枝野代表が消費税減税で煮え切らないのは、経済を理解していないのもあるますけど、95%は小沢一郎が怖いからです。山本太郎は小沢一郎の製造した刺客、と枝野氏は理解しています。その理解はあながち間違いではありません。山本が経済の研究を始めたのは、おそらく小沢の後押しがあったのでしょう。
現在野党のTOPは枝野氏です。小沢ならばそれをひっくり返せる。それどころか政権を奪取できる可能性さえある。一方で自分たちが消費税増税を推進したのですから、「消費税減税レース」では最初から不利。ヘタに減税に賛同すると覇権ゲームで敗北します。だから二の足を踏んでいる。
小沢一郎は「国の借金問題」の嘘を、政治家になった最初から理解している人です。学者の意見に惑わされない。財務省を味方につけたいときは増税に賛成し、政権を取りたいときは減税に賛成します。どっちでも良いと思っている。モンスターですね。権力闘争の権化です。
「財務省職員を怒鳴りつけれるのは小沢だけ」とよく言われていました。財務省としては不倶戴天の敵。グチャグチャにされます。だからこそ絶対の権力を持てる。国家財政を自由にできるのですから。だから長年政局の中心に居れた。政治技術の天才なのです。
そして、そこまで徹底的な天才ですと、国家観がありません。政治の理想もありません。国家とは、政府とは、天才料理人小沢にとって小麦粉のようなものです。うどんにもできる、ピザにもできる。天才だから自由自在。だから政権握るとすぐどうでもよくなる。良い一皿作れば満足なのです。大量の原稿を書きながらほとんど発表しなかった天才宮沢賢治とダブります。岩手はこういう才能を生むんですね。ちょっと根拠不明の才能なのです。
最近MMTなどで国家財政にたいする理解が深まりましたが、小沢が日本に不要になるまでには、もう少し時間がかかりそうです。「小沢の権力を支えてきたものはなにか」とよく話題になりました。最初は竹下金丸、つぎにアメリカ、つぎに中国と、手を組む相手を次々とかえて、また復活してくる。
それら不屈の権力の源泉は今こそ明らかになっていると思います。主流派経済学者の誤った国家財政観です。インテリの認識の過誤が長年小沢の権力を支えてきたのです。
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2019年11月9日土曜日
2019年10月23日水曜日
悪霊・追記4
ドストエフスキーの最大の魅力は、おそらく会話にある。人物がハイテンションに会話して段々と場を盛り上げて行き、やがて大きなクライマックスに至る。
カラマーゾフなら僧院での会合。悪霊ならば第一部最終ワルワーラがステパンの出入り禁止を言い渡すところ。コミカルで、劇的で、妙に登場人物への愛情のようなものが感じられるシーンである。
なぜ彼はこんな素晴らしいシーンを書けたのか。ここらへんの研究が終わると、「ドストエフスキーは完全攻略」となると思われる。カラマーゾフ、罪と罰、悪霊と解析やってきたが、私は残念ながらそこまで至れていない。
「耳と目」という視点で見ると、トルストイは目の人であり、ドストエフスキーは耳の人である。トルストイは情景描写に優れ、ドストエフスキーは会話に優れる。トルストイは「クロイッツェル・ソナタ」で音楽を否定し、ドストエフスキーは「死の家の記録」でロシアのカマリンスカヤを賛美した。
ところで文明は目の文明と耳の文明に大別できる。日本、中国は目の文明である。インドは両方ある。イスラムは耳の文明である。肖像画を否定し、かつ砂漠であまり見るものがなく、かつクルアーンの響きを愛好するからどうしてもそうなる。
そしてヨーロッパではイスラムの強い影響を受けたところが耳の文化を作った。すなわちウィーンをトルコに包囲されたオーストリアと、ロシアである。
ちなみに宮崎市定によれば、プロテスタンティズムは「キリスト教のイスラム化」であるそうで、実際聖職者ナシ、原典主義はあきらかにイスラムの影響である。つまりルターが、もっと言えばトルコがバッハやモーツァルトやベートーヴェンを生んだという理屈である。
今日から見る西洋文明は巨大だが、歴史的にはイスラーム世界の後背地といった風情が濃い。ルネッサンスからようよやく互角への道をあゆみはじめるくらいである。ところがロシアは、モンゴルタタールに占領されていたものだからルネッサンスもなにもないのである。
写真はクレムリン。
そしてイラン陶器
シャガール
そしてペルシャ陶器
https://images.app.goo.gl/z5rX6LSHQXLKXTJf7
ロシアのかなりの部分はイスラムのはずなのである。しかし明らかにされない。ドストエフスキーもかなり源流がイスラムにあるはずなのである。しかし明らかにされない。
そう考えると最もドストエフスキーに近いのは、イラン映画と思えてくる。
別離
