貨幣問題を理解できるようになると、
仕事への誠実さは若干後退するのだろうか?
するような気もするし、しないような気もする。
そこは判断がつかない)

トロイカはギリシャに査察団を派遣して、
政治家、官僚をさんざん苦しめる。
業務が増えるのだから当然である。
ドイツ風にクソ真面目に追求してゆくのだろう。

バルファキスはそれをできるだけ阻止し、
ギリシャ官僚の植民地根性を払拭しようとする。
志としては正しい。

がしかし、ギリシャ官僚は元来相当腐っているのである。
トロイカがそれを改善したとは言い難いが、
トロイカの支配から脱出したからと言って改善が約束されているわけでもない。

トロイカにとってのギリシャは、夏目漱石にとっての松山に限りなく近い。
単なる呪うべき僻地である。
彼らは僻地に行っても、悪口を言って、暴力的に振る舞って、立ち去るだけだ。
しかし僻地が正しいとも、また思わない。
これはどちらが正しいか、未来永劫決着がつかない問題なのである。

2020年6月7日日曜日

入金とリスク、あるいは収入と労働の比例関係

コロナで何種類もの支援策が打ち出されている。




定額給付金は、手紙を返信する手間はあるが、ほぼ手間ナシで入金される。
入金は貸付ではなく贈与である。

持続化給付金はネットで申請をすればより多くの額が入金される。ただし書類をそろえる必要はある。インチキ申告でお金をもらうと罰則がある。

緊急小口資金等は、社会保険事務所まで出かける必要がある。ほぼ無条件で入金する。もっとも書類は何種類か必要である。その上貸付である。低利で返済期間も長いが、それでも貸付であるに変わりはない。借金をこさえたくない人は行かないだろう。

政策金融公庫等でも貸付が緩和されている。しかし金融機関の貸付なので審査はある。額は審査に通れば非常に大きい。無論返済義務はある。




表にしてみた。実は現在、申請給付(個人最大100万)と申請無条件貸付(個人最大80万)の額が逆になっている。貸付の最大額を増やすべきだろう。200~300万が妥当かと思う。


「額に汗する」という言葉がある。熱心に働くことを表す。世間の考えでは、労働量と収入は比例するのである。給付の場合には、本人の請け負うリスクと給付額が比例する。だからこの表のようになっている。


どうして定額給付金が必要か、なんとなくおわかりかと思う。国民一律に配られる定額給付金が存在するからこそ、困っている人への持続化給付金が「許される」のである。国民は平等に関してうるさい。どこかで国民共通の利得を導入しなければ、困窮者への支援にたいして「甘えるな」という反発が出る。一律である程度の銭を掴ませるからかこそ、困窮者への支援が可能になる。残念ながら、それが国民感情である。


という話を、BI(ベーシックインカム)およびJGP(就労保証)の議論に流用する。



つまり、BIもJGPも、両方必要なのである。今はコロナだからBI中心なのは皆納得していると思う。下手に働いて感染拡大は避けたい(3波までは覚悟しておく必要がある)。



コロナ後には、いわゆる公務員と生活保護の間が空く。それをJGPで埋めるのは大変良いことである。ただし、どれほど少額でもBIは必要になる。社会保障費等と相殺はよろしくない。登録した口座に確実に入金される、儀式のようなものがどうしても必要なのである。そのカネで、生活保護やJGPや公務員待遇改善への批判を、黙らせることができる。BIのような形で通貨発行権の行使を社会全体に認めさせる必要があるのである。

同時にJPGも「必要」である。「額に汗する」価値観に逆らわないために、BIがあるならばJGPも必要なのである。国家による勤労価値観の称揚である。引きこもりの人も、一日4時間程度、週3日程度から、徐々に労働に馴れ、社会に馴れてゆくことができるのだから。

BIもJGPも、単独で賛否を問うものではなく、全体の社会設計の中で考えるべきものである。
このような議論は本来社会学者や政治学者がしなければならないのだが、古市さんあたりに聞きに行っても意味ないので、とりあえず私がやってみた。

2020年5月5日火曜日

数字・簿記・文学

「神曲」解説【ダンテ・アリギエーリ】



週休二日さんから凄い読み解きが上がってきたので、まずはお読みいただきたい。じっくり読んで消化した上で戻ってきていただきたい。情報量が非常に多いので、「神曲」を軽くでも読んだことがない方は再読、三読くらいは必要だろう。画期的な読み解きである。


以下私なりの補助解説


1189年、十字軍が開始された。この後何度も繰り返される。ヨーロッパ世界のイスラム世界との接触が戦争によって増える。そしてフィボナッチという数学者が出現する。多くの人はフィボナッチ数列で名前で覚えられていると思うが、彼がイスラムの数学をヨーロッパに紹介する。イスラムの数字も紹介する。位取り法もはいっている。

それまでヨーロッパの数字は、ⅠⅡⅢⅣであった。やってられない。フィボナッチ以降は1234になる。当然計算能力は増大し、簿記会計能力も増大するから、つまり商業能力も増大する。
最初の複式簿記の記録は判然としない。1296年ごろという説がある。ダンテの在世中である。ダンテが生きた時代は、計算能力、簿記能力の革命の中だったのである。その社会で書かれ、強く支持された文学がどのような性質のものか、上記記事をご確認いただきたい。納得いただけるものと思う。

次に東アジア世界の年表と合わせて考えてみる


東アジア世界では、西洋のような数字、計算革命は見られない。
それ以前、例えば北宋は当時世界で最も科学技術の進歩した国だった。しかしモンゴル、明以降徐々に地位を落とし、日中戦争あたりが最低値になる。
日本も鎌倉仏教を宗教改革とするならば、ヨーロッパよりもむしろ先んじている。しかし数字、計算革命は見られず、文学の大きな進歩も見られない。
エマニュエル・トッド式に「日本は世界の先端から遅れたことがない」と表現するのは、識字率という点では当たっているし、そこだけで見るならむしろ日本のほうが優れている。高等数学も和算の関和孝が、ニュートンとほぼ同時期に微分積分発見したとかの例もある。しかし社会全体としては会計能力が劣っていることを、ここ30年で我々自身で証明してしまった。それに対する文学系からの正当な批判はほぼゼロだったし、反省も今の所全く聞こえてこない。

ダンテ「神曲」は西洋近代文学の根源とも言える作品である。その中にはフェボナッチからの数学の組み込みが大量に含まれていた。だとするならば、その後の作品もそれを継承するはずである。「ヴェニスの商人」が資本主義を扱い、「ファウスト」「ニーベルングの指環」が通貨発行を扱うのも当然なのである。大きく言えば「ニーベルングの指環作品群」は、「神曲作品群」の末端と呼んでさしつかえない。「神曲」からはじまった巨大な「数字、文字複合文化」の末端を、そうと知らず我々は鑑賞していたのである。