それでは未来に対応したカラマーゾフ兄弟とは誰か。
当然ながら、コーリャと仲間たちである。
それで少年たちのキャラクターを仔細に見てみる。
やはり分かりやすいのは、陰湿なイワンキャラである。
僧院でも、過去の人物でもそうだった。
未来の人物の場合は、
イリューシャがそれに相当する。
過去の人物ミハイルのごとく、
あっさり病死するからである。
では彼は、何の罪を告発したか。
「ジューチカに針を飲ませてしまった」
という罪である。
イワン:父殺しを告白する。
僧院の女4:夫殺しを告白する。
ミハイル:女殺しを告発する。
イリューシャ:ジューチカ殺しを告発する。
となって、これも綺麗に並ぶのである。
ページ
2009年5月29日金曜日
2009年5月25日月曜日
「カラマーゾフの兄弟」をよみとく 6
2009年5月24日日曜日
「カラマーゾフの兄弟」をよみとく 5
僧院の女性信者の分析から、
おそらくゾシマの過去語りの登場人物も、
カラマーゾフ兄弟に対応していることが検討つく。
ゾシマの過去語りの登場人物は、
四人いる。
1:ゾシマの兄。若くして病死。
2:ゾシマ自身
3:召使
4:ミハイル
このうちミハイルは、
殺人と、隠蔽と、告白から、
ほとんどまったくイワン・カラマーゾフと同一人物である。
1:ゾシマの兄も簡単である。
本文の中で「アリューシャにそっくり生き写し」と書いてある。
つまり病死したゾシマの兄は、
アリューシャ・カラマーゾフと同一人物である。
最後にミーチャがだれなのか、さえ確定すればよい。
ゾシマ自身か、召使か、となるが、
ゾシマと召使の関係は、ようするに、殴る、殴られるの関係である。
となればこれも簡単。
ミーチャは、自分の親父も殴り、
イリューシャの親父も殴り、
どさくさにまぎれて召使も殴った。
つまり、ゾシマの過去語りの中では、
ゾシマ本人=ミーチャなのである。
おそらくゾシマの過去語りの登場人物も、
カラマーゾフ兄弟に対応していることが検討つく。
ゾシマの過去語りの登場人物は、
四人いる。
1:ゾシマの兄。若くして病死。
2:ゾシマ自身
3:召使
4:ミハイル
このうちミハイルは、
殺人と、隠蔽と、告白から、
ほとんどまったくイワン・カラマーゾフと同一人物である。
1:ゾシマの兄も簡単である。
本文の中で「アリューシャにそっくり生き写し」と書いてある。
つまり病死したゾシマの兄は、
アリューシャ・カラマーゾフと同一人物である。
最後にミーチャがだれなのか、さえ確定すればよい。
ゾシマ自身か、召使か、となるが、
ゾシマと召使の関係は、ようするに、殴る、殴られるの関係である。
となればこれも簡単。
ミーチャは、自分の親父も殴り、
イリューシャの親父も殴り、
どさくさにまぎれて召使も殴った。
つまり、ゾシマの過去語りの中では、
ゾシマ本人=ミーチャなのである。
2009年5月23日土曜日
「カラマーゾフの兄弟」をよみとく 4
ということで、とりあえずこれまでのまとめである。
第二編「場違いな会合」での、
ゾシマの女性信者の5人は、
全てカラマーゾフ兄弟に対応している。
大変美しい構造である。
それで次に考えることは、
「この小説のほかの部分にはこのような構造はないか」
ということである。
このシーンでこのように美しい構造を見せた以上、
これがドストエフスキーの考え方なのだから、
他のシーンでもかならずあるはずである。
考えるポイントは恐らく「殺し」で、
四人目、イワンに対応するキャラクターである。
と考えると、すぐ出てくる。
「ミハイル」である。
ゾシマ長老の思い出話に出てくる、
昔殺人をして、それを隠しており、
ゾシマの決闘→出家話に触発されて、
自分の罪を告発する紳士である。
かれのキャラの、繊細さ、陰惨さは、
イワンは、僧院の四人目の信者に、
どこかかさなるところがある。
2009年5月21日木曜日
「カラマーゾフの兄弟」をよみとく 3
そこで僧院につどったこの5人の女性を、
もう少し詳しく見てゆく。
一人目は癲癇の女性。
二人目は子供が死んだ女性。
三人目は、失踪した息子に帰ってきて欲しくて、過去帳に息子の名を記載するかどうかゾシマに相談する。ゾシマに説得されてやめる。ゾシマは「近いうちに消息がある」と予言する。
四人目は夫を殺した女性。ゾシマに罪は許されると言われる。
五人目は元気な農婦。ゾシマにお金を渡して、ゾシマを喜ばせる。
居住地の僧院からの距離の区分により、
一人目と五人目は、ワンセットであり、
二人目と四人目はワンセットであり、
三人目は単独でセットをつくっていることが明らかになっている。
この3つのセットのそれぞれの属性を見てみる。
一人目と五人目のセットは、「癲癇もちで元気」
なんだかわからない。
二人目と四人目のセットは、「子供が死んで、夫を殺した」
