「アナと雪の女王」のような子供向けの話、童話、民話、御伽噺というものは、
単純なだけにいかようにも作れてしまうので、
どの話も似通ったものになりがちで、
「大西物語」のような明快な物語の発展、継承のルートを特定するのになじまない。
なじまないが今回の作品はかなり確実に、
宮崎アニメを継承、発展していると言える。
だいたいの時系列でまとめてみる。
元ネタとなっているのは、
トトロ、もののけ、千と千尋、ハウルである。
以下簡単に説明する
1、姉妹の物語であるところは「となりのトトロ」に相似
2、ヒロインの髪の色が変わるところは「ハウルの動く城」に相似
3、姉妹の片方が失われて、片方がそれを探すのは「となりのトトロ」に相似
4、幼少期の記憶の片隅にある、オラフ(雪だるま)に再会する。
幼少期の記憶に再会するのは「千と千尋の神隠し」に相似
(トロールとの再会も同様)
5、アナを送り届けて一度アレンデールから離れたクリストフが、
吹雪を見てアレンデールに引き返す様子、
およびその途中でトナカイのスヴェンと離れるさまは、もののけのアシタカとヤックルに相似
6、アナに手に魔力が徐々に浸透するさまはアシタカの手に呪いが浸透する様に相似
7、凍りついたアナがエルサの愛で徐々に解凍されてるくさまは、
荒廃した山がシシ神の死で徐々に若草が芽吹いてゆく様に酷似
8、最終的にエルサが超自然の力と共存できるようになったのは、トトロに相似
一つや二つでは「影響を受けた」と言いにくいが、
この数ならばほぼ確実に言えると思われる。
ディズニーは宮崎アニメを十分に研究し、消化し、
自家薬籠中のものとした。
七人の侍と荒野の七人、
ジャングル大帝とライオンキング、
甲殻機動隊とマトリックスのようなことが起こっている。
受動的だったディズニーのヒロインを、能動的なものに変える作業を、
宮崎アニメを下敷きにおこなったのだろう。
加えて本作品は、
姉妹の間に女性特有の微妙な緊張関係があるのを、表現できている。
これは宮崎アニメにはなかった。
女の子には千と千尋やトトロより、リアルで感情移入しやすい作品に見えるはずである。
男の子には不満足な作品かもしれないが、
映画の成功失敗のカギは大抵の場合女性消費者が握っている。
音楽も出来が良い。特に二重唱。
音楽は、実は日本映画の最弱点なのだが、
ジブリは久石の能力で、高品質な音楽の供給を受け続けれる幸運にあずかれた。
しかし久石も、二重唱のようなポリフォニックな曲は厳しいだろう。
個人的に宮崎アニメの成功の秘密は、
幼少期にトトロをテレビで見て、作風を十分すりこませることにあったと思っている。
その意味では、これは苦しくなった。
世界中の子どもが、この作品を何度もすりこまれることは、
ほぼ確実だからである。
トトロから25年、能動的な女の子のアニメという、ジブリが独占してきた大きな市場が、
ごっそり持っていかれそうな気配である。
弱点も無いわけではない
1、トロールが歌うシーン、ミュージカル映画では群舞のシーンということになると思うが、弱い
2、オラフは大変良いキャラクターだが、顔が可愛くない
3、クリストフが嵐の中を引き返すシーン、動画として弱い。
4、アナの解凍シーンも、もののけの緑の回復シーンに比べれば弱い
5、「愛」で全てを片付ける安易さ
しかし上気5点、いずれも致命的なものではない。
ページ
2014年7月23日水曜日
2014年6月5日木曜日
風立ちぬ・解説25
以前書いた飛行機と菜穂子の関係を再掲すると、
「菜穂子が油を吐いたとき、次郎は死を観念したに相違ない。
当時の日本のエンジン開発能力では、結核で油を吐いたらまず墜落なのである。
でもそのエンジンでも結果を残さなければならないから、祝言を挙げた。
機体そのものは花のように美しく、何度も口付けをして、愛した」
である。
広く言えば女性と戦争を結びつける、
和事と荒事を結びつける物語技法は、
古くから存在した。
西洋ではイーリアスが典型であり、
女性関係のトラブルからトロイの大戦争に発展してしまう。
中国では不思議なことに見当たらないのだが、
日本では例えば平家物語。
物語冒頭の「祇王」という白拍子の話が、
全編をコントロールしている。
平清盛が祇王という白拍子の愛人を、
粗略に扱ってしまい、祇王は山の奥に庵を結んで、
ただ西方極楽へ行くことだけを祈念しつづける。
平家の悲劇は、この女性へのつらい仕打ちが原因なのである。
あるいは「仮名手本忠臣蔵」。
鶴屋南北が忠臣蔵を上演したときには、
「東海道四谷怪談」と場面を交互に入れ替えて上演したらしい。
つまり、忠臣蔵と四谷怪談を合一しようとしたのである。
忠臣蔵は男の面子がつぶされる話、
四谷怪談は女の顔がつぶされる話、
同じと言えば同じである。
画像
だから戸板返しのシーンがある。
男世界も女世界も、
一枚の板の裏表であるという主張であろう。
さらに現代では、
「艦隊これくしょん」もある。
艦娘と一緒に戦い、あげくに「ケッコンカッコカリ」というシステムがある。
要は「結婚(仮)」という意味だと思われるが、
ゲームの目的が戦争の勝利なのか結婚なのかさっぱりわからない。
かなり強引に荒事と和事を合体させている。
そういう意味では、
