大量の人間が、
昨日の浅田真央の演技に泣いたようである。
才能はピカ一。
安定感は無い。
タイトルは取れない。
失敗するときは大失敗。
成功するときは大成功。
そして最も重要なことは、
なにも考えないこと。
本人はあれこれ考えているつもりかもしれないが、
客観的に見れば、なにも考えていない。
日本社会はそれなりに人間関係疲れる社会だと思うが、
そんななかで浅田のような、なにも考えないキャラが出現すると、
素直に感情移入できて楽しめるようだ。
どうもみなさんの泣き方が、
オグリキャップのラストランの泣き方に近い。
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2014年2月21日金曜日
2014年1月29日水曜日
風立ちぬ・解説23
ヨハネの黙示録の簡単な説明
「風立ちぬ」でも「コミック版ナウシカ」でも、
宮崎駿はヨハネの黙示録を取り上げている。
聖書の中で、非キリスト教徒にとってもっとも問題のある文章は、
「ヨハネの黙示録」だからだ。
以下私の理解できている範囲内での解説。
イエス自身の考えは措いておく。
ローマ帝国がキリスト教を国教にしたのは、
1、ひとつの宗教で国家をまとめるため
2、強力な中近東文化に対抗するため
の2点の理由からである。
今日ローマが世界の中心であったかのような錯覚を持つのは、
歴史を西洋人が書いているからで、
モンゴル帝国まで、下手をすると産業革命までは、
人類の歴史の中心は中近東であった。
文化程度もずば抜けていた。
それに対抗するために、
ローマはキリスト教を国家の中心にすえた。
逆にいえばそのために、
キリスト教の「正典」を選ばなければならなかった。
初期キリスト教では、仏教で慢性的にそのような状況であったのおなじく、
多種多様な経典がやたらめったら製造されていた。
なかにはキリスト教とは名ばかりのものもあった。
ローマ帝国では、二ケア会議などの公会議を開いて、それらを分別して、
これぞキリスト教の本来の文章である、という決定をした。
仏教ではこういう決定をしていない。
なぜキリスト教では決定しなければならなかったというと、
最初から政治的要求にもとづく布教だったからである。
帝国内の各地方でまちまちの教義を信奉していたのでは、
国内はまとまらないし、
国外への対抗力も持ち得ない。
だから正統的テキストをまとめて、
従わないものは国外追放にした。
(そのうち一派は流れ流れて中国まで来たほどである)
しかし、ここで冷静に考えると、
いくらテキストをまとめて統一性を持たせても、
イエスの言行録、弟子の手紙や言行録では、
外部の敵に対して戦闘意欲は沸かないのである。
ペルシャ人に右頬を叩かれたら、左頬を差し出すのか。
ローマ帝国崩壊は必定ではないか。
本来外的に対抗するためにテキスト分別をしているのに、
採択されたテキストは品がよすぎるものばかり、
これではかえってまずいのではないか。
それで、公会議のメンバーたちは、
言行録の末尾に、
戦闘意欲を掻き立てるテキストを忍び込ませて新約聖書とした。
そのテキストが「ヨハネの黙示録」である。
この文章、はっきり言って新約聖書全体の中で浮きまくっている。
それまでの文章と全然関係が無い。
古今和歌集を読んでいたら、突然
「ラピュタは天空の城であり、かつて恐怖で地球を支配していた」と始まるような、
だいたいそんな感じである。
内容は一言で言うと、
「最終的に私たちは勝つ、そして敵は全部死ぬ」
である。
下品なこと極まりない。
おそらくまじめな公会議出席者たちにとっては、
この文章採択は苦渋の決断だったであろう。
背後にはローマ皇帝の強い影響力があったであろう。
というわけで、
かなり大人な事情で新約聖書に入れてもらえた文章なのだが、
明快に未来のビジョンを示す文章はこれしかないのだから、
どうしても影響力を持ってしまう。
宮崎の批判は正しいし、
キリスト教文化圏でも、普通に批判されている。
非クリスチャンの私としては、
新約聖書から削除していただけると、大変安心できる文章である。
ローマ法王さま、是非決断いただけないだろうかという意図を宮崎監督がもっているかどうかまでは、
定かではない。
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「風立ちぬ」でも「コミック版ナウシカ」でも、
宮崎駿はヨハネの黙示録を取り上げている。
聖書の中で、非キリスト教徒にとってもっとも問題のある文章は、
「ヨハネの黙示録」だからだ。
以下私の理解できている範囲内での解説。
イエス自身の考えは措いておく。
ローマ帝国がキリスト教を国教にしたのは、
1、ひとつの宗教で国家をまとめるため
2、強力な中近東文化に対抗するため
の2点の理由からである。
今日ローマが世界の中心であったかのような錯覚を持つのは、
歴史を西洋人が書いているからで、
モンゴル帝国まで、下手をすると産業革命までは、
人類の歴史の中心は中近東であった。
文化程度もずば抜けていた。
それに対抗するために、
ローマはキリスト教を国家の中心にすえた。
逆にいえばそのために、
キリスト教の「正典」を選ばなければならなかった。
初期キリスト教では、仏教で慢性的にそのような状況であったのおなじく、
多種多様な経典がやたらめったら製造されていた。
