さて「幻想交響曲」は、その題の通り基本「幻想」の交響曲である。
主人公がアヘンを吸う。吸って幻覚を見る。
それが幻想交響曲である。
全5楽章は、すべてアヘンの夢である。
ということは、
堀辰雄の「風立ちぬ」という小説も、
全てが夢として創作されている、ということである。
全体が夢、全てが実態がないとすれば、
ここで描かれていることは、
この世の全て、世界の全てである可能性が高い。
(と、理論が飛躍しているように見える方をおられるだろうが、
芸術言語ではこういう思考回路はよくおこることなので、
そういうものだと思って先に進んでいただきたい。
世界の全て、宇宙の全てを描こうと思えば、
実生活からはまったくとりかかりの無い話なので、
全てが夢である、としか表現できないのである)
堀辰雄「風立ちぬ」の登場人物は基本3人で、
ほかにちょろちょろと数人人間登場するが、
父と娘、および作者である娘の婚約者(私)の3名の物語と見て大丈夫である。
さて、宮崎駿の「風立ちぬ」が、
はっきりとヨハネの黙示録を取り込んでいたことを思い出していただきたい。
おそらく堀辰雄も聖書を取り込んでいるはずである。
ならばおそらく、
父:主なる神
娘:子なるキリスト
私:精霊(言語情報として神の意思を伝える霊)ないし人類
という意味合いを持つことが類推される。
類推を補強するのは風立ちぬ(第三章)の記述である。
神経衰弱の患者が、縊死する。
縊死といえばマカベウスのユダである。
ユダも懊悩のあまり縊死した。
続く章、「冬」で、
娘は「私」が仕事にとりかかって娘との距離が遠ざかったこと、
および病態が悪化したことが原因で、
ふたりきりの生活をやめて、父の元に戻りたい、と言い出す。
そして娘はさらに病態を悪化させ、死にいたるのだが、
それはイエスの死である。
父の元に返るのである。
堀辰雄はここで、
日本の女性文学の伝統にのっとり、
イエスを女性として登場させているのである。
さらに全体の構造を考える。
物語は
「風立ちぬ、いざきめやも」で始まり、
娘が死んだ後、山奥の小屋で終わる。
「又どうかすると風の余りらしいものが、
私のあしもとでも二つ三つの落ち葉を他の落ち葉の上に
さらさらと弱い音を立てながら移している」
風が立って物語が始まり、
風が弱まりこそすれ、まだ残っている状況で物語は終わる。
ところで登場人物が父なる神とイエスならば、
これは世界の創造と発展の物語であるはずである。
風が立ち、世界が始まるのである。
風が弱まって、世界の終わりを暗示しながら小説が終わるのである。
http://tobifudo.jp/newmon/betusekai/hokai.htm
そう、風で世界が始まるのは、仏教思想である。
堀辰雄の「風立ちぬ」では、父は天地創造をしない。
天地創造のときに、若干自分の権利を主張するだけである。
(詳しくは
http://www.aozora.gr.jp/cards/001030/files/4803_14204.html
参照、
「もう二三日したらお父様がいらっしゃるわ」
というのがそれにあたる)
堀はここで、
仏教的天地創造神話のなかに、
新約聖書を入れ込む、という離れ業をやっているのである。
いわば仏教でキリスト教を包み込んでいる。
(ちなみに、離れ業をやっているから偉い、というわけではない。
私は依然として堀辰雄が嫌いである。
離れ業をやっている駄作なんぞいくらでもある。
「風立ちぬ」は駄作ではないが、万人に勧めたくなる傑作でもないと思う)
その意味で、太宰、坂口、あるいは遠藤周作などに先立ち、
キリスト教こそが西洋文明の根本であり、
西洋文明の克服にはキリスト教の超克こそが必要であると自覚した、
先端的な作家であったとは言えるだろう。
ページ
2013年12月29日日曜日
2013年12月28日土曜日
風立ちぬ・解説21
さてベルリオーズの幻想交響曲だが、
今日では「風立ちぬ」のような純文学にはふさわしくないような、
おおがかりで、少々B級な音楽と思われているが、
昭和初期だとそこらへんの感覚なくても仕方がない。
むしろ積極的に音楽を勉強している堀辰雄がほめられてしかるべきだろう。
「幻想交響曲」は5楽章に分かれる。
内容は、当時ベルリオーズが恋していた女優のスミスソンと、
出会い、再開し、野原で彼女への思いと猜疑にかられ、
結局刺殺してしまい断頭台へ送られ、
最終的に魔女の宴会で魔女の仲間になった彼女を発見する、
というひどい話である。
以下Wikiより
第1楽章「夢、情熱」 (Reveries, Passions)
彼はまず、あの魂の病、あの情熱の熱病、
あの憂鬱、あの喜びをわけもなく感じ、
そして、彼が愛する彼女を見る。
そして彼女が突然彼に呼び起こす火山のような愛情、
胸を締めつけるような熱狂、発作的な嫉妬、優しい愛の回帰、厳かな慰み。
第2楽章「舞踏会」 (Un bal)
とある舞踏会の華やかなざわめきの中で、彼は再び愛する人に巡り会う。
第3楽章「野の風景」 (Scene aux champs)
ある夏の夕べ、田園地帯で、
彼は2人の羊飼いが「ランツ・デ・ヴァッシュ」(Ranz des vaches)を吹き交わしているのを聞く。
牧歌の二重奏、その場の情景、風にやさしくそよぐ木々の軽やかなざわめき、
少し前から彼に希望を抱かせてくれているいくつかの理由[主題]がすべて合わさり、
彼の心に不慣れな平安をもたらし、彼の考えに明るくのどかな色合いを加える。
しかし、彼女が再び現われ、彼の心は締めつけられ、辛い予感が彼を突き動かす。
もしも、彼女に捨てられたら…… 1人の羊飼いがまた素朴な旋律を吹く。
もう1人は、もはや答えない。
日が沈む…… 遠くの雷鳴…… 孤独…… 静寂……
第4楽章「断頭台への行進」 (Marche au supplice)
彼は夢の中で愛していた彼女を殺し、死刑を宣告され、断頭台へ引かれていく。
行列は行進曲にあわせて前進し、その行進曲は時に暗く荒々しく、時に華やかに厳かになる。
その中で鈍く重い足音に切れ目なく続くより騒々しい轟音。
ついに、固定観念が再び一瞬現われるが、
それはあたかも最後の愛の思いのように死の一撃によって遮られる。
第5楽章「魔女の夜宴の夢」 (Songe d'une nuit du Sabbat)
彼はサバト(魔女の饗宴)に自分を見出す。
彼の周りには亡霊、魔法使い、あらゆる種類の化け物からなるぞっとするような一団が、彼の葬儀のために集まっている。
奇怪な音、うめき声、ケタケタ笑う声、遠くの叫び声に他の叫びが応えるようだ。愛する旋律が再び現われる。
しかしそれはかつての気品とつつしみを失っている。
もはや醜悪で、野卑で、グロテスクな舞踏の旋律に過ぎない。
彼女がサバトにやってきたのだ…… 彼女の到着にあがる歓喜のわめき声……
彼女が悪魔の大饗宴に加わる……
弔鐘、滑稽な怒りの日のパロディ。
サバトのロンド。
サバトのロンドと怒りの日がいっしょくたに。
以上ふまえた上で、幻想交響曲と風立ちぬを比較する
第1楽章「夢、情熱」(序曲)
特に共通点はない。
物語が始まるというだけである。
第2楽章「舞踏会」(春)
曲は快速な3拍子(ワルツ)である。
小説では主人公と婚約者はサナトリウムに移動する。
トニオ・クレーゲルでは第一主題が移動(行進)、
第二主題が踊りだったが、
ここでは同一ものとして扱われる。
堀はかなりトニオを参照している。
ちなみに、
トニオの邦訳が1927年
風立ちぬが1938年である。
いずれにせよ登場人物が活動的である、という意味では共通している。
第3楽章「野の風景」(風立ちぬ)
曲はゆっくりとした曲調。
小説もゆっくりしており、基本婚約者は寝たきりである。
第4楽章「断頭台への行進」 (冬)
行進なので、テンポはやめで、推進力をもって進む曲調である。
小説は、第三章で寝たきりの婚約者のそばに張り付いていた主人公が、
仕事(小説の構想を練る)ためにそこここらを散歩する。
ここも共通している
第5楽章「魔女の夜宴の夢」 (死のかげの谷)
曲はかなりグロテスク。
小説は大人しく、かなり共通していない。
ただ一つ注目すべき点は、