これは確かにセットであって、ようするに陰惨組である。
三人目セットは、「迷っていたが説得に従う」
そして、カラマーゾフの読者ならば既にご理解いただけたと思うが、
どうも一つ目の「癲癇もちで元気」なのは、
アリューシャに近いキャラクターである。
二つ目の「子供が死んで、夫を殺した」は、
イワンに近いキャラクターである。
実際には母が死んで父を殺した、となるのであるが。
三つ目は恐らく、ミーチャなのであろう。
小説の最後でミーチャは、シベリア送りになるところを、
アリューシャの説得で脱獄してアメリカに行こうとするし、
そのとき「俺は必ず戻ってくる」と宣言する。
この、物語の比較的最初の部分に出てくる、
五人の夫人の描写は、実に、
小説における三人の振る舞いを巧妙に暗示しており、
全編の雛形、あんちょこ、あるいは要約に近いものになっているのだ。
なんというか、ドストエフスキーの恐ろしいまでの構成力、筆力である。
もう少し詳しく見てゆく。
一人目は癲癇の女性。
二人目は子供が死んだ女性。
三人目は、失踪した息子に帰ってきて欲しくて、過去帳に息子の名を記載するかどうかゾシマに相談する。ゾシマに説得されてやめる。ゾシマは「近いうちに消息がある」と予言する。
四人目は夫を殺した女性。ゾシマに罪は許されると言われる。
五人目は元気な農婦。ゾシマにお金を渡して、ゾシマを喜ばせる。
居住地の僧院からの距離の区分により、
一人目と五人目は、ワンセットであり、
二人目と四人目はワンセットであり、
三人目は単独でセットをつくっていることが明らかになっている。
この3つのセットのそれぞれの属性を見てみる。
一人目と五人目のセットは、「癲癇もちで元気」
なんだかわからない。
二人目と四人目のセットは、「子供が死んで、夫を殺した」
これは確かにセットであって、ようするに陰惨組である。
三人目セットは、「迷っていたが説得に従う」
そして、カラマーゾフの読者ならば既にご理解いただけたと思うが、
どうも一つ目の「癲癇もちで元気」なのは、
アリューシャに近いキャラクターである。
二つ目の「子供が死んで、夫を殺した」は、
イワンに近いキャラクターである。
実際には母が死んで父を殺した、となるのであるが。
三つ目は恐らく、ミーチャなのであろう。
小説の最後でミーチャは、シベリア送りになるところを、
アリューシャの説得で脱獄してアメリカに行こうとするし、
そのとき「俺は必ず戻ってくる」と宣言する。
この、物語の比較的最初の部分に出てくる、
五人の夫人の描写は、実に、
小説における三人の振る舞いを巧妙に暗示しており、
全編の雛形、あんちょこ、あるいは要約に近いものになっているのだ。
なんというか、ドストエフスキーの恐ろしいまでの構成力、筆力である。
2009年5月19日火曜日
「カラマーゾフの兄弟」をよみとく 2
気になって第二編「場違いな会合」の、
長老と女性信者の面会シーンを詳しく見てみる。
長老は5人の一般女性と、
一人の貴婦人(とその娘)に面会する。
順を追ってみてゆくと、
一人目は癲狂やみで、ヒステリーを起こしている。
長老はストールをかけてやる。ヒステリーは治まる。
6キロくらい先の村に住んでいて、以前も来たことがあるらしい。
二人目は300キロ遠方から来た人で、
子供が死んでしまった悲しさに耐えられなくなり、
亭主をほうっておいてここに来た。
長老にさとされて、心が癒され、亭主が心配になって家に帰る。
そらきた。
いきなりこれだ。
これは絶対に臭い。
一人目が6キロ先に住んでいて、
二人目が300キロ遠方の人。
このキロ数だけでも、非常に意図的な匂いがプンプンする。
詳細すっとばして、
続けて住所から僧院への距離だけを注目する。
三人目はこの町の住民。
四人目は500キロ遠方。
五人目は6キロ。
ほら、完璧ではないか。
5人の庶民の女性信者たちの、
住所と僧院からの距離は、
意図的に対称的に設定されているのである。
一人目6キロ
二人目300キロ
三人目0キロ
四人目500キロ
五人目6キロ
300と500の違いこそあれど、
きれいに対称になっている。
一人目と五人目は対になっているし、
二人目と四人目は対になっている。
ちょっとしたエピソード的な目立たない箇所だけど、
ドストエフスキーはここまで考えて小説を書いていたのである。
長老と女性信者の面会シーンを詳しく見てみる。
長老は5人の一般女性と、
一人の貴婦人(とその娘)に面会する。
順を追ってみてゆくと、
一人目は癲狂やみで、ヒステリーを起こしている。
長老はストールをかけてやる。ヒステリーは治まる。
6キロくらい先の村に住んでいて、以前も来たことがあるらしい。
二人目は300キロ遠方から来た人で、
子供が死んでしまった悲しさに耐えられなくなり、
