作品を読むには、細部の検討まもちろんだが、全体のフレームを読む必要がある。ところが高校の現代国語で扱うのが全体のフレーム、構成ではなく、この言葉がどこにかかるか、みたいな細部ばかりである。そして、全体が読めない人間が大量生産され、自国の文学さえ楽しめなくなる。これはもはや、犯罪である。元来文芸が発達いた国である。国語が得意だろうが苦手だろうが、文学作品くらいだれでも楽しめるはずである。でも楽しめない人が多い。現代国語に毒されているのである。
「鏡子の家」という作品が三島にある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8F%A1%E5%AD%90%E3%81%AE%E5%AE%B6
に解釈が色々載っている。かなりひどい。
最後に七匹の犬をつれて主人が戻る。七匹の犬とは北斗七星である。北斗七星は北極星を守る存在である。北極星の中国名は天皇星である。つまり不在だった主人は天皇である。それが、この作品の理解の第一歩である。
「音楽」という作品もある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%B3%E6%A5%BD_%28%E5%B0%8F%E8%AA%AC%29
麗子の兄との近親相姦。これはアダムとイブの近親相姦を下敷きにしている。その麗子が兄の子を抱いて、聖母マリアのような顔になる。つまりこれは、旧約聖書創世記と、新約聖書をドッキングさせた作品なのである。間のショートカットが大胆だが、三島なりにキリスト教世界を日本の日常に翻案した作品である。
物語とは、主語と述語の順列組み合わせではない。物語は過去に存在し、発展しながら現在まで生き残った人類文化である。ある程度以上の見識を持った文学者は、かならず過去の作品に取り組み、吸収し、解体し、再構築し、読者に届ける。
作品全体の構成から見れば、この物語の進化の樹形図と、その図の上における位置が明快に見える。それを手がかりに、細部を読み解いてゆくのが正しい読み解きである。
「豊饒の海」は上記2作品より手がかかっている。それだけ読み解きには手がかかったが、これは別に特殊技能ではない。手間さえ厭わなければ、だれでも読み解けるし、理解して楽しむことができる。それが多く人々に広がれば、日本文化はもっと良くなるだろうに、「現代国語」が邪魔しているように、私には思える。
ページ
2016年4月20日水曜日
2016年4月19日火曜日
「豊饒の海」追記11
「豊饒の海」のくだらなさ
というページにあるように、「豊饒の海」最大の弱点は、第四巻「天人五衰」にある。美しい恋愛も、血沸き肉踊るテロもない。ようするに三島は、ニュートラルになってしまった戦後日本の成れの果てを描こうとしたわけだから、ここを面白くするわけにはいかない。面白いと整合が取れないのである。私も大変退屈した。
しかし実際には、江戸時代の太平も、この「天人五衰」以上になんにもない時代だったわけで、それでも今日江戸時代を顧みれば、文化の発展は十分にあり、興味深い時代である。同時代の清朝、ムガール、下手をすれば大英帝国の住民よりも、一般庶民の生活としては恵まれていたのではないか。
ドナルド・キーンが「幕末の時点で、日本の庶民のほうがイギリスより豊かです。服を数着もっていましたから」と言っているのを読んだことがある。もともとさのみ戦乱がなく、平和で豊かな土地なのである。それでも三島が戦後日本のテンションの低さにあせったのは、三島の戦争体験ヒエラルキーの低さによる。
S級:石原莞爾、坂井三郎などの英雄
かれらは太平洋戦争でのバラモンである。「東條の馬鹿が戦争指導したんだから、そりゃ負けるだろう。東條とやって負けないほうが難しいわ」と、石原は思っていたはずです。「俺くらいの天才が20人位いれば、負けてなかったな。しかしなかなか存在しないから天才なわけで、しょうがないな」と坂井は思っていたはずである。ようするに、彼ら個人の中では全然負けていない。全然堪えていない。
A級:Sよりは下の存在である。会田雄次などの実戦経験あり、しかし敗北した人である。砲弾をかいくぐった。上手くゆきそうなときもあった。でも負けた。もう少し装備が良ければ、という気もしている。手応えがあった時もあった。かれらは、そんなに自信を喪失していない。負けて悔しいが、苦しいが、出来た部分があったのが救いである。