小説内で主人公が、リルケの「レクイエム」を読み始めることである。
曲のなかではグレゴリオ聖歌の「レクイエム」より、「怒りの日」のメロディーが流れる。
この点はあきらかに共通している。
というわけで、
対応関係はあまり明快ではないが
1、章の数が共通している
2、2,3,4章の性格が共通している
3、5章のレクイエムの部分が共通している。
ベルリオーズの「幻想交響曲」と、
堀辰雄の「風立ちぬ」は、
ほぼ有意な関係があると見てよいだろう。
もしも「美しい村」が明快な教会ソナタになっていなければ、
そこまで確信はもてないのだけれども。
今日では「風立ちぬ」のような純文学にはふさわしくないような、
おおがかりで、少々B級な音楽と思われているが、
昭和初期だとそこらへんの感覚なくても仕方がない。
むしろ積極的に音楽を勉強している堀辰雄がほめられてしかるべきだろう。
「幻想交響曲」は5楽章に分かれる。
内容は、当時ベルリオーズが恋していた女優のスミスソンと、
出会い、再開し、野原で彼女への思いと猜疑にかられ、
結局刺殺してしまい断頭台へ送られ、
最終的に魔女の宴会で魔女の仲間になった彼女を発見する、
というひどい話である。
以下Wikiより
第1楽章「夢、情熱」 (Reveries, Passions)
彼はまず、あの魂の病、あの情熱の熱病、
あの憂鬱、あの喜びをわけもなく感じ、
そして、彼が愛する彼女を見る。
そして彼女が突然彼に呼び起こす火山のような愛情、
胸を締めつけるような熱狂、発作的な嫉妬、優しい愛の回帰、厳かな慰み。
第2楽章「舞踏会」 (Un bal)
とある舞踏会の華やかなざわめきの中で、彼は再び愛する人に巡り会う。
第3楽章「野の風景」 (Scene aux champs)
ある夏の夕べ、田園地帯で、
彼は2人の羊飼いが「ランツ・デ・ヴァッシュ」(Ranz des vaches)を吹き交わしているのを聞く。
牧歌の二重奏、その場の情景、風にやさしくそよぐ木々の軽やかなざわめき、
少し前から彼に希望を抱かせてくれているいくつかの理由[主題]がすべて合わさり、
彼の心に不慣れな平安をもたらし、彼の考えに明るくのどかな色合いを加える。
しかし、彼女が再び現われ、彼の心は締めつけられ、辛い予感が彼を突き動かす。
もしも、彼女に捨てられたら…… 1人の羊飼いがまた素朴な旋律を吹く。
もう1人は、もはや答えない。
日が沈む…… 遠くの雷鳴…… 孤独…… 静寂……
第4楽章「断頭台への行進」 (Marche au supplice)
彼は夢の中で愛していた彼女を殺し、死刑を宣告され、断頭台へ引かれていく。
行列は行進曲にあわせて前進し、その行進曲は時に暗く荒々しく、時に華やかに厳かになる。
その中で鈍く重い足音に切れ目なく続くより騒々しい轟音。
ついに、固定観念が再び一瞬現われるが、
それはあたかも最後の愛の思いのように死の一撃によって遮られる。
第5楽章「魔女の夜宴の夢」 (Songe d'une nuit du Sabbat)
彼はサバト(魔女の饗宴)に自分を見出す。
彼の周りには亡霊、魔法使い、あらゆる種類の化け物からなるぞっとするような一団が、彼の葬儀のために集まっている。
奇怪な音、うめき声、ケタケタ笑う声、遠くの叫び声に他の叫びが応えるようだ。愛する旋律が再び現われる。
しかしそれはかつての気品とつつしみを失っている。
もはや醜悪で、野卑で、グロテスクな舞踏の旋律に過ぎない。
彼女がサバトにやってきたのだ…… 彼女の到着にあがる歓喜のわめき声……
彼女が悪魔の大饗宴に加わる……
弔鐘、滑稽な怒りの日のパロディ。
サバトのロンド。
サバトのロンドと怒りの日がいっしょくたに。
以上ふまえた上で、幻想交響曲と風立ちぬを比較する
第1楽章「夢、情熱」(序曲)
特に共通点はない。
物語が始まるというだけである。
第2楽章「舞踏会」(春)
曲は快速な3拍子(ワルツ)である。
小説では主人公と婚約者はサナトリウムに移動する。
トニオ・クレーゲルでは第一主題が移動(行進)、
第二主題が踊りだったが、
ここでは同一ものとして扱われる。
堀はかなりトニオを参照している。
ちなみに、
トニオの邦訳が1927年
風立ちぬが1938年である。
いずれにせよ登場人物が活動的である、という意味では共通している。
第3楽章「野の風景」(風立ちぬ)
曲はゆっくりとした曲調。
小説もゆっくりしており、基本婚約者は寝たきりである。
第4楽章「断頭台への行進」 (冬)
行進なので、テンポはやめで、推進力をもって進む曲調である。
小説は、第三章で寝たきりの婚約者のそばに張り付いていた主人公が、
仕事(小説の構想を練る)ためにそこここらを散歩する。
ここも共通している
第5楽章「魔女の夜宴の夢」 (死のかげの谷)
曲はかなりグロテスク。
小説は大人しく、かなり共通していない。
ただ一つ注目すべき点は、
小説内で主人公が、リルケの「レクイエム」を読み始めることである。
曲のなかではグレゴリオ聖歌の「レクイエム」より、「怒りの日」のメロディーが流れる。
この点はあきらかに共通している。
というわけで、
対応関係はあまり明快ではないが
1、章の数が共通している
2、2,3,4章の性格が共通している
3、5章のレクイエムの部分が共通している。
ベルリオーズの「幻想交響曲」と、
堀辰雄の「風立ちぬ」は、
ほぼ有意な関係があると見てよいだろう。
もしも「美しい村」が明快な教会ソナタになっていなければ、
そこまで確信はもてないのだけれども。
2013年12月27日金曜日
風立ちぬ・解説20
風立ちぬ
さて話題は堀辰雄の風立ちぬに戻る。
堀の「風立ちぬ」は
序曲
春(移動する)
風立ちぬ(病室の中)
冬(歩き回る)
死のかげの谷
の5章に分かれる。
春と冬が対応している。
ということは、序曲と死のかげの谷が対応していると見て間違いない。
「美しい村」のような音楽的構成のような気もするが、
5楽章構成の曲で、このような内容の音楽がじつはあまりない。
バロックの組曲で
序曲
アルマンド
クーラント
サラバンド
ジーグ
というのはあるにはある。
が、致命的なことに、
三楽章クーラントの速度が速く、四楽章サラバンドの速度が遅い。
序曲
アルマンド
クーラント(急)
サラバンド(緩)
ジーグ(急)
序曲とアルマンドが、中庸のペース
という感じになることが多く、
風立ちぬのように、
序曲
春(移動する=急)
風立ちぬ(病室の中=緩)
冬(歩き回る=急)
死のかげの谷
という三楽章がもっともまったりとした曲、という構成にはならない。
堀辰雄の「風立ちぬ」は、
第三章風立ちぬが中心となるものなので、
どうしても第三楽章がゆっくりとしていないと、
対応しているとは言えないのだ。
ベートーヴェンの田園交響曲は5楽章構成だが、
「田舎に到着したときの愉快な感情の目覚め」
「小川のほとりの情景」
「田舎の人々の楽しい集い」
「雷雨、嵐」
「牧歌 嵐の後の喜ばしい感謝の気持ち」
という順序であり、
第三楽章はかなりアップテンポの曲になっている。
したがって堀辰雄「風立ちぬ」の雛形にはなりえない。
マーラーの交響曲第五番も同様の理由で却下。
唯一対応していると言えるのが
ベルリオーズの幻想交響曲である。
かなりグロテスク系の音楽(特に終楽章)なのでムード的には遠いのだが、
対応関係としてはもっとも近い。
次回は幻想交響曲と堀辰雄「風立ちぬ」対応関係について
風立ちぬ・解説19
映画「風立ちぬ」解読のために、
堀辰雄「風立ちぬ」を解読せねばならず、
そのために堀辰雄「美しい村」を解読するために、
トーマス・マンの「トニオ・クレーゲル」を解読しようとして、
トニオが準拠しているソナタ形式の解説をようやく終わったところである。
以下トニオの構造解説
提示部
A:主人公歩く(学校の帰り道、男の友人と)
B:主人公踊りを見る(好きだが手の届かない女の子の踊りを)
展開部
A1:主人公人生を歩む
B1:主人公自説をくるくる回転的に熱弁する(知人の女性に馬鹿にされながら)
再現部
A:主人公旅をする(故郷と、北海への旅)
B:主人公踊りを見る(提示部と男の子と女の子は結婚していた!)