なかにはキリスト教とは名ばかりのものもあった。
ローマ帝国では、二ケア会議などの公会議を開いて、それらを分別して、
これぞキリスト教の本来の文章である、という決定をした。
仏教ではこういう決定をしていない。
なぜキリスト教では決定しなければならなかったというと、
最初から政治的要求にもとづく布教だったからである。
帝国内の各地方でまちまちの教義を信奉していたのでは、
国内はまとまらないし、
国外への対抗力も持ち得ない。
だから正統的テキストをまとめて、
従わないものは国外追放にした。
(そのうち一派は流れ流れて中国まで来たほどである)
しかし、ここで冷静に考えると、
いくらテキストをまとめて統一性を持たせても、
イエスの言行録、弟子の手紙や言行録では、
外部の敵に対して戦闘意欲は沸かないのである。
ペルシャ人に右頬を叩かれたら、左頬を差し出すのか。
ローマ帝国崩壊は必定ではないか。
本来外的に対抗するためにテキスト分別をしているのに、
採択されたテキストは品がよすぎるものばかり、
これではかえってまずいのではないか。
それで、公会議のメンバーたちは、
言行録の末尾に、
戦闘意欲を掻き立てるテキストを忍び込ませて新約聖書とした。
そのテキストが「ヨハネの黙示録」である。
この文章、はっきり言って新約聖書全体の中で浮きまくっている。
それまでの文章と全然関係が無い。
古今和歌集を読んでいたら、突然
「ラピュタは天空の城であり、かつて恐怖で地球を支配していた」と始まるような、
だいたいそんな感じである。
内容は一言で言うと、
「最終的に私たちは勝つ、そして敵は全部死ぬ」
である。
下品なこと極まりない。
おそらくまじめな公会議出席者たちにとっては、
この文章採択は苦渋の決断だったであろう。
背後にはローマ皇帝の強い影響力があったであろう。
というわけで、
かなり大人な事情で新約聖書に入れてもらえた文章なのだが、
明快に未来のビジョンを示す文章はこれしかないのだから、
どうしても影響力を持ってしまう。
宮崎の批判は正しいし、
キリスト教文化圏でも、普通に批判されている。
非クリスチャンの私としては、
新約聖書から削除していただけると、大変安心できる文章である。
ローマ法王さま、是非決断いただけないだろうかという意図を宮崎監督がもっているかどうかまでは、
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2014年1月27日月曜日
パウロ神学と日本アニメ
おそらくイエスという人物が実際にやりたかったのは、
ユダヤ教改革と、ユダヤの王政復古であろう。
しかし死後弟子たちが、
「イエスの生涯には別の意味がある」と主張しだした。
今日のキリスト教はその主張を基に組み立てられている。
いわく、
「アダムとイブはエデンの園で蛇にそそのかされて知恵の実を食べた。
彼らは知恵をつけるとともに、性に目覚めた。
これが人間の「原罪」である。
イエスが地上に降臨したのは、
人間をこの「原罪」から救うためである」
この教義から以下の考えが導き出される
1、性をしらぬ子供は汚れなき存在である
2、性に目覚めた大人は原罪を背負った罪深い存在である
3、子供と大人は性の点で完全に二分される
ここでもしも
大人と子供には完全な区別がなく、
大人も子供のような格好をしてよい、となったらどうなるか。
キリスト教神学が成立しなくなってしまう。
日本アニメがやっているのは、まさにこのことである。
キリスト教は「原罪」つまり性の目覚めを前提として教義を組み立てているから、
大人と子供を峻別しなければならない宿命にある。
したがって、大人向けの「かわいい」コンテンツを製造することができない。
西洋文化の弱点とも言いうるし、
日本にとって大きな市場とも言えるだろう。
ジャパンはクールであるべきではなく、
かわいくあるべきなのである。
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ユダヤ教改革と、ユダヤの王政復古であろう。
しかし死後弟子たちが、
「イエスの生涯には別の意味がある」と主張しだした。
今日のキリスト教はその主張を基に組み立てられている。
いわく、
「アダムとイブはエデンの園で蛇にそそのかされて知恵の実を食べた。
彼らは知恵をつけるとともに、性に目覚めた。
これが人間の「原罪」である。
イエスが地上に降臨したのは、
人間をこの「原罪」から救うためである」
この教義から以下の考えが導き出される
1、性をしらぬ子供は汚れなき存在である
2、性に目覚めた大人は原罪を背負った罪深い存在である
3、子供と大人は性の点で完全に二分される
ここでもしも
大人と子供には完全な区別がなく、
大人も子供のような格好をしてよい、となったらどうなるか。
キリスト教神学が成立しなくなってしまう。
日本アニメがやっているのは、まさにこのことである。
キリスト教は「原罪」つまり性の目覚めを前提として教義を組み立てているから、
大人と子供を峻別しなければならない宿命にある。
したがって、大人向けの「かわいい」コンテンツを製造することができない。
西洋文化の弱点とも言いうるし、
日本にとって大きな市場とも言えるだろう。
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