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2014年12月20日土曜日

銀河鉄道の夜・解読3

前回述べたごとく「3回出現する言葉」に注目すると、
以下のような表ができる。
ただし末尾のように分類しきれないものも残る。
未完成品だから仕方が無い。













順に説明する。

1)川
一、午后の授業 (授業で説明される模型の
天の河)
七、北十字とプリオシン海岸 (実際に手に触れる天の川)
9-11 カンパネルラ溺死と父帰還の予感 (カンパネルラが溺れた川)

2)レンズ(前回説明済み)

3)紙
二、活版所 (活版所の人から渡されるメモ)
九、ジョバンニの切符 (十字を書いてある切符)
9-11 カンパネルラ溺死と父帰還の予感 (カンパネルラの父が受け取った手紙)

4)鉄道(前回説明済み)

5)工事
三、家 (模型の鉄道工事)
七、北十字とプリオシン海岸 (発掘工事)
9-6 ソ連の発破と双子の星  (架橋工事)

6)赤い玉
三、家 (ジョバンニが家で食べるお姉さんが作った料理のトマト)
9-3 リンゴ (燈台守に貰うリンゴ)
9-7 蠍の炎 (さそり座のアンタレス)

7)船
四、ケンタウル祭の夜 (からすうりの船(灯篭流し)
9-2 タイタニック死者の乗車 (タイタニックとおぼしき船)
9-11 カンパネルラ溺死と父帰還の予感 (ザネリとカンパネルラの乗った船)

8)溺死
9-2 タイタニック死者の乗車 (タイタニック乗客の溺死)
9-7 蠍の炎 (井戸に落ちたさそりの溺死)
9-11 カンパネルラ溺死と父帰還の予感 (カンパネルラ溺死)

9)光と影
四、ケンタウル祭の夜 (街灯とジョバンニの影)
七、北十字とプリオシン海岸 (海岸への階段での二人の影)
八、鳥を捕る人 (甲虫の光と影)

10)平面化
七、北十字とプリオシン海岸 (牛の化石の発掘。みかけ上牛が平面化している)
八、鳥を捕る人 (鳥を採集すると平面化してお菓子になる)
9-7 蠍の炎 (さそりが平面化してさそり座になる)

11)牛
七、北十字とプリオシン海岸 (牛の化石)
9-8 ほんとうの神様 (おうし座(ふたごの星)
9-10 牛乳の入手 (母牛と子牛)

12)狩猟
八、鳥を捕る人 (ともかくも鳥の狩猟)
9-5 新世界交響楽 インディアン (弓矢による狩猟)
9-7 蠍の炎 (イタチによるさそりの狩猟)


以上が「3回出現する言葉」で私が発見できたものである。

以下「それらしい言葉なのだが3回ではないもの」を説明する。


まず2回出現するもの

ゆるい服
二、活版所 (ゆるい服の人、ジョバンニの職場のボスらしき人)
9-4 かささぎ 孔雀 渡り鳥 ゆるい服の人(鳥の交通整理)


ミルク
一、午后の授業 (天の川をミルクに例える)
9-10 牛乳の入手 (お母さんのためのミルク)

お菓子
二、活版所 (お母さんのための角砂糖)
八、鳥を捕る人 (鳥の菓子)



4回出現するもの

母のところに行く
9-8 ほんとうの神様 (タイタニックの死者が母の所へ行く)
9-9 石炭袋とカンパネルラの消滅 (カンパネルラが母の所へ行く)
9-10 牛乳の入手 (子牛が母牛の所へ行く)
9-11 カンパネルラ溺死と父帰還の予感 (ジョバンニが牛乳を持って母の所へ行く)



もうひと頑張りで全て3回にそろえられそうだが、
あくまで未完成なのである。
しかしここまで緻密に組み立てただけでも、たいしたもんなのである。

さてそこで再び鉄道を考える。


4)鉄道
三、家 (模型の鉄道)
五、天気輪の柱 (現実の鉄道)
六、銀河ステーション (銀河鉄道)

鉄道は3回登場する。
家でジョバンニはカンパネルラ宅での鉄道模型遊びについて言及する。
天気輪の柱でジョバンニは遠くの列車を見る。
銀河ステーションでジョバンニは銀河鉄道に乗り込む。

模型、現実、抽象の3種類の鉄道が登場する。
小、中、大の3種類と言っても良い。

あるいは川

1)川
一、午后の授業 (授業で説明される模型の天の河)
七、北十字とプリオシン海岸 (実際に手に触れる天の川)
9-11 カンパネルラ溺死と父帰還の予感 (カンパネルラが溺れた川)

模型の川、天の川、実際の川である。
小、大、中、の3種類ある。

つまり作品中の3回出現イメージは、
模型、現実、抽象、
いいかえれば、
小、中、大の3種類で統一されているのではないかと思われる。

2014年12月19日金曜日

銀河鉄道の夜・解読2

銀河鉄道の夜は、完成していない。
第四稿まで推敲されたが、結局完成されないまま、
原稿の欠落や矛盾を抱えたまま出版されている。
そのため、きれいな構造を見出すことが難しい。
構造が見えたとしても、
それは推敲途中の構造であり、
作者の最終目標ではない可能性が捨てきれないから、
このページで過去にやってきたような、
確実な情報としては伝えづらい。
その上で、読み解けた部分を説明してゆきたい。