小説としての出来はかなりよい。
個人的には読んで楽しくないのだが
(文体がくどくて重い)、
崇拝者が出現するのもよくわかる出来である。
ご覧いただきたいのだが、
芸術の言語は通常言語と音楽にはさまれた位置に存在する。
芸術言語は明確な意味がない。
言葉を多義的に、あるいは無義的にさえしようする。
だからどうしても形式が必要になるのである。
小説家、物語作家のいくつかは、
このことを十分に自覚し、
音楽に使用される形式を文学に適用できないかと考えた。
堀辰雄もその一人であり、
堀のような言語一つ一つを多義的に、使うひとならば、
(音楽に近い言語を使うということだから)
なおさら形式が重要になってくる。
重複になるが以下「美しい村」の形式
序曲:過去の女性への手紙、散漫な内容
美しい村:フーガ。村の中を歩き回る。
夏:新しい女性との出会い、まったりとした時間
暗い道:その新しい女性との道行きの短い描写
(参照、教会ソナタの典型)
1楽章:ゆっくりとして、自由な曲
2楽章:フーガ。テンポは速め。
3楽章:ゆっくりとした歌うような曲
4楽章:早目のテンポの曲
これほど形式を重視する作家ということは、
逆に言えばこれほど形式を重視しなければならないほど、
多義的な言葉遣いをする作家ということである、
ということを説明したくて、長々と音楽形式の説明をしてきた。
さてここまできて、
堀辰雄の「風立ちぬ」への解説に向かえる。
堀辰雄「風立ちぬ」を解読せねばならず、
そのために堀辰雄「美しい村」を解読するために、
トーマス・マンの「トニオ・クレーゲル」を解読しようとして、
トニオが準拠しているソナタ形式の解説をようやく終わったところである。
以下トニオの構造解説
提示部
A:主人公歩く(学校の帰り道、男の友人と)
B:主人公踊りを見る(好きだが手の届かない女の子の踊りを)
展開部
A1:主人公人生を歩む
B1:主人公自説をくるくる回転的に熱弁する(知人の女性に馬鹿にされながら)
再現部
A:主人公旅をする(故郷と、北海への旅)
B:主人公踊りを見る(提示部と男の子と女の子は結婚していた!)
小説としての出来はかなりよい。
個人的には読んで楽しくないのだが
(文体がくどくて重い)、
崇拝者が出現するのもよくわかる出来である。
ご覧いただきたいのだが、
芸術の言語は通常言語と音楽にはさまれた位置に存在する。
芸術言語は明確な意味がない。
言葉を多義的に、あるいは無義的にさえしようする。
だからどうしても形式が必要になるのである。
小説家、物語作家のいくつかは、
このことを十分に自覚し、
音楽に使用される形式を文学に適用できないかと考えた。
堀辰雄もその一人であり、
堀のような言語一つ一つを多義的に、使うひとならば、
(音楽に近い言語を使うということだから)
なおさら形式が重要になってくる。
重複になるが以下「美しい村」の形式
序曲:過去の女性への手紙、散漫な内容
美しい村:フーガ。村の中を歩き回る。
夏:新しい女性との出会い、まったりとした時間
暗い道:その新しい女性との道行きの短い描写
(参照、教会ソナタの典型)
1楽章:ゆっくりとして、自由な曲
2楽章:フーガ。テンポは速め。
3楽章:ゆっくりとした歌うような曲
4楽章:早目のテンポの曲
これほど形式を重視する作家ということは、
逆に言えばこれほど形式を重視しなければならないほど、
多義的な言葉遣いをする作家ということである、
ということを説明したくて、長々と音楽形式の説明をしてきた。
さてここまできて、
堀辰雄の「風立ちぬ」への解説に向かえる。
2013年12月25日水曜日
風立ちぬ・解説18
前回堀辰雄の「風立ちぬ」を解読しようとして、
堀辰雄の「美しい村」に話がそれた。
「美しい村」は教会ソナタという形式で書かれており、
音楽の形式を踏襲して書かれた小説であった。
さらに寄り道だが、
音楽の形式を踏襲してかかれた小説の代表作としては、
トーマス・マンの「トニオ・クレーゲル」がある。
「トニオ・クレーゲル」はソナタ形式で書かれている。
「トニオ・クレーゲル」の説明の前に、
まずはソナタ形式の説明をする。
まず書かなきゃいけないことは、
古い、バッハの時代の「教会ソナタ」と、
新しいハイドン・モーツアルト以降の「ソナタ」は、
まったく別物であるということである。
はっきり言えば言葉の意味が混乱している。
バッハ以前は「ソナタ」は器楽曲、くらいの意味である。
ハイドン以降は「ソナタ」は、ソナタ形式の楽章を含む曲、という意味である。
ソナタ形式は、バッハ以前はあまりかかれなかった。
ソナタ形式は、ハイドン、モーツアルト、ベートーヴェンが発展させたと理解いただければOKである。
で、以下ソナタ形式の説明というか、
音楽の形式の説明である。
音楽の原初形態は、
(A)
である。
メロディー流れてはい終わり。
しかし人間はいくら才能があってもメロディー無限に創造できるわけではないから、
もっとリソースを大事に使いたいと考える。
そして次なる形式が考えられた。
(A+A)
そう、2回繰り返すのである。
単位時間あたりの手間が半分になる。
これでずいぶん楽になった。
空いた時間で、もう少し凝った構造にする。
(A+B+A)
Aのリピートの間に、違う要素を挿入する。
こうすると、同じAという素材を使った曲でも、
Bの中身を入れ替えれば、まったく違う局に出来る。
この手でさらにリピートする。
(A+B+A+B+A)
手間もかからず飽きない曲の出来上がりである。
さらにCという要素を入れて、さらに長い曲を作る。
(A+B+A+C+A+B+A)
ABCという3つのメロディーで、7単位時間埋めれた。
手間をかけずに、かつ飽きない曲が作曲できた。
こうやって、上手に労力を節約して曲を作ってきた。
さらに別のやりかたもある。
(A+A1+A2+A3)
変奏曲である。
一つのメロディーを微妙に変えて、何度も繰り返す。
これはメロディーを着想する手間は省けるが、
微妙に変える変え方が難しいから、頭が酷使される。
ただし曲としての統一感は最高である。なんせ基本同じメロディ-だから。
http://youtu.be/XQdqVeadhAY
リンクは「きらきら星変奏曲」。
メロディーを少しずつ変えて繰り返している。
「きらきら星変奏曲」はまあ名曲の部類だが、
変奏曲形式は時々、ものすごい名曲を生み出す。
頭にかかる負荷が半端ない分、
パワーのある作曲家は逆によい作品をつくれるのである。
たとえばバッハの「無伴奏ヴァイオリンのためのシャコンヌ」
「オルガンのためのパッサカリア」
「ゴールドベルク変奏曲」
ブラームスの「ハイドンの主題による変奏曲」
しかし、いつもいつもパワー前回というわけには、
人間いかないのである。
ちなみにバッハさんは2回の結婚で合計20人も子供をつくったくらいの、
それくらいの体力の持ち主でありましたことよ。
