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2021年4月30日金曜日

責任の処理方法の考察・2

 森鴎外が脚気の責任を取らなくてもよかったのは、

ひとえに山県有朋との関係による。

維新の元老の権力は今日からは想像もできないほどに強大なもので、

かつ一般人の知識も今日からは想像もできないひどに薄弱であった。


もしも今日のようなネット社会で、医者専門家が頻繁に主張を繰り返すのを、

一般人がたやすく閲覧できるならば、

森鴎外はあっという間に退職に追い込まれていただろう。


がしかし、当時はそんな社会ではなかった。

一般人が細菌説と栄養説の議論の行方を注視している、ということはなかった。

よっていかに国民に不利益なものであっても、

元老の利益になるならば、問題とされなかった。

無知にして我慢強い民であった。


もしも山縣が早く死んでいれば、森鴎外は責任をとらされるハメになっていただろう。

ところが長生きした。日露戦争の終結は1905年だが、山縣は1922年まで生きた、鴎外も後を追うように半年後に死に、脚気の死亡者の責任は誰も取らなかった。


もしも責任問題が山縣の権力を脅かす状況になったとしたらどうか。鴎外はすぐに切られただろう。山縣は「あれは森林太郎の責任だ」で切り捨てて全く自責の念にとらわれないひとである。


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