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2021年8月8日日曜日

Tactical Camera

 Tactical Cameraというものがある。2018のサッカーワードカップ直後には、ほとんどの試合の、このカメラ映像を閲覧できた。おもしろくてかなり見た。





遠いカメラだから細かい選手のテクニックはもちろん見えない。もっともサッカーわからない私には、細かいテクニックはどうでもよい。アップにしてもらってもどうせわからないのである。

Tactical Cameraのよいところは、細かい情報全くナシ、陣形だけをひたすら見続けるところにある。各国の陣形扱い方上手い下手が、段々わかってくる。


日本は実は、(2018WCでは)非常によかった。相手ディフェンダーがボールを回す。右サイドにボールが渡れば、日本代表は全体が右に平行移動する。その際に前と後ろ、右と左でどうしてもタイムラグが生じる。前は、ボールに近い位置にいるから相手のボール移動に敏感に反応し、ボールから遠いディフェンダーはどうしても反応が遅れる。しかし日本代表は、そのタイムラグを2018の時点で最低限に抑え込んでいた。全体の陣形が最もきれいに平行移動してゆくチームだった。すごく賢く見えた。


もっとも攻撃の偏差値はさほどではなかった。マイボールになった瞬間に、ほとんどのチームは両サイドがフィールドギリギリまで開く。日本も開くのだが、その速度は遅かった。「幅を取る」というらしいのだが、これ以上の戦術的話はわからない。ただとにかく、攻撃は少々モタつくという印象だった。


防御の際の陣形の平行移動、つまりマスゲームの一種だが、これは選手たちの数値計算能力にだいたい比例するはずである。日本は非常に高いと思われる。攻撃の際にすみやかに幅を取る作業、これは選手たちの「ゲーム文脈理解力」にだいたい比例すると思われるが、この点には改善の余地があるのだろう。伝統が浅いから仕方がない面もあるだろうが。


ともかく、2018WCはベスト16で終わったが、実際にベルギーは強く、ブラジルさえも破った。ベルギーが負けたチームはフランスしか存在せず、フランスは優勝チームだから、実は日本は優勝まであと一歩のところまで来ていると思う。もっとも、運が良ければ優勝できるレベルで、絶対的に強いわけではない。でも十分成長していることは確実である。今回のオリンピックでも、ディフェンスの陣形の綺麗さだけでいえば、ずば抜けて一位だった。個々の技術でも集団戦闘でも改善の余地はある。しかしスペインの監督が認めたのはおそらく、ディフェンス陣形の見事さだったはずで、そこは素質的に自信を持って良いと思う。


話を2018に戻す。日本の守備がうまく、攻撃が今ひとつなのは分かったから、それを基準に各国の動きをTactical Camera映像で観察した。この視点で最も優れた国は、すば抜けてイングランドだった。守備は無論組織的、しかし攻撃に移った瞬間に陣形が自由自在に変化する。凄いと思った。連中があれほど不器用なのにかなり勝てるのは、この柔軟で優秀な戦術能力にあると思った。


日本を破ったベルギーもよかった。メキシコは頑張っているが、印象としては数値計算能力が低く感じた。選手間距離の目測が妙に濁っている感触会った。クロアチアは攻守ともまんべなくよかった。フランスはディフェンシブすぎて評価できない。評価が低いのではなく、私には良し悪しの判断がつかなかった。


ではどこの国が悪かったか。間違いなくブラジルだった。守備も攻撃も、真面目に陣形考える気力そのものが欠落していた。この戦術的不真面目さであれだけ勝てるのだから、個々の選手はよっぽど上手いのだ。


今回オリンピックでブラジル代表を観察していなかった。昨日決勝戦ではじめてブラジル代表を見た。守備の陣形は、なんと驚いたことに、そこそこ整っていた。日本代表守備陣が一番やる気が無い時より、少し乱れているくらいのレベルだった。それくらい陣形努力すれば、優勝できてしまう。もっとも連中にしてみれば、守備陣系の整理を死ぬほど努力した、という認識なのかもしれないが。