そんなわけで、作曲の歴史は作業効率化の歴史である。
なにか良いメロディーを思いついたとして、
そのメロディー(仮にAとする)を中心に、なるべく長い曲を書きたいのだが、
新しい要素を最小限に、
かつ頭を酷使せず、
かつ統一感を保つ形式はないものか。
そこでひねり出されたのがソナタ形式である。
(A+B + A1+B1 + A+B)
基本2つのメロディー(A+B)の繰り返しである。
AとBは基本的に、対照的なメロディーを使う。
Aが激しければ、Bはやさしいとか。
これで十分飽きがこないものになる。
そして途中に変奏を入れる。
頭を少々使うのである。
しかし変奏曲ほどは大変でなく、
かつ統一感も十分にある。
これがソナタ形式である。
変奏曲ほど手間がかからず、
かつなにやら知的でまとまった印象がある。
使いやすいので、作曲の必殺技として、
ハイドン、モーツアルト、ベートーヴェン、シューベルト、メンデルスゾーン、シューマン、ブラームスくらいまで、最優先の形式として使われてきた。
一般の方が耳にする交響曲はたいていソナタ形式の楽章を(多くは第一楽章として)含んでいる。
(特急の説明なので、聞いたら音楽学者は激怒するような説明だが、
一般的にはこれで十分な理解である)
ソナタ形式の説明で1回分終わった。
次回はいよいよ「トニオ・クレーゲル」解説。
堀辰雄の「美しい村」に話がそれた。
「美しい村」は教会ソナタという形式で書かれており、
音楽の形式を踏襲して書かれた小説であった。
さらに寄り道だが、
音楽の形式を踏襲してかかれた小説の代表作としては、
トーマス・マンの「トニオ・クレーゲル」がある。
「トニオ・クレーゲル」はソナタ形式で書かれている。
「トニオ・クレーゲル」の説明の前に、
まずはソナタ形式の説明をする。
まず書かなきゃいけないことは、
古い、バッハの時代の「教会ソナタ」と、
新しいハイドン・モーツアルト以降の「ソナタ」は、
まったく別物であるということである。
はっきり言えば言葉の意味が混乱している。
バッハ以前は「ソナタ」は器楽曲、くらいの意味である。
ハイドン以降は「ソナタ」は、ソナタ形式の楽章を含む曲、という意味である。
ソナタ形式は、バッハ以前はあまりかかれなかった。
ソナタ形式は、ハイドン、モーツアルト、ベートーヴェンが発展させたと理解いただければOKである。
で、以下ソナタ形式の説明というか、
音楽の形式の説明である。
音楽の原初形態は、
(A)
である。
メロディー流れてはい終わり。
しかし人間はいくら才能があってもメロディー無限に創造できるわけではないから、
もっとリソースを大事に使いたいと考える。
そして次なる形式が考えられた。
(A+A)
そう、2回繰り返すのである。
単位時間あたりの手間が半分になる。
これでずいぶん楽になった。
空いた時間で、もう少し凝った構造にする。
(A+B+A)
Aのリピートの間に、違う要素を挿入する。
こうすると、同じAという素材を使った曲でも、
Bの中身を入れ替えれば、まったく違う局に出来る。
この手でさらにリピートする。
(A+B+A+B+A)
手間もかからず飽きない曲の出来上がりである。
さらにCという要素を入れて、さらに長い曲を作る。
(A+B+A+C+A+B+A)
ABCという3つのメロディーで、7単位時間埋めれた。
手間をかけずに、かつ飽きない曲が作曲できた。
こうやって、上手に労力を節約して曲を作ってきた。
さらに別のやりかたもある。
(A+A1+A2+A3)
変奏曲である。
一つのメロディーを微妙に変えて、何度も繰り返す。
これはメロディーを着想する手間は省けるが、
微妙に変える変え方が難しいから、頭が酷使される。
ただし曲としての統一感は最高である。なんせ基本同じメロディ-だから。
http://youtu.be/XQdqVeadhAY
リンクは「きらきら星変奏曲」。
メロディーを少しずつ変えて繰り返している。
「きらきら星変奏曲」はまあ名曲の部類だが、
変奏曲形式は時々、ものすごい名曲を生み出す。
頭にかかる負荷が半端ない分、
パワーのある作曲家は逆によい作品をつくれるのである。
たとえばバッハの「無伴奏ヴァイオリンのためのシャコンヌ」
「オルガンのためのパッサカリア」
「ゴールドベルク変奏曲」
ブラームスの「ハイドンの主題による変奏曲」
しかし、いつもいつもパワー前回というわけには、
人間いかないのである。
ちなみにバッハさんは2回の結婚で合計20人も子供をつくったくらいの、
それくらいの体力の持ち主でありましたことよ。
そんなわけで、作曲の歴史は作業効率化の歴史である。
なにか良いメロディーを思いついたとして、
そのメロディー(仮にAとする)を中心に、なるべく長い曲を書きたいのだが、
新しい要素を最小限に、
かつ頭を酷使せず、
かつ統一感を保つ形式はないものか。
そこでひねり出されたのがソナタ形式である。
(A+B + A1+B1 + A+B)
基本2つのメロディー(A+B)の繰り返しである。
AとBは基本的に、対照的なメロディーを使う。
Aが激しければ、Bはやさしいとか。
これで十分飽きがこないものになる。
そして途中に変奏を入れる。
頭を少々使うのである。
しかし変奏曲ほどは大変でなく、
かつ統一感も十分にある。
これがソナタ形式である。
変奏曲ほど手間がかからず、
かつなにやら知的でまとまった印象がある。
使いやすいので、作曲の必殺技として、
ハイドン、モーツアルト、ベートーヴェン、シューベルト、メンデルスゾーン、シューマン、ブラームスくらいまで、最優先の形式として使われてきた。
一般の方が耳にする交響曲はたいていソナタ形式の楽章を(多くは第一楽章として)含んでいる。
(特急の説明なので、聞いたら音楽学者は激怒するような説明だが、
一般的にはこれで十分な理解である)
ソナタ形式の説明で1回分終わった。
次回はいよいよ「トニオ・クレーゲル」解説。
2013年12月23日月曜日
風立ちぬ・解説17
宮崎駿の映画「風立ちぬ」は、
堀辰雄の「風立ちぬ」を下敷きにしている、というより、
題名そのまんまである。
しかし、堀辰雄の「風立ちぬ」は、
宮崎の映画公開後も特に研究はされていないようである。
ネットで調べても、よくわかるレビューが出てこない。
理由は簡単である。
正直、面白くない小説だからである。
まず文体が悪い。
ものすごく読みにくい文体である。
内容もつかみにくい。
簡単な内容なのだが、文体が悪いせいで、
ものすごく把握しづらい。
といって、悪い小説とも言いづらい。
大変優れた部分も、あるにはあるからである。
とにかく下敷きである以上、
堀辰雄の「風立ちぬ」を理解しないことには、
宮崎の映画も理解できない、はずであるので、
いやいやながら読んだ。
短編小説「風立ちぬ」は、
5章に分かれている。
序曲
春
風立ちぬ
冬
死のかげの谷
の5部構成である。