亭主をほうっておいてここに来た。
長老にさとされて、心が癒され、亭主が心配になって家に帰る。
そらきた。
いきなりこれだ。
これは絶対に臭い。
一人目が6キロ先に住んでいて、
二人目が300キロ遠方の人。
このキロ数だけでも、非常に意図的な匂いがプンプンする。
詳細すっとばして、
続けて住所から僧院への距離だけを注目する。
三人目はこの町の住民。
四人目は500キロ遠方。
五人目は6キロ。
ほら、完璧ではないか。
5人の庶民の女性信者たちの、
住所と僧院からの距離は、
意図的に対称的に設定されているのである。
一人目6キロ
二人目300キロ
三人目0キロ
四人目500キロ
五人目6キロ
300と500の違いこそあれど、
きれいに対称になっている。
一人目と五人目は対になっているし、
二人目と四人目は対になっている。
ちょっとしたエピソード的な目立たない箇所だけど、
ドストエフスキーはここまで考えて小説を書いていたのである。
2009年5月18日月曜日
「カラマーゾフの兄弟」をよみとく 1
高校生のころから何度も読んできた本なので、
何回目の通読かは覚えていないが、
おそらく10回目以上だったのだろう、
わたしがその、決定的なヒントらしきものに気が付いたのは、
第二編「場違いな会合」の中の一節を読んでいたときのことだった。
長老はカラマーゾフ家の会合を一時抜け出して、
信者の女性達に面会に行く。
そのなかの一人が、やたら暗く、陰惨で、印象的である。
「結婚生活はつらいものでした。
夫は年寄りで、それはひどくわたしを痛めつけしたものでございます、、、
そのとき、あの大それた考えが心に湧いたのでございます」
この女性は、自分につらくあたる夫を殺害してしまったのだ。
長老はまずいと思ったのか、声を低くさせる。
「待ちなされ」
長老は言うと、耳をまっすぐ彼女の口に近づけた。
女は低い声でささやきつづけたので、ほとんど何一つ聞きとれなかった。
「3年目になるのだね?」
長老はたずねた。
「3年目です」
長老は彼女を励まし、首の聖像を彼女にかけてやる。
彼女は無言のまま、地に付くほど低く一礼する。
なにかあるぞ、直感的にそう思った。
この小説は父殺しが主題であるし、
長老は「場違いな会合」の最後で、
ミーチャの足元に深い礼をする。
そのミーチャはつまり、父親殺しの容疑者になる。
この、長老と信者の女性達の面接は、
単なるエピソードでも状況描写でもなく、
カラマーゾフの兄弟全編を予言するかのように、
主題を暗示している箇所ではないだろうか?
つまりカラマーゾフの兄弟という小説は、
ロシア的にのんべんだらりんと長い小説ではなく、
緻密に構造が計算されたものなのではないだろうか。
そしてその構造の謎をとくヒントが、
第二編「場違いな会合」の中の、
この長老と女性信者たちの面会のシーンに隠されているのではないだろうか。
何回目の通読かは覚えていないが、
おそらく10回目以上だったのだろう、
わたしがその、決定的なヒントらしきものに気が付いたのは、
第二編「場違いな会合」の中の一節を読んでいたときのことだった。
長老はカラマーゾフ家の会合を一時抜け出して、
信者の女性達に面会に行く。
そのなかの一人が、やたら暗く、陰惨で、印象的である。
「結婚生活はつらいものでした。
夫は年寄りで、それはひどくわたしを痛めつけしたものでございます、、、
そのとき、あの大それた考えが心に湧いたのでございます」
この女性は、自分につらくあたる夫を殺害してしまったのだ。
長老はまずいと思ったのか、声を低くさせる。
「待ちなされ」
長老は言うと、耳をまっすぐ彼女の口に近づけた。
女は低い声でささやきつづけたので、ほとんど何一つ聞きとれなかった。
「3年目になるのだね?」
長老はたずねた。
「3年目です」
長老は彼女を励まし、首の聖像を彼女にかけてやる。
彼女は無言のまま、地に付くほど低く一礼する。
なにかあるぞ、直感的にそう思った。
この小説は父殺しが主題であるし、
長老は「場違いな会合」の最後で、
ミーチャの足元に深い礼をする。
そのミーチャはつまり、父親殺しの容疑者になる。
この、長老と信者の女性達の面接は、
単なるエピソードでも状況描写でもなく、
カラマーゾフの兄弟全編を予言するかのように、
主題を暗示している箇所ではないだろうか?
つまりカラマーゾフの兄弟という小説は、
ロシア的にのんべんだらりんと長い小説ではなく、
緻密に構造が計算されたものなのではないだろうか。
そしてその構造の謎をとくヒントが、
第二編「場違いな会合」の中の、
この長老と女性信者たちの面会のシーンに隠されているのではないだろうか。
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