こちらはかなりドストエフスキーである。クライマックスへの持ってゆき方が特に。イラン=ペルシャは、ようするに古代メソポタミア以来の文明を受け継ぐ人々で、中国、インドよりも古い。文化の熟成が高い。イラン人は特に演劇に力をおくようである。人類最高レベルの演劇鑑賞能力を持つ集団かもしれない。
現状では仮説に過ぎないが、ドストエフスキーの会話で盛り上げてゆくドラマ作りの根底には、イラン演劇があるのではないか。ロシア人はギリシャ正教の伝統、つまり東ローマ帝国の文化を自身の根源として捉えているようだが、私が東ローマ帝国の文化にたいする知識がないのでなんとも言えない。
ただタルコフススキーにせよズビギャンツェフにせよ、ドストエフスキー的ではないのである。と書いていてもうひとりドストエフスキー的な会話の上手な映画監督思い出した。タランティーノである。
この作品は、下敷きにコンラッドの「闇の奥」があり、コンラッドはロシア生まれのポーランド人だから、(ドストエフスキーを嫌っていたらしいが)実はドストエフスキーの正統的な後継者はコンラッド→タランティーノということになるのかもしれない。
カラマーゾフなら僧院での会合。悪霊ならば第一部最終ワルワーラがステパンの出入り禁止を言い渡すところ。コミカルで、劇的で、妙に登場人物への愛情のようなものが感じられるシーンである。
なぜ彼はこんな素晴らしいシーンを書けたのか。ここらへんの研究が終わると、「ドストエフスキーは完全攻略」となると思われる。カラマーゾフ、罪と罰、悪霊と解析やってきたが、私は残念ながらそこまで至れていない。
「耳と目」という視点で見ると、トルストイは目の人であり、ドストエフスキーは耳の人である。トルストイは情景描写に優れ、ドストエフスキーは会話に優れる。トルストイは「クロイッツェル・ソナタ」で音楽を否定し、ドストエフスキーは「死の家の記録」でロシアのカマリンスカヤを賛美した。
ところで文明は目の文明と耳の文明に大別できる。日本、中国は目の文明である。インドは両方ある。イスラムは耳の文明である。肖像画を否定し、かつ砂漠であまり見るものがなく、かつクルアーンの響きを愛好するからどうしてもそうなる。
そしてヨーロッパではイスラムの強い影響を受けたところが耳の文化を作った。すなわちウィーンをトルコに包囲されたオーストリアと、ロシアである。
ちなみに宮崎市定によれば、プロテスタンティズムは「キリスト教のイスラム化」であるそうで、実際聖職者ナシ、原典主義はあきらかにイスラムの影響である。つまりルターが、もっと言えばトルコがバッハやモーツァルトやベートーヴェンを生んだという理屈である。
今日から見る西洋文明は巨大だが、歴史的にはイスラーム世界の後背地といった風情が濃い。ルネッサンスからようよやく互角への道をあゆみはじめるくらいである。ところがロシアは、モンゴルタタールに占領されていたものだからルネッサンスもなにもないのである。
写真はクレムリン。
そしてイラン陶器
シャガール
そしてペルシャ陶器
https://images.app.goo.gl/z5rX6LSHQXLKXTJf7
ロシアのかなりの部分はイスラムのはずなのである。しかし明らかにされない。ドストエフスキーもかなり源流がイスラムにあるはずなのである。しかし明らかにされない。
そう考えると最もドストエフスキーに近いのは、イラン映画と思えてくる。
別離
こちらはかなりドストエフスキーである。クライマックスへの持ってゆき方が特に。イラン=ペルシャは、ようするに古代メソポタミア以来の文明を受け継ぐ人々で、中国、インドよりも古い。文化の熟成が高い。イラン人は特に演劇に力をおくようである。人類最高レベルの演劇鑑賞能力を持つ集団かもしれない。
現状では仮説に過ぎないが、ドストエフスキーの会話で盛り上げてゆくドラマ作りの根底には、イラン演劇があるのではないか。ロシア人はギリシャ正教の伝統、つまり東ローマ帝国の文化を自身の根源として捉えているようだが、私が東ローマ帝国の文化にたいする知識がないのでなんとも言えない。
ただタルコフススキーにせよズビギャンツェフにせよ、ドストエフスキー的ではないのである。と書いていてもうひとりドストエフスキー的な会話の上手な映画監督思い出した。タランティーノである。
この作品は、下敷きにコンラッドの「闇の奥」があり、コンラッドはロシア生まれのポーランド人だから、(ドストエフスキーを嫌っていたらしいが)実はドストエフスキーの正統的な後継者はコンラッド→タランティーノということになるのかもしれない。
2019年10月18日金曜日
悪霊・追記3
第三部でのニコライとリザヴェータの逢引の後の会話シーンは、
この作品でもっともやっかいな部分である。
どうもニコライが上手くゆかなかったようで、非常にオドオドしている。
リザヴェータは終始不機嫌である。ニコライを馬鹿にしきっている。
ニコライ「昨夜はなにがあったのだろう」
リザヴェータ「あったことがあったのよ」
わかりやすく言い換えれば
ニコライ「昨夜はどうして上手くいかなかったんだろう」