当然ながら銀河鉄道の夜は、
星空を旅する物語である。
読み解きには星空の参照が欠かせないが、
その点については既に十分な研究がある。

プリオシン海岸



天文に疎い私としては、
この方面で書き加えるべき知見は特に無い。

それで従来どおり物語の構造を見てゆこう。

まず章立てである。
9章に分かれているが、
9章目の「ジョバンニの切符」が規模が大きすぎる。
それで「ジョバンニの切符」のみを、
11に分ける。

一、午后の授業
二、活版所
三、家
四、ケンタウル祭の夜
五、天気輪の柱
六、銀河ステーション
七、北十字とプリオシン海岸
八、鳥を捕る人
九、ジョバンニの切符
9-2 タイタニック死者の乗車
9-3 リンゴ
9-4 かささぎ 孔雀 渡り鳥
9-5 新世界交響楽 インディアン
9-6 ソ連の発破と双子の星
9-7 蠍の炎
9-8 ほんとうの神様
9-9 石炭袋とカンパネルラの消滅
9-10 牛乳の入手
9-11 カンパネルラ溺死と父帰還の予感

その上で、例えば鉄道について注目してみる


三、家 (模型の鉄道)
五、天気輪の柱 (現実の鉄道)
六、銀河ステーション (銀河鉄道)

鉄道は3回登場する。
家でジョバンニはカンパネルラ宅での鉄道模型遊びについて言及する。
天気輪の柱でジョバンニは遠くの列車を見る。
銀河ステーションでジョバンニは銀河鉄道に乗り込む。

次にレンズに注目する

一、午后の授業 天の川のレンズ
二、活版所 虫眼鏡くん
九、ジョバンニの切符 アルビオン観測所のレンズ

レンズも3回登場する。
午後の授業で、先生は天の川はレンズ状になっていると説明する
活版所でジョバンニは、「よう虫眼鏡くん」と馬鹿にされる
ジョバンニの切符で、アルビオン観測所にレンズがある

どうも「3回」というのがかなり重要なようだ。

「鏡」あるいは「千と千尋の神隠し」想起いただきたい。
いずれも「3」で仕立てられた物語であるが、
そのような物語の場合、
そのことが作品冒頭で暗示されている。

で、銀河鉄道本文を検討すると、
「3」という数字が頻出する。

二、活版所より
「町を三つ曲がってある大きな活版所に入って」
「入り口から三番目の高いテーブルに座った人」

三、家より
「三つ並んだ入り口の左側には」
「ああ三時ごろ帰ったよ」

四、ケンタウル祭の夜より
「三本の足のついた小さな望遠鏡」

五、天気輪の柱より
「青い琴の星が三つにも四つにもなって」

六、銀河ステーションより
「天気輪の柱がいつしかぼんやりとした三角標の形になって」

というわけで、
銀河鉄道の夜の中には、
同一のものが三回出現する、と仮定して読み解きをすすめる。


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2014年12月1日月曜日

銀河鉄道の夜・解読1

どうも日本アニメ系の人々にとって、
歴史上最重要の作品は、
宮沢賢治「銀河鉄道の夜」のようである。

私は昔から宮沢が嫌いなのでろくに読んでいなかった。
今回ようやく少しまとめて読んで、
なるほどこれは大きな作家だと理解できた。
45過ぎて遅い話である。

銀河鉄道の夜を解読するにあたって、
まずは宮沢賢治について考えたい。

賢治は童話作家である。
似た存在は、宮崎駿以外に居ない。
つまり、童話を書いているのだが、童話をかくのに相応しくないほどに、
頭の性能が高く、過剰に充実した作品を作っている。
宮崎の場合は、知識、教養、および動画作画能力である。
宮沢賢治の場合は、文章の密度である。

宮沢の文章は読みにくい。
それは単純に、文章教養が高いからである。
その素地はおそらく、
仏教によってつくられた。
賢治の実家は熱心な浄土真宗の信者で、
後にかれは日蓮宗に鞍替えするのだが、
重要なことは、子どもの頃から仏典に親しんでおり、
成人後もやはり仏典を教養の中心にすえている、ということである。
中島敦における漢文が、
宮沢賢治における仏典なのである。
坂口安吾も仏教を勉強しているが、
あれは成人後の勉強であり、
しかも「勉強」なのである。
宮沢賢治は「信者」である。
脳みそへのしみこみ方は、次元が違うはずである。

例えば「二十六夜」中の、
賢治がでっちあげたお経を見よ

「爾の時に疾翔大力、爾迦夷に告げて曰いはく、諦に聴け、諦に聴け、善之を思念せよ、我今汝に、梟鵄諸の悪禽、離苦解脱の道を述べん、と。
爾迦夷、則、両翼を開張し、虔く頸を垂れて、座を離れ、低く飛揚して、疾翔大力を讃嘆すること三匝にして、徐座に復し、拝跪して唯願ふらく、疾翔大力、疾翔大力、たゞ我等が為ために、これを説きたまへ。たゞ我等が為ために、之を説き給へと」

でっちあげにしては大変出来が良い。
彼は帝大卒でもなければ、洋行帰りでもないので、
土俗的なムードで見られることが多いのだが、
実体はなんのことはない、
仏教経典によって言語中枢を鍛え上げられた、
人間コンピューターのような面がある。

コンピューターという言い方が賢治を讃えることになるのか貶すことになるのか、
私にはわからないが、
いずれにせよ文章をつらねてゆく性能として、
極端に高いものがある、ということが賢治作品解読の基本認識になる。


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