以上あくまで素人感想である。

2021年8月7日土曜日

集団戦闘

 https://hochi.news/articles/20210806-OHT1T51241.html

「個人個人でみれば別にやられるシーンというのはない。でも、2対2や3対3になるときに相手はパワーアップする。でも、自分たちは変わらない。コンビネーションという一言で終わるのか、文化なのかそれはわからないが、やっぱりサッカーを知らなすぎるというか。僕らが。彼らはサッカーを知っているけど、僕らは1対1をし続けている。そこが大きな差なのかな」


だいたいフランスワールドカップ(1998)の反省で「日本人はデュエルに弱すぎる」とされてからの流れである。ようやくデュエル問題は克服されたと考えて良い。ブラジルほどには強くなくても、十分実用レベルである。だから3対3を問題にすることが可能になった。進歩しているのである。

さて
一対一は「戦闘」である。
11対11は「戦術」である。



では3対3は。「集団戦闘」と呼ぶのが正しいと思われる。局面の戦いなのだからあくまで戦闘である。しかし集団である。当面日本サッカーは「集団戦闘」能力を高める方向で努力すると思われる。それを「戦術」と言ってしまうと、こんどは陣形研究に支障をきたす。言葉遣いは重要である。

私はサッカーができるわけでも、熱心なファンでもないが、言葉遣いのみ、整理の必要を感じたので書いた。

2021年5月30日日曜日

責任の処理方法の考察・7

 再現性のない知識集団では、知識の妥当性よりも世間が優先されると前回書いた。

つまり再現性のない分野の研究者の集合は、

再現性のない分野の研究者単独よりも、確実に愚かになる。

「三人集まらなければ文殊の知恵」である。


この20年の経済学者の不始末の最大の原因はここにあるだろう。集まって世間を作ったがゆえに、最も愚かしい判断に加担してしまった。集まらなければ良い判断ができた可能性もある。


困ったことに、人間は一人よりも集団のほうが確実に強い。

集団になると愚かになる。しかし集団のほうが強い。だから経済学者たちは愚かな政策を強く推進してしまった。となるとこの20年の経済政策に関して、改善策がないということになる。


現在主流派のうち多くはMMTから目をそむけている。徐々認知する方向にゆくのだろうし、「闇のプリンス」サマーズが没落すれば大勢は決すると思われる。敗北した経済学者たちは再編されて、紆余曲折のもと新しい集団が形成される。その新しい集団は、前の集団と同じく「世間」にまみれたものになる。そしてふたたび前の集団と同じく凡庸化が進行し、同じように愚劣化し、同じように日本にとってのガンになる。


「しかし似たようなことは西洋でも起きるではないか」

起きると思う。そういう世間圧力による凡庸化から逃れられる人間集団は考えにくい。しかし日本の場合はその頻度がおそらく高い。日本文化が、人々の距離を近づけ、繊細な表現で感情を共有するのに適した文化だからである。そのような文化の特徴はメリットになることもあるが、少なくとも再現性がない分野での凡庸化は促進させてしまうデメリットはある。


となると、実は責任は経済学者にあるのではなく、日本社会にあるのではないか。


この点について以前少し考察した。


https://note.com/fufufufujitani/n/n49fd6b79b5a9


経済学者が「自由に」考えることを、日本社会は許容しない。すくなくとも、多くの経済学者は許容しない。自分が自由に考えていないからである。

財務省系の学者は、判で押したように、「消費税以上に社会保障費の上昇がまずい」と盛んに言い募る。言えば云うほど消費税のまずさが際立つのだが、どうも気づいていないようである。これまた自由がない。学者で発言の自由がないということは、事実上学者ではないということなのだが、それでも世間的にはそう通っていて、実をいうとどの程度民衆をいじめ倒すか、その塩梅については自由がある。ムチは絶対に振るわなければならない。振る回数は個人の自由である。