構成に凝るのが堀辰雄の特徴のようである。
私は新潮文庫の風立ちぬを読んだのだが、
あわせて収録されている「美しい村」も、
同様に構成に凝っている。
序曲
美しい村
夏
暗い道
の4部構成になっている。
「美しい村」という小説の中の一部が
「美しい村」というタイトルになっていて、
かつそのなかで主人公は「美しい村「」という小説を、
書き進めている、というわけで、
入れ子構造というやつである。
そして、
第二章「美しい村」にはサブタイトルとして、
「或いは 小遁走曲(フーガ)」
と書かれている。
バッハの小フーガ ト短調 BWV 578のことである。
http://dtm-orchestra.com/little_fugue_in_g_minor.htm
中身は特に小説らしい話の展開はなく、
ただ単に主人公が村のあちこちを歩き回るというだけの話なのだが、
薔薇が、小鳥が、レエノルズさんが、天狗岩が、じいやが、子供が、少女が、
くりかえし登場してきて、
フーガで主題が繰り返される感じがしなくもない。
私も一応細かく分析してみたのだが、
フーガ的ではある。ただし、やはりフーガではない。
よく言って頑張って書いたフーガ風の文章である。
フーガというのは、カノン(輪唱)の発展したもので、
「かえるのうたが、きこえてくるよ」という歌をパートごとにずらして歌い始める、
あの形式と思ってさしつかえない。
フーガ、カノンの最大のポイントは、
ポリフォニー、つまり同時に複数のメロディーが演奏されることである。
一人が「きこえてくるよ」と歌うとき、
今一人は「かえるのうたが」と同時に歌っている。
しかし、文章でそれは不可能である。
だから小フーガをまねしたといっても、
まねしきれるものではなく、
単に読みにくい文章で、
エゴと環境がやたらと混濁し、
過去と現在がやたらと混濁するだけである。
「風立ちぬ」同様、面白いものではない。
しかし、全体の構成、4部構成というか、
冒頭に「序曲」とついている以上、
四楽章構成と言った方がよいだろう、
この構成自体は面白い。
4楽章構成で、2楽章がフーガとなると、
西洋音楽の分類では、典型的な「教会ソナタ」である。
「教会ソナタ」、たとえば無伴奏ヴァイオリンのためのソナタがそうなのだが、
1楽章:ゆっくりとして、自由な曲
2楽章:フーガ。テンポは速め。
3楽章:ゆっくりとした歌うような曲
4楽章:早目のテンポの曲
となる。
(教会ソナタの例
http://youtu.be/981I153BSXY)
それで堀辰雄の美しい村では、
序曲:過去の女性への手紙、散漫な内容
美しい村:フーガ。村の中を歩き回る。
夏:新しい女性との出会い、まったりとした時間
暗い道:その新しい女性との道行きの短い描写
となり、教会ソナタの緩急緩急をほぼ正確に写している。
このような、音楽形式の小説を、
トーマス・マンも書いているのだが、
それは次回。
2013年12月20日金曜日
在日問題
在日問題について読み解く
戦前コリアンと
戦後コリアンについて分割して考える。
戦前コリアンは大日本帝国臣民として来日し、
戦後ほとんどが半島に帰ったが、
一部が日本に残った。
戦後コリアンは密入国した人々だが、
特別永住権を与えられて合法的に存在している。
長らくマスコミで伝えられてきた話では、
「在日のほとんどは戦前強制連行でつれてこられた人々である」
というものだった。
誰が、こんな話を作ったのか?
そしてなぜ戦後密入国したコリアンを、合法的な存在に変えてしまったのか?
私見では原因は朝鮮戦争と、
済州島事件、保導連盟事件にある。
済州島事件、保導連盟事件はいずれも朝鮮戦争開始の前後から、
戦争停止しばらく後まで続いた、
韓国政府による、
韓国国民虐殺事件である。
当時は北朝鮮の力が強かったから、
韓国国内で共産主義勢力に汚染されたと思われた地域の住民を、
韓国政府は徹底的に虐殺した。
そして朝鮮戦争中、あるいは直後であったから、
米軍は事実上虐殺を黙認した。
戦後コリアンのうち多くは、
おそらくその虐殺を逃れてわたってきた人である。
米軍がそれを望めば、
かつ日本政府も半島の共産化をおそれている状況ならば、
日本政府はかれらの存在をなかったことにすることに、
やぶさかではないはずである。
なぜならば、
自国国民の虐殺があまり表ざたになれば、
大韓民国政府の半島支配の正統性が大きく損なわれて、
結果として北朝鮮に利益をもたらすからである。
北朝鮮は大量の自国国民を餓死させているが、
それは失政であり、意図的ではないと言い張ることも出来る。
中国の天安門事件は、あるいはチベット大虐殺は、
騒擾事件であり鎮圧したのだと、言い張ることもできる。
しかしどうも、済州島も保導連盟も、
無辜の民を大量に虐殺したようなのである。
これは、まったく言い開きの出来ない事件である。
推定数十万規模。
米軍も黙認していたとなれば、
米軍の正義も地に落ちる。
アメリカの東アジアの軍事プレゼンスの正当性にも大きく影響する事件である。
おそらく半島から撤退するしかなくなるのではないか。
だから、
「在日のほとんどは戦前強制連行でつれてこられた人々である」
という神話がでっちあげられた。
以上あくまで私見である。
さらに私見と続けるならば、
従軍慰安婦問題も、おそらく背景ににはこれら虐殺のカモフラージュ要求がある。
大躍進、文革のカモフラージュとして南京大虐殺が喧伝されるのと同根である。
では今後の展開はどうか?
1、仮に半島を韓国が統一し、中国と敵対するならば、
中国は上記事件を韓国の犯罪として言い立てるであろう。
2、仮に半島を韓国が統一し、中国と同盟を結ぶならば、
中国は上記事件を米軍の犯罪として言い立てるであろう。
3、半島情勢が現状維持のままならば、
北朝鮮に手を焼いている中国はなにも言い立てないであろう。
北朝鮮が戦略的にプロパガンダをしかける可能性はある。
若干左寄りになっている韓国社会が、自分で問題を掘り起こしてくる可能性もある。
それは米国との距離を遠ざける結果になる。
戦後コリアンにとって重要なのは、
自分たちの祖父、祖母が、
どのような経緯で渡航してきたのか、
しっかりと聞き取りの記録を残しておくことである。
この作業が運動として盛り上がる可能性は、
日米同盟、米韓同盟が堅持されているかぎりにおいて、
ほとんどゼロパーセントである。
一人ひとりで活動してゆくほかはない。
戦前コリアンと
戦後コリアンについて分割して考える。
戦前コリアンは大日本帝国臣民として来日し、
戦後ほとんどが半島に帰ったが、
一部が日本に残った。
戦後コリアンは密入国した人々だが、
特別永住権を与えられて合法的に存在している。
長らくマスコミで伝えられてきた話では、
「在日のほとんどは戦前強制連行でつれてこられた人々である」
というものだった。
誰が、こんな話を作ったのか?