B級:司馬遼太郎、山本七平などの、実戦経験ナシ、そのまま帰ってきた組。だいたいそんなに敵には遭遇しないのである。兵隊の6割は戦病死、餓死である。それが前回の戦争の実情である。準備だけして、敵に遭遇せず、そのまま負けたのだからフラストレーションは最大である。生涯悶絶して太平洋戦争を思い出す人々である。大変である。
C級:三島由紀夫など、そもそも徴兵検査に合格しなかった組である。昔の都会人と田舎人は、体力が全く違う。田舎だと「軍隊はなにも苦労のないところだった」。都会人だと「軍隊は地獄だった」となる。それくらい昔の田舎の生活は、労働過多、栄養不足だった。三島のような文弱は、採用しても無駄だから合格しない。三島は喜んで帰郷したそうである。しかし、のちのち生き残った自分に罪の意識を持つ。
しかし、これでさえ最下級ではない。
D級:黒澤明が、この疑いを持たれている。徴兵逃れをしたのではないかと言われている。
しかし世界的名声という意味では、D級が最大、C級がつぎ、S、A、B級は日本人しか知らないだろう。そういう意味では国家に貢献しているとも言える。
三島はテンションが高い。しかし最もテンションが高いのは黒澤である。今日の視点から見れば、彼らが従軍しなくてよかったなと思う。従軍してたらもっとテンション低くなったろう。
「豊饒の海」作中、新河男爵という人物が登場する。河の流れが人物になっているのだから、だんだん流れが緩くなる。諧謔が鈍くなる。その果て、河が終わったところから始まるのが、「天人五衰」である。大汗かいて努力して、三島はわざわざ面白くない小説を書いたのである。と背景がわかってさえやはり面白く読めないのだから、これは三島の能力をたたえるべきか、たたえないべきか、私にもよくわからない。
というページにあるように、「豊饒の海」最大の弱点は、第四巻「天人五衰」にある。美しい恋愛も、血沸き肉踊るテロもない。ようするに三島は、ニュートラルになってしまった戦後日本の成れの果てを描こうとしたわけだから、ここを面白くするわけにはいかない。面白いと整合が取れないのである。私も大変退屈した。
しかし実際には、江戸時代の太平も、この「天人五衰」以上になんにもない時代だったわけで、それでも今日江戸時代を顧みれば、文化の発展は十分にあり、興味深い時代である。同時代の清朝、ムガール、下手をすれば大英帝国の住民よりも、一般庶民の生活としては恵まれていたのではないか。
ドナルド・キーンが「幕末の時点で、日本の庶民のほうがイギリスより豊かです。服を数着もっていましたから」と言っているのを読んだことがある。もともとさのみ戦乱がなく、平和で豊かな土地なのである。それでも三島が戦後日本のテンションの低さにあせったのは、三島の戦争体験ヒエラルキーの低さによる。
S級:石原莞爾、坂井三郎などの英雄
かれらは太平洋戦争でのバラモンである。「東條の馬鹿が戦争指導したんだから、そりゃ負けるだろう。東條とやって負けないほうが難しいわ」と、石原は思っていたはずです。「俺くらいの天才が20人位いれば、負けてなかったな。しかしなかなか存在しないから天才なわけで、しょうがないな」と坂井は思っていたはずである。ようするに、彼ら個人の中では全然負けていない。全然堪えていない。
A級:Sよりは下の存在である。会田雄次などの実戦経験あり、しかし敗北した人である。砲弾をかいくぐった。上手くゆきそうなときもあった。でも負けた。もう少し装備が良ければ、という気もしている。手応えがあった時もあった。かれらは、そんなに自信を喪失していない。負けて悔しいが、苦しいが、出来た部分があったのが救いである。
B級:司馬遼太郎、山本七平などの、実戦経験ナシ、そのまま帰ってきた組。だいたいそんなに敵には遭遇しないのである。兵隊の6割は戦病死、餓死である。それが前回の戦争の実情である。準備だけして、敵に遭遇せず、そのまま負けたのだからフラストレーションは最大である。生涯悶絶して太平洋戦争を思い出す人々である。大変である。
C級:三島由紀夫など、そもそも徴兵検査に合格しなかった組である。昔の都会人と田舎人は、体力が全く違う。田舎だと「軍隊はなにも苦労のないところだった」。都会人だと「軍隊は地獄だった」となる。それくらい昔の田舎の生活は、労働過多、栄養不足だった。三島のような文弱は、採用しても無駄だから合格しない。三島は喜んで帰郷したそうである。しかし、のちのち生き残った自分に罪の意識を持つ。
