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2014年4月4日金曜日

タイ雑感2

今回の赤と黄色の争いは、
とりあえず赤が勝ちそうである。
ざっくり言えば、赤は民主派、黄色は王党派である。

タイの現国王は大変なカリスマで、
実際に物凄い名君なのだが、
国王の威信を宣伝したのはアメリカだ、
国王のカリスマはアメリカが作った、という説がある。

前代の王は第二次大戦後に謎の死を遂げて、
(実行犯は辻政信、という説もある)
若くして即位した。
その後政務に励んで、タイを良い国にしたのは事実だが、
それを大きく喧伝したのはアメリカCIAというのがもっぱらの噂である。
アメリカの東南アジアにおける影響力保持の為らしい。

日本の天皇家が戦前そうであったように、
タイ王室も結構な財閥で、
有象無象がまとわりついている。
それらが色々悪さをするのだが、
国王陛下お一人では無論、
悪人退治の手が廻らない。

そこへ登場したのがタクシンである。
ホリエモンが
「タイのタクシンは田中角栄に似ている」と言ったが、
これは全くそのとおり。
政策実行能力は、大変高い。
それで選挙には強さを誇ったが、結局司法にやられる。
ロッキードパートⅡであった。
タクシンは結局国を追われて、タイに帰ってこれなくなった。

ロッキードパートⅡ以降は赤と黄色がくんずほずれずしながら、
今までタイを運営してきたのだが、
最近、黄色が弱まり過ぎた。
選挙で弱い、というより絶対に勝ち目がなくなった。
勢力挽回のチャンスがほとんどなくなった。

こんなときの定番はクーデターであるが、
国王陛下ご病気の最中では、
クーデターの後事態を収拾出来る人が存在しない。
ということはクーデターをやりづらい。

(日本とは、クーデターという言葉のニュアンスがかなり違うのである。
数年前まで、タイのクーデーターはほぼ日本の総選挙くらいの軽いイベントで、
クーデター慣れしすぎて半日くらいで全てが完了していたくらいである。
但し、それも事後の国王陛下の収集があってのことである。
国王の偉大さはこのことからも了解できる)

方策のなくなった黄色は、とりあえずデモをするのだが、
デモの主張は最悪なことに、「選挙で代表を選ぶな」というものだった。
「賢人会議を開催しろ」と。

繰りかえすが、黄色のバックにアメリカが居るのでは、と囁かれている。
わたしなどは、なんぼなんでも、そこまであからさまに民主主義を否定されると、
アメリカもやばいのではないか、といらぬ心配をしていた次第である。

おそらく水面下で、いろんな話し合いがなされたのだろう。
黄色もアメリカも、いろんな思惑があったのであろう。
そして、映画のようなコミカルな事態に発展した。

黄色のデモ隊がアメリカ大使館を取り囲み、
「いらん口を出すな!!」
「俺達には俺達のやりかたがある!!」
と叫んだ、というのだ。

アメリカ国務省の面々の苦悩が手に取るようによくわかる。
ああ、馬鹿な連中をバックアップするんじゃなかった。
今まで上手くいっていたのは要するに、
国王一人が優秀なだけだったのだ。

アメリカに出来る最善の事は、
いますぐ黄色から赤に乗り換えることなのだが、
長い付き合いだったから、切り替えにくいのかもしれない。
しかしなんとかせにゃ、
ロシア、中国にガンガンやられてしまう、という状況ではある。


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2014年4月3日木曜日

タルコフスキー「鏡」・解読7

主人公の少年時代の思いでのシーン、
隣に居る少年が、回れ右の号令に反抗して、
360度回転するシーンがある。

これは、革命とは回転することであるから、
結局元に戻る、という意味である。
明快な反革命、反体制思想である。
しかしストレートには表明できないから、このような表現になった。

ちなみに、この少年は主人公でもなければイグナートでもない。
顔も違うし、服も違う。
服の違いはこのややこしい映画を読み解く重要要素であって、
タルコフスキーは服への配慮が大変素晴らしく、
整合的である。

主人公の少年時代の演技と、
主人公の子ども(イグナート)の演技は、
一人の少年が担当しているが、
イグナートの場合には、格子柄のシャツの上にセーターを着ている。
別の場面ではそのうえにジャンパーをはおり、頭に帽子を載せているが、
格子のシャツということは変わらない。

冒頭のテレビをつける少年も、格子のシャツであることから、
イグナートであるとわかる。


レオナルドの画集を開くシーンが2回ある。
両方とも主人公の少年時代である。
服の衿を見ればわかる。両方共コートを着ている。
うち一回はイグナートのシーンに近接しているので間違いやすいが、
主人公と見るのが妥当である。

オープニングクレジット終了直後、
美しい田舎の風景のシーン、
母はワンピースの上にカーディガンをひっかけている。
ところで作中、ワンピースのみのシーンもあり(子どもの水浴び)、
カーディガンをひっかけるシーン(主人公の寝起き)もある。
時系列ぐじゃぐじゃだが、
再現してワンピースのみ→ひっかける→冒頭のシーン
と並べ替えて理解するのが正しい。

タランティーノの「パルプ・フィクション」みたいなもんである。


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2014年3月28日金曜日

タルコフスキー「鏡」・解読6

作中見たこともない中年おばさんが、
老人のメイドを従えて、
突然主人公の留守宅に登場し、
イグナートにノートを朗読するように言う。

そこには前回述べた、
ロシアがキリスト教文明を救った、云々が書いてあるのだが、
注目すべきはこのあばさんのコップである。

非常に奇妙な形をしたコップで、
卵の上1/4を切り取ったような形をして、
ガラスのような足が付いている。
表面には精巧に美しい装飾が加えられている。

これも象徴的に表現されているのだが、
ロシアで卵といえば、イースターエッグである。

http://ja.wikipedia.org/wiki/インペリアル・イースター・エッグ

これほどまでに美しい装飾が加えられている以上、
このおばさんはロシア皇帝、ないし皇帝のごとくロシア全体を考える意思を持った存在、
という意味である。
だから老女にお茶を入れさせる。
偉い人なのである。

その偉い人が、
作品の最期あたりで、
病臥している主人公の枕元でぼやく。
「息子がこんなでは、お母さんはどうなるの?」
ロシア皇帝が心配するほどのお母さん、
となるとここで言う「母」はロシアの大地そのものであろう。
おばさんは、ロシアの精神、ロシアの大地の運命に思いを馳せているのである。

参考
http://yomitoki2.blogspot.com/2013/08/2_20.html



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