そしてなぜ戦後密入国したコリアンを、合法的な存在に変えてしまったのか?
私見では原因は朝鮮戦争と、
済州島事件、保導連盟事件にある。
済州島事件、保導連盟事件はいずれも朝鮮戦争開始の前後から、
戦争停止しばらく後まで続いた、
韓国政府による、
韓国国民虐殺事件である。
当時は北朝鮮の力が強かったから、
韓国国内で共産主義勢力に汚染されたと思われた地域の住民を、
韓国政府は徹底的に虐殺した。
そして朝鮮戦争中、あるいは直後であったから、
米軍は事実上虐殺を黙認した。
戦後コリアンのうち多くは、
おそらくその虐殺を逃れてわたってきた人である。
米軍がそれを望めば、
かつ日本政府も半島の共産化をおそれている状況ならば、
日本政府はかれらの存在をなかったことにすることに、
やぶさかではないはずである。
なぜならば、
自国国民の虐殺があまり表ざたになれば、
大韓民国政府の半島支配の正統性が大きく損なわれて、
結果として北朝鮮に利益をもたらすからである。
北朝鮮は大量の自国国民を餓死させているが、
それは失政であり、意図的ではないと言い張ることも出来る。
中国の天安門事件は、あるいはチベット大虐殺は、
騒擾事件であり鎮圧したのだと、言い張ることもできる。
しかしどうも、済州島も保導連盟も、
無辜の民を大量に虐殺したようなのである。
これは、まったく言い開きの出来ない事件である。
推定数十万規模。
米軍も黙認していたとなれば、
米軍の正義も地に落ちる。
アメリカの東アジアの軍事プレゼンスの正当性にも大きく影響する事件である。
おそらく半島から撤退するしかなくなるのではないか。
だから、
「在日のほとんどは戦前強制連行でつれてこられた人々である」
という神話がでっちあげられた。
以上あくまで私見である。
さらに私見と続けるならば、
従軍慰安婦問題も、おそらく背景ににはこれら虐殺のカモフラージュ要求がある。
大躍進、文革のカモフラージュとして南京大虐殺が喧伝されるのと同根である。
では今後の展開はどうか?
1、仮に半島を韓国が統一し、中国と敵対するならば、
中国は上記事件を韓国の犯罪として言い立てるであろう。
2、仮に半島を韓国が統一し、中国と同盟を結ぶならば、
中国は上記事件を米軍の犯罪として言い立てるであろう。
3、半島情勢が現状維持のままならば、
北朝鮮に手を焼いている中国はなにも言い立てないであろう。
北朝鮮が戦略的にプロパガンダをしかける可能性はある。
若干左寄りになっている韓国社会が、自分で問題を掘り起こしてくる可能性もある。
それは米国との距離を遠ざける結果になる。
戦後コリアンにとって重要なのは、
自分たちの祖父、祖母が、
どのような経緯で渡航してきたのか、
しっかりと聞き取りの記録を残しておくことである。
この作業が運動として盛り上がる可能性は、
日米同盟、米韓同盟が堅持されているかぎりにおいて、
ほとんどゼロパーセントである。
一人ひとりで活動してゆくほかはない。
2013年12月16日月曜日
風立ちぬ・解説16
風立ちぬで今までに解析できたことは、
飲食7回
タバコ7回
鉄道7回ということである。
次に場所を見てみる。
物語の舞台が何箇所あるか、
東京内の場所の数をどうカウントするかになるが、
東京全域を1箇所とカウントするならば、
時系列で、
1、藤岡
2、東京
3、名古屋
4、各務原
5、デッソウ(ドイツ)
6、軽井沢
7、富士見(菜穂子のサナトリウム)
の7箇所になる。
これは映画のパンフレットにも明記されている。
場所が7箇所、
飲食7回、
タバコ7回、
鉄道7回、
となぜか7でまとめられている。
さて、前回コミック版ナウシカが、
「ヨハネの黙示録」を踏襲していると指摘したが、
ヨハネの黙示録では、
7つの教会へのメッセージを送り
7つの封印を開封し
7人の天使が7つのラッパを吹き
7人の天使が7つの鉢をぶちまける。
類似は明らかである。
風立ちぬもナウシカ同様に、
ヨハネの黙示録を踏襲している。
以下一覧表である。
風立ちぬ=ヨハネの黙示録
飲食7回
タバコ7回
鉄道7回ということである。
次に場所を見てみる。
物語の舞台が何箇所あるか、
東京内の場所の数をどうカウントするかになるが、
東京全域を1箇所とカウントするならば、
時系列で、
1、藤岡
2、東京
3、名古屋
4、各務原
5、デッソウ(ドイツ)
6、軽井沢
7、富士見(菜穂子のサナトリウム)
の7箇所になる。
これは映画のパンフレットにも明記されている。
場所が7箇所、
飲食7回、
タバコ7回、
鉄道7回、
となぜか7でまとめられている。
さて、前回コミック版ナウシカが、
「ヨハネの黙示録」を踏襲していると指摘したが、
ヨハネの黙示録では、
7つの教会へのメッセージを送り
7つの封印を開封し
7人の天使が7つのラッパを吹き
7人の天使が7つの鉢をぶちまける。
類似は明らかである。
風立ちぬもナウシカ同様に、
ヨハネの黙示録を踏襲している。
以下一覧表である。
風立ちぬ=ヨハネの黙示録
2013年12月14日土曜日
シュワの墓所について
アニメ版ナウシカは、
コミック版ナウシカの、
ごく一部に過ぎない。
そしてコミック版ナウシカの本質は、
キリスト教批判であり、キリスト教克服である。
ペリー来航で西洋文明に触れた日本人は、
大きなショックを受けた。
西洋文明を理解し、消化しようと努力を重ねるが、
彼我の能力差はあまりにも大きい。
深刻なコンプレックスを伴う苦闘の中で、
徐々に明らかになってきたことは、
巨大なる西洋文明の本質は、
科学技術ではなく、
科学技術の母体となったキリスト教であり、
聖書であるということである。
だいたい太宰治、坂口安吾のあたりから相手の正体は明らかになっていた。
太宰は「如是我聞」という文章でそのことについて触れており、
坂口は太宰死去に際に「不良少年とキリスト」という文章を発表している。
キリスト教との対峙はその後も続き、
遠藤周作の浄土真宗的キリスト教もそうだし、
漫画では諸星大二郎「生命の木 ぱらいそさいくだ」もその系列である。
宮崎駿もその系列に連なる。
コミック版ナウシカは、非常にバイブルを重要視して、
そこに強い批判を加えている。
(そのことについて、
クリスチャンであり、宮崎ファンでもある、
立花隆、佐藤優が本格的に議論しようとせず、
避けて通ろうとしているのは、まことに残念である)
巨大な生きた石の塊、「シュワの墓所」は、
バイブルのことである。
宮崎はこのコミック版ナウシカを、
「ヨハネの黙示録」を元に組み立てている。
大地の浄化に必要とされる1000年という期間は、
千年王国に対応する。
「ヨハネの黙示録」では千年王国出現の直前に、
「この世の支配者たちの上に君臨されるかた」が出現する。
その人物は「血染めの衣」をまとっている。
ナウシカの服がオームの血、のちにシュワの墓所の血で染まることに対応している。
旧約聖書の冒頭の創世記は、
天地の始まりを説き、
新約聖書の終結のヨハネの黙示録は、
天地のこれからを説く。
全ての時間は、バイブル二冊の中に封じ込まれている。
人間に許されるのはただ、
バイブルの解釈だけである。
全ては計算された出来事であり、
生きているのはバイブルのみであり、
全ての生物は生命のなかばをバイブルに奪われたままになっている。
ナウシカは、キリスト教が生んだ科学技術の産物である巨神兵、すなわち核兵器を用いて、
シュワの墓所を破壊する。
これが知性主義の結末であるというのだ。
キリスト教とナウシカ、両者の根源的な対立点を述べよう。
両者は生と死をどのように捉えるかで決定的な相違がある。
キリスト教では、死は敗北であり、悪いものであり、生と対立するものである。
ナウシカにとって、死は生と相互依存的なものである。
死があるからこそ生があり、両者は不可分である。
「ヨハネの黙示録」の最終章である第22章19に、
「また、もしこの預言の書の言葉をとり除く者があれば、神はその人の受くべき分を、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、とり除かれる」
とある。
ここで言う「いのちの木」とは、創世記に記されている、知恵の木とともにエデンの園に生えていた「生命の樹」であろう。
知恵の樹の実を食べてアダムとイブは知恵を得た。
生命の樹の実を食べれば永遠の生命を得られたのだが、
神はそれを恐れてアダムとイブを楽園から追放した。
「ヨハネの黙示録」は、そのエデンに回帰しようとする物語である。
しかしナウシカは、知恵の樹も、生命の樹も、エデンも拒否した。
太宰や坂口は、ナウシカに会ったら、なんと語りかけただろうか?