「風立ちぬ」と「艦これ」は同じ趣旨のものである。
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「菜穂子が油を吐いたとき、次郎は死を観念したに相違ない。
当時の日本のエンジン開発能力では、結核で油を吐いたらまず墜落なのである。
でもそのエンジンでも結果を残さなければならないから、祝言を挙げた。
機体そのものは花のように美しく、何度も口付けをして、愛した」
である。
広く言えば女性と戦争を結びつける、
和事と荒事を結びつける物語技法は、
古くから存在した。
西洋ではイーリアスが典型であり、
女性関係のトラブルからトロイの大戦争に発展してしまう。
中国では不思議なことに見当たらないのだが、
日本では例えば平家物語。
物語冒頭の「祇王」という白拍子の話が、
全編をコントロールしている。
平清盛が祇王という白拍子の愛人を、
粗略に扱ってしまい、祇王は山の奥に庵を結んで、
ただ西方極楽へ行くことだけを祈念しつづける。
平家の悲劇は、この女性へのつらい仕打ちが原因なのである。
あるいは「仮名手本忠臣蔵」。
鶴屋南北が忠臣蔵を上演したときには、
「東海道四谷怪談」と場面を交互に入れ替えて上演したらしい。
つまり、忠臣蔵と四谷怪談を合一しようとしたのである。
忠臣蔵は男の面子がつぶされる話、
四谷怪談は女の顔がつぶされる話、
同じと言えば同じである。
画像
だから戸板返しのシーンがある。
男世界も女世界も、
一枚の板の裏表であるという主張であろう。
さらに現代では、
「艦隊これくしょん」もある。
艦娘と一緒に戦い、あげくに「ケッコンカッコカリ」というシステムがある。
要は「結婚(仮)」という意味だと思われるが、
ゲームの目的が戦争の勝利なのか結婚なのかさっぱりわからない。
かなり強引に荒事と和事を合体させている。
そういう意味では、
「風立ちぬ」と「艦これ」は同じ趣旨のものである。
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2014年6月4日水曜日
風立ちぬ・解説24
そろそろ「風立ちぬ」の解説を再開したい。
堀辰雄の「風立ちぬ」のアウトラインまでを説明した。
堀の「風立ちぬ」のもっとも優れた点、
それは主客の合一が見られる点である。
主人公が風景を見ている。
風景が心にしみる。
なぜしみるか。
それは主人公の背後から同じ風景を、
婚約者が見ているからである。
「そうだ、おれはどうしてそいつに気がつかなかったのだろう?
あのとき自然なんぞをあんなに美しいと思ったのはおれじゃないのだ。
それはおれ達だったのだ。
まぁ言ってみれば、節子の魂がおれの眼を通して、
そしてただおれの流儀で、
夢みていただけなのだ」
仏教的とも言えるエゴの喪失、主体客体の合一が、
同時に宮崎駿の「風立ちぬ」のクライマックスになる。
それは主人公が菜穂子の隣でタバコを吸うシーンである。
「上手くいきそうだよ、
5匁くらい軽くなりそうだ」
「そう、よかった」
「30本で150匁だ」
「多すぎますわ、二人分だったらその半分でいいわ」
なんで肺結核で寝ている女性がリベットについて、
「二人分だったら」といわなきゃいけないのか。
ここで、菜穂子は堀の作る飛行機に完全に一体化しているのである。
http://yomitoki2.blogspot.jp/2013/09/13.html
で見るとおり、タバコは女性と別れるイベントの象徴である。
しかし、ここでは女性と別れない。
菜穂子が菜穂子のまま、飛行機と一体化するのである。
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堀辰雄の「風立ちぬ」のアウトラインまでを説明した。
堀の「風立ちぬ」のもっとも優れた点、
それは主客の合一が見られる点である。
主人公が風景を見ている。
風景が心にしみる。
なぜしみるか。
それは主人公の背後から同じ風景を、
婚約者が見ているからである。
「そうだ、おれはどうしてそいつに気がつかなかったのだろう?
あのとき自然なんぞをあんなに美しいと思ったのはおれじゃないのだ。
それはおれ達だったのだ。
まぁ言ってみれば、節子の魂がおれの眼を通して、
そしてただおれの流儀で、
夢みていただけなのだ」
仏教的とも言えるエゴの喪失、主体客体の合一が、
同時に宮崎駿の「風立ちぬ」のクライマックスになる。
それは主人公が菜穂子の隣でタバコを吸うシーンである。
「上手くいきそうだよ、
5匁くらい軽くなりそうだ」
「そう、よかった」
「30本で150匁だ」
「多すぎますわ、二人分だったらその半分でいいわ」
なんで肺結核で寝ている女性がリベットについて、
「二人分だったら」といわなきゃいけないのか。
ここで、菜穂子は堀の作る飛行機に完全に一体化しているのである。
http://yomitoki2.blogspot.jp/2013/09/13.html
で見るとおり、タバコは女性と別れるイベントの象徴である。
しかし、ここでは女性と別れない。
菜穂子が菜穂子のまま、飛行機と一体化するのである。
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