しかし、これでさえ最下級ではない。
D級:黒澤明が、この疑いを持たれている。徴兵逃れをしたのではないかと言われている。
しかし世界的名声という意味では、D級が最大、C級がつぎ、S、A、B級は日本人しか知らないだろう。そういう意味では国家に貢献しているとも言える。
三島はテンションが高い。しかし最もテンションが高いのは黒澤である。今日の視点から見れば、彼らが従軍しなくてよかったなと思う。従軍してたらもっとテンション低くなったろう。
「豊饒の海」作中、新河男爵という人物が登場する。河の流れが人物になっているのだから、だんだん流れが緩くなる。諧謔が鈍くなる。その果て、河が終わったところから始まるのが、「天人五衰」である。大汗かいて努力して、三島はわざわざ面白くない小説を書いたのである。と背景がわかってさえやはり面白く読めないのだから、これは三島の能力をたたえるべきか、たたえないべきか、私にもよくわからない。
2016年4月18日月曜日
「豊饒の海」追記10
第二巻「奔馬」で佐和という名前の中年男が出てくる。佐和とはすなわち沢という意味である。つまり水族である。飯沼勲に大変大きな影響を与える。危険な右翼である。
そして第四巻「天人五衰」に古沢という大学生が出てくる。安永の家庭教師である。安永に左翼革命思想を吹き込む。安永が本多に告げ口したものだから、古沢は首になる。
どうして本多は古沢を首にしたのか。それは「奔馬」の時とは本多の状態が変わったからである。奔馬の時は本多は、貧乏ではなかったが金持ちでもなかった。「天人五衰」では彼は、大金持ちになっているのである。だから安永が革命思想に目覚めると、殺されるのは自分である。だから革命思想を吹き込む古沢を、首にしなければならなかった。
もっとも、そんなことをしてもやっぱり安永は本多を潰してしまおうとするのであり、結局本多の思い通りにはならない。というより、よりいっそう質が悪くなる。飯沼は弱い者いじめをするようなキャラではなかったが、安永は百子をいじり倒し、本多を鉄の棒で殴る。目的を失ったエネルギーの劣悪さが描かれている。
これは、三島が戦後左翼に抱いた感想そのものである、と同時にヴォータンとジークフリートの関係を、上手に模写している。ヴォータンは自分の孫であるジークフリーに、権力の象徴である槍をおられて、すごすご逃げ帰る。そして結局ヴォータンの野望はジークフリートの死によって完全に潰え、本多の野望も安永の失明によって完全に潰える。金を追求しても、最後はヴォータン、本多のようになるのである。
「日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう。それでもいいと思っている人たちと、私は口をきく気にもなれなくなっているのである。」
三島由紀夫の言葉である。もっとも三島は、日本を信じる気持ちが少々小さい。自信ががなさすぎる。
「ねえ、つくる、ひとつだけ覚えておいて。君は色彩をかいてなんかいない。(中略)君はどこまでも立派な、カラフルな多崎つくる君だよ。そして素敵な駅を作り続けている」
日本は大きさの割に海岸線が長い、多崎な国である。そしてものづくりが好きだ。そして鉄道は最も発達している国である。村上春樹のこの言葉は、三島に優しく語りかけているように、私には思える。
「大丈夫、大丈夫、大丈夫だったでしょう? 全然ニュートラルでも、中間色でもないでしょう? レイプ狂といういわれなき誹謗も晴れました。みんなわかってくれています」
多崎つくるは高校時代、仲良し5人組の一人だった。ちなみに、満州国のスローガンは、「五族共和」である。そんな本がベストセラーになるのだから、三島も草葉の陰で、安堵していると思う。
書いててやや感情的になってきた。以下も感情的である。
「魔法少女まどかマギカ」を見終わって、「ああ、この作品を太宰、安吾に見せてやりたい」と思った。彼らが取り組んだ西洋文明と日本という問題を、現代のアニメで、いともやすやすと表現出来ている。脚本も優れているし、ついている音楽は劇付随音楽としてはワーグナー以来の出来である。(個人的には、ロータもマンシーニも武満も久石も、まどかの音楽にかなわないと思う)。連中は酒と麻薬と覚醒剤で、ドロドロになりながら書いて、死んでいった。その努力は無駄にならなかった。きっちり後をつぐ人が出ている。