コミック版ナウシカの、
ごく一部に過ぎない。
そしてコミック版ナウシカの本質は、
キリスト教批判であり、キリスト教克服である。
ペリー来航で西洋文明に触れた日本人は、
大きなショックを受けた。
西洋文明を理解し、消化しようと努力を重ねるが、
彼我の能力差はあまりにも大きい。
深刻なコンプレックスを伴う苦闘の中で、
徐々に明らかになってきたことは、
巨大なる西洋文明の本質は、
科学技術ではなく、
科学技術の母体となったキリスト教であり、
聖書であるということである。
だいたい太宰治、坂口安吾のあたりから相手の正体は明らかになっていた。
太宰は「如是我聞」という文章でそのことについて触れており、
坂口は太宰死去に際に「不良少年とキリスト」という文章を発表している。
キリスト教との対峙はその後も続き、
遠藤周作の浄土真宗的キリスト教もそうだし、
漫画では諸星大二郎「生命の木 ぱらいそさいくだ」もその系列である。
宮崎駿もその系列に連なる。
コミック版ナウシカは、非常にバイブルを重要視して、
そこに強い批判を加えている。
(そのことについて、
クリスチャンであり、宮崎ファンでもある、
立花隆、佐藤優が本格的に議論しようとせず、
避けて通ろうとしているのは、まことに残念である)
巨大な生きた石の塊、「シュワの墓所」は、
バイブルのことである。
宮崎はこのコミック版ナウシカを、
「ヨハネの黙示録」を元に組み立てている。
大地の浄化に必要とされる1000年という期間は、
千年王国に対応する。
「ヨハネの黙示録」では千年王国出現の直前に、
「この世の支配者たちの上に君臨されるかた」が出現する。
その人物は「血染めの衣」をまとっている。
ナウシカの服がオームの血、のちにシュワの墓所の血で染まることに対応している。
旧約聖書の冒頭の創世記は、
天地の始まりを説き、
新約聖書の終結のヨハネの黙示録は、
天地のこれからを説く。
全ての時間は、バイブル二冊の中に封じ込まれている。
人間に許されるのはただ、
バイブルの解釈だけである。
全ては計算された出来事であり、
生きているのはバイブルのみであり、
全ての生物は生命のなかばをバイブルに奪われたままになっている。
ナウシカは、キリスト教が生んだ科学技術の産物である巨神兵、すなわち核兵器を用いて、
シュワの墓所を破壊する。
これが知性主義の結末であるというのだ。
キリスト教とナウシカ、両者の根源的な対立点を述べよう。
両者は生と死をどのように捉えるかで決定的な相違がある。
キリスト教では、死は敗北であり、悪いものであり、生と対立するものである。
ナウシカにとって、死は生と相互依存的なものである。
死があるからこそ生があり、両者は不可分である。
「ヨハネの黙示録」の最終章である第22章19に、
「また、もしこの預言の書の言葉をとり除く者があれば、神はその人の受くべき分を、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、とり除かれる」
とある。
ここで言う「いのちの木」とは、創世記に記されている、知恵の木とともにエデンの園に生えていた「生命の樹」であろう。
知恵の樹の実を食べてアダムとイブは知恵を得た。
生命の樹の実を食べれば永遠の生命を得られたのだが、
神はそれを恐れてアダムとイブを楽園から追放した。
「ヨハネの黙示録」は、そのエデンに回帰しようとする物語である。
しかしナウシカは、知恵の樹も、生命の樹も、エデンも拒否した。
太宰や坂口は、ナウシカに会ったら、なんと語りかけただろうか?
2013年12月12日木曜日
物語作家
1600年の日本の人口は、
1200万~2200万くらいと推定されている。
キリシタン人口は75万あったのではないかと、推定されている。
(いずれも論拠不確か)
少なく見積もって3%くらいはキリシタンだった。
今日日本の人口1億2000万
クリスチャン人口、多く見積もって1%の120万である。
江戸時代より前のキリスト教布教は成功し、
明治以降のキリスト教不況は失敗した。
その間になにがあったか。
識字化である。
江戸時代、侍以下多くの人々が、
読み書きそろばんをマスターした。
寺子屋が全国に広がった。
それでなにがおこったか。
物語の充実である。
文字の読み書きをすれば、
抽象思考能力が高まり、
物語咀嚼能力が高まる。
高まった能力は、対象を求める。
識字化により物語需要が増大した。
そして需要あれば供給があるものである。
江戸以前の物語、
記紀、源氏、平家、太平記も人々に広がったし、
新たに多くの物語が製作された。
代表的なものは、たとえば忠臣蔵、近松の心中物、八犬伝。
最後のものは中国の水滸伝がもとだが、
前二者はオリジナルである。
ここで前二者がいずれも主人公が死ぬ話であるということを覚えておいていただきたい。
かくて日本では、物語に充足した。
あらたに物語群を加える必要性がなくなった。
明治維新後、バイブルという物語の流布が再開されても、
すでに市場に余地はほとんど無かったのである。
東アジアでもっともクリスチャンの比率の多いのは、
1にフィリピン、2に韓国
いずれも自前の物語群の脆弱な国である。
これをもってしても日本の江戸期の物語の充実が、
(ひらかなの読みやすさからの流布力とあいまって)
相当な水準だったことが見て取れる。
そして明治以降も物語の生産は続いた。
円朝、漱石、鴎外、龍之介以下、連綿と続く。
物語を生産するのは作家に限らない。
溝口、小津、黒澤も膨大な数の物語を生産してきた。
宮崎駿はその最たるものであり、
影響力という観点ではおそらく、
一人で明治以降のすべての作家、映画作家の合算に匹敵するだろう。
では日本史上過去最大の物語作家は誰か。
私見では、大西瀧次郎である。
神風特攻隊の創始者である。
大西は文筆家でも映像作家でもなかったが、
軍事技術と、
膨大な予算と、
多くの若者の命と、
自分自身の命さえつぎ込んで、物語を作った。
「この戦争は勝てぬかもしれぬ。
ここで青年が起たなければ、日本は滅びますよ。
しかし、青年たちが国難に殉じていかに戦ったかという歴史を記憶する限り、日本と日本人は滅びないのですよ」
大西は知っていた。
国家、国民というものは、観念的、抽象的な存在であり、
物語によって作られ、維持されるものであり、
最高のシーン、最高の設備、最高の出演者をそろえれば、
最高の物語が描け、それが未来永劫受け継がれてゆくことを。
この物語、なにしろかけたコストが桁違いである。
これ以上の大作のクランクインは、今後数百年は不可能であろう。
その上江戸期の物語、
忠臣蔵(切腹するために戦闘する)、
心中物(死に向かう道が美しく描かれる)の価値観を十分踏まえ、
楠、真田のような歴史上の事件も背景として持つ。
戦況不利という必要に迫られたとはいえ、
なんとも上手に物語を作ったものである。
伝統的にみても、市場のニーズ的にみても、
最強の物語が出来上がってしまった。
この特攻隊の物語を、以降便宜上「大西物語」と呼ぶ。
戦後、この大西物語にいくつもの疑問が呈されてきた。
最低の作戦だ、犬死だ、無駄な死だ。
おしゃれで、スマートで、理論的には正しい意見である。
しかし当然ながらそれらの言説は、
大西物語ほどの予算をつぎ込めなかった。
今日で言えば、ハリウッド超大作と、自家撮り料理動画のYoutubeにアップくらいの、
絶望的なコストの差がある。
いくら頭をひねっても、
それだけ予算に差があれば、視聴者への説得力という点では勝負にならない。
だからいずれもそれを覆すほどの力は無く、
時が経つにつれ大西物語の力はますます大きくなってとどまるところを知らない。
あしたのジョー、ヤマト、ガンダム、スラムダンク、永遠のZero、
なぜそれらの物語が「泣ける」のか。
大西物語だからである。
大西を除けば明治以降最大の作家と言える宮崎駿も、
大西物語の手のひらの上にいる。
「ここが玉座ですって?