リザヴェータ「ご存知の通りよ。慰めてあげないわ(あなたがダメだった、ただそれだけよ)」
男性から見れば、リザヴェータが途方も無い性悪女に見える。
「礼儀も思いやりもないけしからん女だ。こんなやつは殴り殺されればいい」と思っていると、直後に本当に殴ろ殺されるから気の毒である。
佐藤優によればロシア女性には恐ろしいノルマを男性に課する人が居るようで、週16回だそうである。平日は一日2回、土日は3回。無理に決まっているのだが、課する人がいる以上、実行できる男性がロシアには居るということである。同じ人間とは思われない。
仮説が二つ成り立って、
1、ロシア革命で結婚制度が破壊された際に、恐ろしい適者生存の戦いが勃発した。軟弱な男女は淘汰された。生き残ったのはそちらが超人的に強い遺伝子のみである。
2、元来ロシア人はそれくらい強い。強いから「結婚制度破壊」のスローガンが有効で、それでロシアでは革命が成功した。
リザヴェータの無遠慮な不機嫌さを見るに、どうも2が正解のようである。「悪霊」は無論ロシア革命より前の作品である。あるいはその上で1の淘汰が発動してよりグレードアップしたのかもしれない。
「悪霊」という作品も、その後のロシア革命も、このロシア人の体質を念頭に置かなければ読めない。そういう体質を想像しながら読み解いてゆくことになる。なんでロシア文学が長大かなんとなくわかる。連中は実質的に自分たちの体質を表現しているだけではないのか。
考えれば羨ましくもあり、妬ましくもあるが、私が日本人離れしたパワフルさを身に着けても、どうせモテないんだから関係ない気もする。並の日本人レベルに追いつくのが先決問題の気もする。いや全てがどうせ無理なんだろう。だんだん考える気力もなくなってくる。
ショーロホフの「静かなドン」に、ある兵隊が長嘆息しているシーンがあったと記憶する。「世界中にはきれいな女がいるんだ。まだ俺たちが見たことがないようなきれいな女性が、一生見ずにおわってしまうような女性が大量に。俺はそう思うとたまらねえ気持ちになる」。手元にないからうろおぼえだが、さすがロシア人様ともなると、そもそも考え方が違う。体質による絶対の自信に支えられた願望と言うべきである。
この作品でもっともやっかいな部分である。
どうもニコライが上手くゆかなかったようで、非常にオドオドしている。
リザヴェータは終始不機嫌である。ニコライを馬鹿にしきっている。
ニコライ「昨夜はなにがあったのだろう」
リザヴェータ「あったことがあったのよ」
わかりやすく言い換えれば
ニコライ「昨夜はどうして上手くいかなかったんだろう」
リザヴェータ「ご存知の通りよ。慰めてあげないわ(あなたがダメだった、ただそれだけよ)」
男性から見れば、リザヴェータが途方も無い性悪女に見える。
「礼儀も思いやりもないけしからん女だ。こんなやつは殴り殺されればいい」と思っていると、直後に本当に殴ろ殺されるから気の毒である。
佐藤優によればロシア女性には恐ろしいノルマを男性に課する人が居るようで、週16回だそうである。平日は一日2回、土日は3回。無理に決まっているのだが、課する人がいる以上、実行できる男性がロシアには居るということである。同じ人間とは思われない。
仮説が二つ成り立って、
1、ロシア革命で結婚制度が破壊された際に、恐ろしい適者生存の戦いが勃発した。軟弱な男女は淘汰された。生き残ったのはそちらが超人的に強い遺伝子のみである。
2、元来ロシア人はそれくらい強い。強いから「結婚制度破壊」のスローガンが有効で、それでロシアでは革命が成功した。
リザヴェータの無遠慮な不機嫌さを見るに、どうも2が正解のようである。「悪霊」は無論ロシア革命より前の作品である。あるいはその上で1の淘汰が発動してよりグレードアップしたのかもしれない。
「悪霊」という作品も、その後のロシア革命も、このロシア人の体質を念頭に置かなければ読めない。そういう体質を想像しながら読み解いてゆくことになる。なんでロシア文学が長大かなんとなくわかる。連中は実質的に自分たちの体質を表現しているだけではないのか。
考えれば羨ましくもあり、妬ましくもあるが、私が日本人離れしたパワフルさを身に着けても、どうせモテないんだから関係ない気もする。並の日本人レベルに追いつくのが先決問題の気もする。いや全てがどうせ無理なんだろう。だんだん考える気力もなくなってくる。
ショーロホフの「静かなドン」に、ある兵隊が長嘆息しているシーンがあったと記憶する。「世界中にはきれいな女がいるんだ。まだ俺たちが見たことがないようなきれいな女性が、一生見ずにおわってしまうような女性が大量に。俺はそう思うとたまらねえ気持ちになる」。手元にないからうろおぼえだが、さすがロシア人様ともなると、そもそも考え方が違う。体質による絶対の自信に支えられた願望と言うべきである。
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