三島もしかり。渾身で書いた作品を、きっちり読んで理解してくれる後継者が居る。後継者は、三島以上に世界的に売れている。素晴らしいことである。
「今の日本文学は」とか、「そもそも日本文化には」とか、文句を垂れる連中は大勢居る。ふざけるんじゃない。読めもしないくせに大きい顔して文句を垂れるな。村上春樹もいれば、村上龍も、少し世代は上だが筒井康隆も居る。若い人で才能あるのは、もっと沢山居るだろう(私は詳しくないが)。奇跡の国の奇跡の時代に生きて、感謝の気持ちが持てないのなら、始めっから小説なんぞ読まなきゃいい。
そして第四巻「天人五衰」に古沢という大学生が出てくる。安永の家庭教師である。安永に左翼革命思想を吹き込む。安永が本多に告げ口したものだから、古沢は首になる。
どうして本多は古沢を首にしたのか。それは「奔馬」の時とは本多の状態が変わったからである。奔馬の時は本多は、貧乏ではなかったが金持ちでもなかった。「天人五衰」では彼は、大金持ちになっているのである。だから安永が革命思想に目覚めると、殺されるのは自分である。だから革命思想を吹き込む古沢を、首にしなければならなかった。
もっとも、そんなことをしてもやっぱり安永は本多を潰してしまおうとするのであり、結局本多の思い通りにはならない。というより、よりいっそう質が悪くなる。飯沼は弱い者いじめをするようなキャラではなかったが、安永は百子をいじり倒し、本多を鉄の棒で殴る。目的を失ったエネルギーの劣悪さが描かれている。
これは、三島が戦後左翼に抱いた感想そのものである、と同時にヴォータンとジークフリートの関係を、上手に模写している。ヴォータンは自分の孫であるジークフリーに、権力の象徴である槍をおられて、すごすご逃げ帰る。そして結局ヴォータンの野望はジークフリートの死によって完全に潰え、本多の野望も安永の失明によって完全に潰える。金を追求しても、最後はヴォータン、本多のようになるのである。
「日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう。それでもいいと思っている人たちと、私は口をきく気にもなれなくなっているのである。」
三島由紀夫の言葉である。もっとも三島は、日本を信じる気持ちが少々小さい。自信ががなさすぎる。
「ねえ、つくる、ひとつだけ覚えておいて。君は色彩をかいてなんかいない。(中略)君はどこまでも立派な、カラフルな多崎つくる君だよ。そして素敵な駅を作り続けている」
日本は大きさの割に海岸線が長い、多崎な国である。そしてものづくりが好きだ。そして鉄道は最も発達している国である。村上春樹のこの言葉は、三島に優しく語りかけているように、私には思える。
「大丈夫、大丈夫、大丈夫だったでしょう? 全然ニュートラルでも、中間色でもないでしょう? レイプ狂といういわれなき誹謗も晴れました。みんなわかってくれています」
多崎つくるは高校時代、仲良し5人組の一人だった。ちなみに、満州国のスローガンは、「五族共和」である。そんな本がベストセラーになるのだから、三島も草葉の陰で、安堵していると思う。
書いててやや感情的になってきた。以下も感情的である。
「魔法少女まどかマギカ」を見終わって、「ああ、この作品を太宰、安吾に見せてやりたい」と思った。彼らが取り組んだ西洋文明と日本という問題を、現代のアニメで、いともやすやすと表現出来ている。脚本も優れているし、ついている音楽は劇付随音楽としてはワーグナー以来の出来である。(個人的には、ロータもマンシーニも武満も久石も、まどかの音楽にかなわないと思う)。連中は酒と麻薬と覚醒剤で、ドロドロになりながら書いて、死んでいった。その努力は無駄にならなかった。きっちり後をつぐ人が出ている。
三島もしかり。渾身で書いた作品を、きっちり読んで理解してくれる後継者が居る。後継者は、三島以上に世界的に売れている。素晴らしいことである。
「今の日本文学は」とか、「そもそも日本文化には」とか、文句を垂れる連中は大勢居る。ふざけるんじゃない。読めもしないくせに大きい顔して文句を垂れるな。村上春樹もいれば、村上龍も、少し世代は上だが筒井康隆も居る。若い人で才能あるのは、もっと沢山居るだろう(私は詳しくないが)。奇跡の国の奇跡の時代に生きて、感謝の気持ちが持てないのなら、始めっから小説なんぞ読まなきゃいい。
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