ここは墓場よ、あなたと私の。
あなたは外に出ることも出来ずに私といっしょにここで死ぬの」
大人しそうな少女の骨の髄まで、
特攻精神は浸透しているのである。
実際に特攻隊をアニメに登場させて、
それが引退作品なのである。
おそらく私たち日本人は、
この物語から抜け出せまい。
これ以上にコストがかかる作品が、製作不能だからである。
「青年たちが国難に殉じていかに戦ったかという歴史を記憶する限り、日本と日本人は滅びないのですよ」
まったくそのとおり。
滅びないといっても良いし、滅ぼせないといっても良い。
滅ぼすためには大西物語より説得力のある物語の製作が必要である。
当然大西物語以上の製作コストをかけなければならない。
そのコストの最低ラインは、
主演級俳優の死亡1万人以上、
一般出演者死亡300万人、
原爆2発を含む全国焦土化、
物語製作者は完成時に切腹。
1200万~2200万くらいと推定されている。
キリシタン人口は75万あったのではないかと、推定されている。
(いずれも論拠不確か)
少なく見積もって3%くらいはキリシタンだった。
今日日本の人口1億2000万
クリスチャン人口、多く見積もって1%の120万である。
江戸時代より前のキリスト教布教は成功し、
明治以降のキリスト教不況は失敗した。
その間になにがあったか。
識字化である。
江戸時代、侍以下多くの人々が、
読み書きそろばんをマスターした。
寺子屋が全国に広がった。
それでなにがおこったか。
物語の充実である。
文字の読み書きをすれば、
抽象思考能力が高まり、
物語咀嚼能力が高まる。
高まった能力は、対象を求める。
識字化により物語需要が増大した。
そして需要あれば供給があるものである。
江戸以前の物語、
記紀、源氏、平家、太平記も人々に広がったし、
新たに多くの物語が製作された。
代表的なものは、たとえば忠臣蔵、近松の心中物、八犬伝。
最後のものは中国の水滸伝がもとだが、
前二者はオリジナルである。
ここで前二者がいずれも主人公が死ぬ話であるということを覚えておいていただきたい。
かくて日本では、物語に充足した。
あらたに物語群を加える必要性がなくなった。
明治維新後、バイブルという物語の流布が再開されても、
すでに市場に余地はほとんど無かったのである。
東アジアでもっともクリスチャンの比率の多いのは、
1にフィリピン、2に韓国
いずれも自前の物語群の脆弱な国である。
これをもってしても日本の江戸期の物語の充実が、
(ひらかなの読みやすさからの流布力とあいまって)
相当な水準だったことが見て取れる。
そして明治以降も物語の生産は続いた。
円朝、漱石、鴎外、龍之介以下、連綿と続く。
物語を生産するのは作家に限らない。
溝口、小津、黒澤も膨大な数の物語を生産してきた。
宮崎駿はその最たるものであり、
影響力という観点ではおそらく、
一人で明治以降のすべての作家、映画作家の合算に匹敵するだろう。
では日本史上過去最大の物語作家は誰か。
私見では、大西瀧次郎である。
神風特攻隊の創始者である。
大西は文筆家でも映像作家でもなかったが、
軍事技術と、
膨大な予算と、
多くの若者の命と、
自分自身の命さえつぎ込んで、物語を作った。
「この戦争は勝てぬかもしれぬ。
ここで青年が起たなければ、日本は滅びますよ。
しかし、青年たちが国難に殉じていかに戦ったかという歴史を記憶する限り、日本と日本人は滅びないのですよ」
大西は知っていた。
国家、国民というものは、観念的、抽象的な存在であり、
物語によって作られ、維持されるものであり、
最高のシーン、最高の設備、最高の出演者をそろえれば、
最高の物語が描け、それが未来永劫受け継がれてゆくことを。
この物語、なにしろかけたコストが桁違いである。
これ以上の大作のクランクインは、今後数百年は不可能であろう。
その上江戸期の物語、
忠臣蔵(切腹するために戦闘する)、
心中物(死に向かう道が美しく描かれる)の価値観を十分踏まえ、
楠、真田のような歴史上の事件も背景として持つ。
戦況不利という必要に迫られたとはいえ、
なんとも上手に物語を作ったものである。
伝統的にみても、市場のニーズ的にみても、
最強の物語が出来上がってしまった。
この特攻隊の物語を、以降便宜上「大西物語」と呼ぶ。
戦後、この大西物語にいくつもの疑問が呈されてきた。
最低の作戦だ、犬死だ、無駄な死だ。
おしゃれで、スマートで、理論的には正しい意見である。
しかし当然ながらそれらの言説は、
大西物語ほどの予算をつぎ込めなかった。
今日で言えば、ハリウッド超大作と、自家撮り料理動画のYoutubeにアップくらいの、
絶望的なコストの差がある。
いくら頭をひねっても、
それだけ予算に差があれば、視聴者への説得力という点では勝負にならない。
だからいずれもそれを覆すほどの力は無く、
時が経つにつれ大西物語の力はますます大きくなってとどまるところを知らない。
あしたのジョー、ヤマト、ガンダム、スラムダンク、永遠のZero、
なぜそれらの物語が「泣ける」のか。
大西物語だからである。
大西を除けば明治以降最大の作家と言える宮崎駿も、
大西物語の手のひらの上にいる。
「ここが玉座ですって?
ここは墓場よ、あなたと私の。
あなたは外に出ることも出来ずに私といっしょにここで死ぬの」
大人しそうな少女の骨の髄まで、
特攻精神は浸透しているのである。
実際に特攻隊をアニメに登場させて、
それが引退作品なのである。
おそらく私たち日本人は、
この物語から抜け出せまい。
これ以上にコストがかかる作品が、製作不能だからである。
「青年たちが国難に殉じていかに戦ったかという歴史を記憶する限り、日本と日本人は滅びないのですよ」
まったくそのとおり。
滅びないといっても良いし、滅ぼせないといっても良い。
滅ぼすためには大西物語より説得力のある物語の製作が必要である。
当然大西物語以上の製作コストをかけなければならない。
そのコストの最低ラインは、
主演級俳優の死亡1万人以上、
一般出演者死亡300万人、
原爆2発を含む全国焦土化、
物語製作者は完成時に切腹。
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